投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

『お盆仏縁を喜び合う』

今年も夏がやってきました。

半年前は待ち遠しかった夏も、来てみると秋が待ち遠しくなる私です。

さて、お寺の夏といえばお盆です。

盂蘭盆会といったりもします。

それは、お盆はお釈迦さまの弟子であった目連尊者が亡くなった母親が餓鬼道に落ちているのを知り苦しんでいたところをお釈迦さまの導きにより、修行僧をもてなすことで救ったという盂蘭盆経の故事に始まるためです。

でも、浄土真宗のお寺ではお盆、盂蘭盆会という言い方とともにこの仏事には

「歓喜会」

という言い方があることをご存知ですか。

盂蘭盆会とは最も苦しい状況を意味する言葉ですが、浄土真宗ではそれをご縁として仏法に出会うことができ、苦しみが喜びに転ずるということで

「歓喜会」

というのです。

けれども、大切な方を一年以内に亡くされて、今年初盆をお迎えの方々には、

「何を歓喜するようなことがあろうか」

と思われるかもしれません。

確かに、そのようなこともありましょうが、初盆の法要というご縁を頂いたことは、先立ちゆける方からのご縁に違いありません。

それを更に悲しみにひたるご縁と感じられるのか、それとも仏さまに手を合わせるご縁、仏法を聴聞する尊いご縁を受け取られるのかの違いではないでしょうか。

毎年繰り返されるお盆(歓喜会)ではありますが、手を合わせ聴聞するご縁をいただけたことに歓喜申していける、そんなご縁につなげたいものです。

親鸞聖人は

「歓喜」

という言葉を

「歓はみをよろこばしむ、喜はこころをよろこばしむとなり」

と、説いておられます。

「親鸞聖人の仏身・仏土観」(8月前期)

この

「行信に帰命する」

ということは、衆生がはからいを捨てて、

「南無阿弥陀仏とたのむ」

ことにほかなりません。

ここに衆生が、阿弥陀という真如との法と一体になっている姿がありますが、それは同時に、弥陀が

「行者のよからんとも、あしからんともおもは」

ないで、そうするためにはからわれている姿でもあります。

そうしますと、阿弥陀がこのように帰命する衆生を攝取しないはずはありません。

だからこそ、このような衆生を、攝取して捨てたまわない仏を、

「阿弥陀」

となづけたてまつるのです。

ここに衆生のはからいなど入る余地は絶対にありません。

そこで、この称名念仏の法理を『歎異抄』の第八条は

「念仏は行者のためには非行非善なり」

と説きます。

念仏は、行者が何々のために行じる行為ではなくて、

「南無阿弥陀仏」

の音声が、弥陀のはからいそのものだからです。

『教行信証』

「信巻」

には、この弥陀と衆生の関係が、より詳細に次のように説かれています。

凡そ大信海を案ずれば、貴賤緇素を簡ばず。

男女老少を簡ばず。

造罪の多少を簡ばず。

修行の久近を論ぜず。

行に非ず善に非ず。

頓に非ず漸に非ず。

定に非ず散に非ず。

正観に非ず邪観に非ず。

有念に非ず無念に非ず。

尋常に非ず臨終に非ず。

多念に非ず一念に非ず。

唯これ不可思議不可称不可説の信楽なり。

喩えば阿伽陀薬のよく一切の毒を滅するがごとし。

如来の誓願の薬は、よく智愚の毒を滅するなり。

この文で、大信海のはたらきに関しては、二重の構造が見られます。

「大信海」

という如来の心の働きと、その

「大信海」

に対する衆生の心の働きが、同時に語られているからです。

前者では

「簡ばず。

謂はず。

問はず。

論ぜず。

と述べられ、後者で

「…非ず。

…非ず。

と語られています。

前者は、

「自然法爾」

の文に見られる

「行者のよからんとも、あしからんともおもはぬ」

に重なっています。

この文は、阿弥陀仏の

「御ちかひ」

について、弥陀のはからいはただ

「南無阿弥陀仏とたのませたまひてむかへん」

ということであって、その行者の善悪は問題にしないとされています。

この阿弥陀仏の大悲の心が、より具体的に

「大信海」

の釈で語られているのです。

「貴賤緇素・男女老少・造罪の多少・修行の久近」

は、人間社会にみる差別構造の根本原因になる諸要素ですが、阿弥陀仏の本願は、その救いにこれらの要因の一切を、全く問題にしません。

それは、人間社会では、人々はこれらの差別の構造の中で迷い苦しみ歎き悲しむですが、その衆生の全体を無条件で平等に救うはたらきこそが、この弥陀の

「大信海」

だからです。

「がんとともに生きる」(上旬)「晴天の霹靂(へきれき)だった」27歳のがん告知

======ご講師紹介======

三好綾さん(NPO法人がんサポート鹿児島理事長)

☆演題 「がんとともに生きる」

昭和50年、鹿児島県薩摩川内市に生まれ。

国立長崎大学教育学部卒業。

平成14年4月、27歳のときに乳がんを告知され右胸を全摘出。

その翌年には、著書『乳がんなんてやっつけろ!!』を発刊。

その後、NPO法人ピンクリボンかごしまの事務局長に就任。

平成19年に、現在全部位のがん患者会、現在のがんサポート鹿児島の代表に就任。

また、ホームページ『うずの乳がんなんてやっつけろ!』管理人として、乳がんとたたかう患者や家族のネットワーク作りなどに尽力しておられます。

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私は、27歳のとき乳がんになりました。

当時、私は息子の授乳中だったんですが、あるとき右側のおっぱいの脇のところにしこりを見つけたんです。

それを触ってみると、ピンポン玉のようなものが入っていて、コロコロするような感じがしました。

お母さんになって分かったんですが、授乳中はおっぱいに出来物ができたり、硬くなったり。

いろんなトラブルがあるんですね。

最初はそれだと思いました。

全く痛い所もなく、普通の人だったら病院に行かないくらい、軽い症状に見えたんです。

私は当時、主人の仕事の都合で種子島に住んでいました。

毎日子育てしかすることがないものですから、たまには違った日常を味わおうと、病院に行くことにしたんです。

何科に行けばいいのか調べてみると、女性でしこりがある場合は、外科に行ってくださいと示されていたんです。

それで、書かれていた通り、外科のある小さな診療所に行きました。

そこで生まれて初めて検診を受けたんです。

27歳ですから、それまでがん検診なんてしたことはありません。

そこで触診や超音波検診など、いろんな検診をしました。

その中で、マンモグラフィー検査というものがありました。

それは、なかなか恥ずかしい検査なんです。

本当は授乳中の人は受けてはいけないんですが、私の場合は他の検査で異常が見つかっていたので、先生から授乳をやめて、マンモグラフィー検査を受けるように言われたんです。

恥ずかしくて受けたくなかったんですが、仕方なく受けました。

それを受けて、痛い人と痛くない人がいるんですが、私は痛かったんです。

まだその検査の段階では、私の頭の中にがんという文字は全くありません。

軽い症状だろうと思っていました。

その後、都市部の大きな病院を紹介してもらい、母も立ち会って診てもらいました。

そこで

「残念ながら悪いものでした。

若いのに可哀そうですが、おっぱいを全部取ることになります」

というがんの告知を受けたのです。

忘れもしない、桜のきれいな4月1日。

エイプリルフールの日でした。

告知を受けた私はすぐには信じられず、

「先生、誰のことを言ってるんですか」

と言いました。

受け入れることができませんでした。

先生は直接

「がん」

とは言わなかったんですが、何か恐いことを言われたと感じました。

だんだんと実感がわいてきて涙が出てきたそのとき、母が大きな声で泣きだしたんです。

母は

「うちの娘がそんなはずはありません。

何を言っているんですか」

と先生に詰め寄りました。

母がそんな状態だったせいか、私は反対に冷静で、

「お母さん、しょうがないよ。

先生も困ってるよ」

と言って、母をなだめました。

がん患者が家族を励ましていましたね。

とにかく、私ががんの告知を受けたのは、晴天の霹靂だったんです。

告知をされて、いろいろ調べているうちに

『セカンドオピニオン』

を知りました。

がんのような大病のときに、主治医の先生だけではなく、別の先生にも相談することができる制度です。

そこで私は、3人の先生に診てもらうことにしました。

他の先生にがんを否定してほしかったですし、女性にとって大切なおっぱいを切らずにすむ可能性を信じたかったんです。

『浄土くじけてもつまづいても帰れる世界』

「金子みすゞ」

という人を知っていますか。

みすゞさんは明治36年に山口県の長門市仙崎に生まれ、浄土真宗のご法義の篤かったおばあちゃんに育てられ、大正12年(20歳)に童謡詩人として世に出たひとです。

最近になって学校の教科書等に

「大漁」

等の詩が紹介されたことをきっかけに、人々の感動を呼び、書店の本棚にも

「金子みすゞ詩集」

が多く並ぶようになりました。

その詩集の中に『失くなったもの』という詩があります。

みすゞさんには田辺豊々代さんという大親友がいて、女学校時代はもちろん、その後も手紙のやり取りをしたり、お寺で聞いたご法話や仏さまのお慈悲のことを話し合い、その歓喜を分かち合うほど、仲が良かったそうです。

ところが、その大親友が、病気で愛児を身籠ったまま22歳での若さでこの世を去ったのです。

みすゞさんは、その無二の親友の死を次のように詩に詠みました。

夏の渚でなくなった

おもちゃの船は、あの船は、

おもちゃの島へかへったの

月のひかりのふるなかを

なんきん玉の渚まで

いつか、ゆびきりしたけれど

あれきり逢はぬ豊ちゃんは

そらのおくにへかへったの

蓮華のはなのふるなかを

天童たちにまもられて

そして、ゆうべの、トランプの

おひげのこはい王さまは

トランプのお国へかへったたの

ちらちら雪のふるなかを

おくにの兵士にまもられて。

失くなったものはみんなみんな

もとのお家へかへるのよ。

みすゞさんは、いのちのかえる故郷、お浄土を見事に詩いあげ、

「まちがいなく豊々代さんは、阿弥陀仏のましますお浄土へかえらせていただき、そこで無量寿のいのちをいただいて、娑婆に生きているすべての生きとし生くるものを照覧したもうのである。

そして、やがて自分のかえってゆく永遠の故郷も、そのお浄土なのだ」

と詩ったのです。

浄土とはすべてのいのちを受けいれ、願いとなって再び逢える世界(故郷)のことなのでしょう。

待ちたもうみ仏(おや)のもとにかえりなん

「親鸞聖人の仏身・仏土観」(7月後期)

(三)の

(三)親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけまひらすべしと、よきひとのおわせをかぶりて信ずるほかに、別の子細なきなり。

は、『歎異抄』第二条の、親鸞聖人の弟子たちが命懸けで、関東から京都に来て、疑問になっている往生浄土の道を、いま一度師匠である親鸞聖人に問いかけている文です。

親鸞聖人は、この弟子たちの求めを厳しい口調で叱咤しておられます。

では、その求めのどこに根本的な誤りがあると、親鸞聖人は見られたのでしょうか。

一言でいえば、衆生の側の

「はからい」

だといえます。

知識的に往生の道がよく理解できて、行道を通して確固たる信心を得ようとして、弟子たちはいま師匠に往生の道を問いかけているからです。

この

「はからい」

が衆生の心にあるかぎり、衆生は絶対に阿弥陀仏に遇うことはできません。

そこで弟子たちの求道の過ちを、まず厳しく戒めた上で、自分は

「ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべし」

と教えられた、

「よきひと」

の教えを信じているだけだと述べられたのです。

この

「よきひと」

とは、法然聖人であることは言うまでもありませんが、法然聖人が語られるこの言葉はそのまま弥陀の勅命になっています。

この文もまた

「行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひてむかへんと、はからはせたまひたる」

という自然法爾の言葉と重なりますが、法然聖人の教えによって往生はただ弥陀のはからいによると、親鸞聖人は信知しておられたからこそ、弟子たちにはからいの一切を捨てさせることが可能であられたのです。

では、この

「自然の道理」

は、なぜ阿弥陀仏という仏でなければならなかったのでしょうか。

「行巻」

で、南無阿弥陀仏が不回向の行だということを論証された後に、親鸞聖人は

「この行信に帰命すれば、攝取して捨てたまはず。

故に阿弥陀仏と名づけたてまつる」

と述べておられます。

「不回向の行」

とは、ただ一方的に、阿弥陀仏より衆生に廻向されている大行のことで、この

「行」

に対する、衆生のはからいの一切を否定する言葉です。

では、なぜ

「南無阿弥陀仏とたのめば」

攝取して捨てたまわない仏が、

「阿弥陀」

と呼ばれるのでしょうか。

真如とは無上仏であり、無上涅槃です。

そしてこの真如の

「おのづからしからしむる」

はたらきを、自然法爾と呼んでいます。

その自然のはたらきとは、いわば無限の空間と無限の時間を覆い尽くして、その一切を無上仏になさしめようとしている力です。

だとすれば、その

「はたらき」

とは、どのような力によって可能になるでしょうか。

一切の空間を輝かせる

「無量の光明」

と、一切の時間に耐える

「無量の寿命」

によるほかありません。

この無限の大智と大悲によってのみ、この道理は可能となりますが、そのはたらきの全体が、一言で

「阿弥陀」

と発音されます。

そしてこの

「阿弥陀」

が、一切の衆生を救おうとする願意が、言葉で

「南無」

となるのです。

そうしますと、無上仏の大信心が、大行となって衆生に

「相」

を示すとするならば、

「南無阿弥陀仏」

とならざるを得ないのです。

「より良い人間関係を築くために」(下旬)「何で俺の親切な助言を聞き入れないんだ」

自分の執着を引っ込めるというのは難しいことです。

自我・執着というのは、思念や価値観、虚栄心、情念、あらゆるものから出来ていますが、その中で中心の核として成り立たせているのが、長年かけて培ってきた人生観です。

人間関係に亀裂が入り、溝が大きくなりやすいのは、この人生観の衝突が原因になっている場合が多い訳ですね。

ここで、あるご家族を例にとってみましょう。

そこのご主人は勉強家で、現実的な理論を重視し、効率のよい生活を目指していく人です。

この方は、奥さんと娘さんの買い物や交友関係などにも細かいアドバイスをします。

奥さんは、とても助かると言っていましたが、その内に細かい口出しにストレスを感じるようになったと言います。

最初は優しかったご主人も、奥さんと子どもさんが助言を受け入れなかったときは、

「なんでおれの親切なアドバイスを聞き入れないのか」

と言うようになったそうです。

このようなことを言うとき、実は自分のことも相手のことも見失いかた状態になっているのではないでしょうか。

人に親切にして、自分の人生観を説くとき、あるいは自分の話が絶対的に正しいことを前提として話したときは、たいていどこかに見落としがあるということをつくづく感じる訳です。

世間では、礼儀作法がよく言葉遣いのきれいな人を

「品のよい人」

と言います。

しかし、仏教、つまり仏さまにとっては、そういう表面的なことは問題ではなく、自分の主張の引き際を心得た人、そして相手の気持ちを察して人と接していくことを品がよいと言うようです。

自分が一方的な話をし続けるときは、たいてい相手に圧迫感を与えている一方通行の状態です。

相手の気持ちを察するということが、どこかでおろそかになっているんじゃないかと思います。

それが、人間関係を築く上で障害になるのです。

では、何が欠けているのかと言いますと、自分の人生観に基づいた話をしながらも、

「あなたはどう思う」

という問いかけを入れることだと思うんですね。

自分の思いが強ければ強いほど、この問いかけを忘れがちになってしまいます。

しかし、これによって、相手に感情を整理する心の余裕を与え、信頼関係が築けてくるのではないかと思うんです。

そこから会話が充実して、話の幅が広がり、自分とは違った人とも話がかみ合う。

さらに、お互いの長所を吸収し合える。

すなわち、よりよい人間関係を築いていくことになるんだと思います。