そこで今度は、第十八願には十念の他に
「至心・信楽・欲生」
という三心が誓われているのですが、阿弥陀仏が本願に誓われている三心とはどのような意味かということになります。
このことについて、親鸞聖人はとても詳しく説明をしておられます。
それが『教行信証』
「信巻」
の中心思想ともいうべき三一問答の根本問題になります。
(9)如来、清浄の真心を以て円融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。
如来の至心を以て、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に廻施したまへり。
則是、利他の真心を彰はす。
故に疑蓋雑ること無し。
斯の至心は即是、至徳の尊号を其の体とせるなり。(「教行信証」)
(10)信楽と言ふは、即是、如来の満足大悲円融無碍の信心海なり。
是の故に疑蓋雑有ること無し。
故に信楽と名づく。
則ち利他廻向の至心を以て、信楽の体とするなり。(「教行信証」)
(11)欲生と言ふは、即是、如来諸有の群生海を招喚したまふの勅命なり。
則ち真実の信楽を以て、欲生の体とするなり。
…利他真実の欲生心を以て、諸有海に廻施したまへり。
欲生即是廻向心なり。
斯れ則ち大悲心なるが故に、疑蓋雑ること無し。(「教行信証」)
(12)「至心信楽」
といふは、至心は真実とまふすなり。
真実とまふすは如来の御ちかひの真実なるを至心とまふすなり。
煩悩具足の衆生はもとより真実の心なし、清浄の心なし。
濁悪邪見のゆへなり。
信楽といふは、如来の本願真実にましますを、ふたごころなくふかく信じてうたがはざれば信楽とまふす也。
この至心信楽はすなわち十方の衆生をして、わが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまへる御ちかひの至心信楽也。
凡夫自力のこころにはあらず。
「欲生我国」
といふは、他力の至心信楽のこころをもて安楽浄土にむまれむとおもへと也。(「尊号真像銘文」)
(9)(10)(11)は『教行信証』、(12)は『尊号真像銘文』で、本願の三心について解釈を施しておられる箇所です。
ところで、この三心とは何かということになるのですが、この三心もまた親鸞聖人は、阿弥陀仏が衆生を救うために発起されたものであると解釈しておられます。
(9)では、
「如来、清浄の真心を以て円融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。
如来の至心を以て、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に廻施したまへり。
則是、利他の真心を彰はす。
故に疑蓋雑ること無し。
斯の至心は即是、至徳の尊号を其の体とせるなり。」
と述べておられます。
この場合
「至心」
とは、如来の真実心を意味します。
親鸞聖人の場合、本願の至心は如来の真実心だということで、統一されています。
それは、阿弥陀仏は衆生を救うために真実心を起こされているということです。
この点を『無量寿経』では、法蔵菩薩が無限の時間をかけて、その真実心を成就すると説かれているのですが、阿弥陀仏が衆生を救うために、その真実心を衆生の心にあらわされるのです。
けれどもその時、至心という心は姿がありませんから、至心そのものは衆生には見えません。
そこでその真実心があらわれた姿が、名号になるのです。
したがって、南無阿弥陀仏という名号を私が称えているということは、阿弥陀仏が自らの真実心をこの私の心にあらわしたということになるのです。
つまり、至心とは阿弥陀仏の真実心であり、同時にその心の働きそのものなのです。
本願の三心の中の
「至心」
は、阿弥陀仏の真実心の働きだと解されます。
それに対して、信楽の意味が(10)に説かれています。
では、信楽とは何でしょうか。
「これすなはち如来の満足大悲円融無碍の信心海なり」
と述べられていますから、信楽そのものがまた、阿弥陀仏の心になります。
だからこそ、この心は疑蓋が雑わることがないのです。
その疑蓋が雑わることのない心を
「信楽」
と名付けるのです。
そして
「利他廻向の至心を以て信楽の体とす」
と表現されます。
南無阿弥陀仏という称名は、阿弥陀仏の真実心の躍動の姿なのですが、その阿弥陀仏の真実心こそが、阿弥陀仏自身の喜びの心、悟りの心です。
だとすれば、その満足大悲円融無碍の信心海が、そのまま南無阿弥陀仏になります。
そこで、弥陀の大悲心が衆生の心を破って、衆生の心に充ち満ちている事態が、私たちが南無阿弥陀仏を称えている姿になるのです。
欲生も同じです。
こでは、
「如来、諸有の群生を招喚したまふの勅命」
と述べられ、
「則ち真実の信楽を以て、欲生の体とする」
と説かれていますから、如来の喜び、信楽がそのまま阿弥陀仏の喚び声だと、親鸞聖人はとらえておられます。