『人は独りでは生きられない』

以前、ある新聞に

「電車の中で、女性がお化粧をすることをどう思いますか」

ということについて、二人の方(男性と女性)が対談をされた内容が掲載されていました。

先ず男性の方が、若い人がこのごろ電車の中で平気でお化粧をしている姿を見ると、私たちの社会から

「恥じらい」

という感覚や言葉は消え去ってしまったのだろうか…と、感性の喪失を憂える気持ちを率直に述べられました。

それに対して女性の方が、電車の中でお化粧をすることが気にならない理由は

「基本的には、周りの方を人とは思っていませんから」

と応えられました。

重ねて

「でも、好きな人の前では化粧はしません。

会う前に完成させておきたいと思います。

でも、その途中で出会う人は自分の人生には何も関係がありません。

いわば風景のような自分にとっては意識外のものなんです」と。

つまり、周囲の人を

「人とは思っていません」と言われるのです。

さらに

「だいたい

『電車の中は公の場なのだから、そのような意識を持った上でみんなが振る舞わなくてはならい』

というのはおかしい。

公の中に、それぞれが自分の空間を持って、そこでは当然自分の好きなことをしてよいのではないか。」

また

「暗黙の了解でつくっている個人の空間をジロジロと見る方こそ、むしろマナー違反ではありませんか」

とまで主張しておられました。

けれども

「自分に関係のない人は、たとえ隣り合わせても風景と同じ。

人とは思わない。」

というような社会においては、

「いのちのぬくもり」

というものを人々が持ち得るとは思えません。

確かに、若くて元気な間は、あるいは他に迷惑をかけないかぎり

「それぞれに自分の好きなことをする」

ということで良いのかもしれませんが、これはバリアフリ−を推進して行こうとする考え方とは対極をなすものだといえます。

いろんなハンディを持っている人にとっては、周りの人が自分を風景としてしか見てくれない、関係がないから…と、何の関心も寄せてくれないということになりますと、これはまことに寂しい社会だといえます。

一般に、動物にはテリトリーがあるといわれています。

「ここは自分のナワバリだ」

ということを自分のにおいを刷り込んで、主張して、たとえ同じ仲間であってもそこに他のものが侵入してきたら、争ってでも追い出すということがあります。

そうしますと、電車の中で平気でお化粧が出来てしまうのは、電車の中でも街角でも、そこに自分のテリトリーを持ち込んで、まるで自分の部屋にいるのと同じ感覚や態度で、同じことが出来てしまうからではないでしょうか。

けれども、まさにこれは人間の動物化現象の表れだといえます。

言い換えると、非人間化の現象が顕在化していることの象徴的出来事だといえます。

自分と自分の仲間だけを受け入れて、関係ないもの、あるいは自分の気分に反するものを受け止めて行く力が衰えてしまっているのが、今の私たちの姿だといえます。

しかしながら、そこには人間としてのぬくもりなど、全く感じられません。

人と人の間を生きるからこそ、私たちは「人間」なのです。

人間は、決して独りきりでは生きられません。

経典に

「お互いに敬愛して生きなさい」

という言葉がありますが、私たちは多くいのちに支えられて生きていることを心に留めて、周囲の人たちとの出会いやご縁を大切にしていきたいものです。