投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

念仏世界を体得した在家の求道者を「妙好人(みょうこうにん)」と呼びます。

妙好人には本来

「優れた人」

という意味があります。

それが、とりわけ浄土真宗の篤信者という意味を持つようになったのは、岩見国の浄泉寺の仰誓が文政元年(1818)編纂した

『妙好人伝』

以降です。

彼らのほとんどは、平凡かつ無学な一介の凡夫と呼ばれる人々ですが、純粋な信仰の高さにおいては飛び抜けたレベルにあるとも言えます。

親鸞聖人の教えから芽をふいた蓮華が、妙好人と呼ばれる人々だと言えます。

・赤尾の道宗(あかおのどうしゅう)

生没年不詳。

俗名は弥七(やしち)。

越中赤尾(富山県東砺波郡上平村字赤尾)に生まれる。

道宗は、蓮如上人に熱烈に帰依し、その侍者をつとめるほどの篤信者で、次のような言葉を残しています。

善知識(蓮如上人)の仰せで不可能なことでも不可能と思うな。

この凡夫の身が仏になるのだから、不可能なことがあるはずがない。

近江の湖を一人で埋めよとおっしゃれば、それも引き受けよう。

道宗は、家にいるときは、いつも48本の割木を並べて、その上に寝ていました。

理由は、阿弥陀仏の四十八願を常に忘れないようにするためであったそうです。

また、寝にくい時は、阿弥陀仏が衆生のために幾劫かの苦行を積んだということを思い起こし、それに比べれば自分の寝苦しさなど、月とスッポンであると考え、いつしか眠りについたと言われます。

ともあれ、このような道宗のあり方は、村人の尊崇を一身に集めることになりました。

ところが、近くに住む天台宗楢谷寺の和尚が、

「あんなのものはニセモノだ」

と考え、道宗がかがみ込んで草取りをしているところを、後ろから蹴飛ばすということがありました。

すると、道宗はそのまま突っ伏して倒れ込みましたが、何ということもなく、また草取りを続けたので、和尚は再び蹴飛ばしましたが、結果は同じことでした。

そこで和尚はたまりかねて、

「お前さんは蹴飛ばされても怒らないが、どうしてだ」

と尋ねたところ、道宗は

「前生の借金払いだ、まだあるかもしれん…」

というばかりだったそうです。

『業(ごう)』

私たちは日常生活の中で、知らず知らずのうちに、よく仏教の言葉を使っています。

それは、私たちの生活の中に仏教の教えが溶け込んでいることの証だといえますが、それだけにもしその言葉が仏教本来の意味とは異なった意味に使われますと、仏教の思想そのものが人々から誤解を受けることになってしまいます。

困ったことに、仏教用語には、本来の意味とは異なった意味で使われている言葉が多く、そのために世間一般で仏教の教えとして理解されているものの、その内実は全く非仏教的なものが少なからずあったりします。

実は

「業」

という仏教用語も、その類の言葉の一つだと言えます。

「自業自得」

「業が深い」

といった言葉は、多分誰でも耳になさったことがあるのではないでしょうか。

例えば、自分自身が何か無理な計画を立てて、無惨にも失敗してしまった時。

あるいは、自分の人生に思いがけない不幸が重なったりした時によく耳にするようです。

したがって、業の語には何か非常に暗くて陰惨な響きがうかがわれ、しかもこの言葉は差別思想を生む原因にさえなったりしています。

人間生活を営む上において、他人が不利益な状態に置かれている時、その正しい原因を見るのではなく、

「それはお前の業が悪いからだ」

と、一方的に本人にその責任を覆い被せ、仕方のないことと諦めさせる、といった意図で用いられていたりします。

業は梵語(サンスクリット語)でカルマンといい、本来は

「行為」

という意味です。

私たちがある行為を行いますと、その行為によって結果があらわれます。

よい行為を積み重ねますと、よい結果、楽しい人生が開かれる場合が多く、逆に悪い行為には苦しい果報が待ち受けています。

そこで古代インドの人たちは、行為には必ず余韻が残るから、現在の結果を見れば、先にいかなる行為をしたかが分かると考え、そこに宿命論的な説を導き出しました。

これは、古代インドの差別階級である四姓(カースト)制度を生んだバラモン思想に基づくものですが、バラモンに生まれた者は前世で善き業を積んでいたからであり、奴隷に生まれた者は前世に悪業を重ねた結果だと説きました。

釈尊は、当時流布していたこの古代インドの業論を完全に否定し、

「人は生まれによってバラモンであったり奴隷であったりするのではなく、いま自分が何をなすかが重要である」

と示され、仏教教団においては、完全なる平等性が説かれました。

この場合、業は未来に向かっての努力を示す思想となるのですが、残念ながらその業論が後に宿業論と重なって、仏教思想でも再び宿命論的にとらえられるようになりました。

そこで、改めて親鸞聖人の業思想をうかがいますと、そこには大きな特徴が見られます。

親鸞聖人の業のとらえ方は『歎異抄』に

「卯毛羊毛のさきにいるちりばかりも、つくるつみの宿業にあらずといふことなし」

と述べられていますので、一見、宿命論的に見えます。

しかしながら、そこには業論一般とは根本的な違いがあります。

今日、仏教一般で

「業」

を問題にするとき、私たちの社会的な生き方が問題にされます。

それは現在に見る善悪や不幸の結果を、過去世の業と結びつけるあり方のすが、親鸞聖人はその一切を

「そらごとたわごと」

だと見て、むしろ私が人間に生まれたことに無限の悪業を見ておられます。

私がいまここにこうして人間として苦悩の中を生きているということは、未だかつて一度も迷いのいのちを離れることがなかったからであり、親鸞聖人にとっての善き業とは、その悪業を断ち切ってくださる念仏を申すということのみでした。

そこで、同じく煩悩具足の凡夫としての平等性を説き、

「われら」

の自覚において、一切の人々が共に等しく悪業を破るために、阿弥陀仏の大悲を仰がれたのだと言えます。

「趣味はなんですか?」

「趣味はなんですか?」

と聞かれると、特に無い私だったのですが、最近趣味が2つできました。

それは、バレーボールとサルサダンスです。

暑い夏の季節に、汗をだらだら流しながらやっています。

どちらも初心者ですが、楽しく活動しています。

バレーボールは週に1回、地域の青年8人くらいで活動しているのですが、2時間みっちりやるので次の日は筋肉痛です。

普段は仕事の違う人たちが集まって、汗だくで1つのボールをスパイクしたり拾ったりと張り切っています。

「市の大会で優勝」

の目標のもとで、頑張っています。

サルサダンスは、月に2回参加しています。

友人に誘われ、始めは“サルサって何?自分がダンスなんて無理!”と思っていたのですが、1度参加してみると意外に楽しいです。

踊っていると、いつもとは違う自分になっている感じです。

先日は、サルサパーティーにも参加しました。

外国人の方も沢山いらっしゃっていました。

お酒の力も手伝って、慣れない英語で会話したり、踊ったりと楽しい時間でした。

あまり積極的に活動する方ではではない私ですが、活動してみて新しい視野が広がりました。

沢山の出会いがあったり、新しい自分を発見したりと良い経験をさせてもらっています。

これからも、無理をせずに、楽しんで活動していくつもりです。

『お盆仏縁を喜び合う』

今年も夏がやってきました。

半年前は待ち遠しかった夏も、来てみると秋が待ち遠しくなる私です。

さて、お寺の夏といえばお盆です。

盂蘭盆会といったりもします。

それは、お盆はお釈迦さまの弟子であった目連尊者が亡くなった母親が餓鬼道に落ちているのを知り苦しんでいたところをお釈迦さまの導きにより、修行僧をもてなすことで救ったという盂蘭盆経の故事に始まるためです。

でも、浄土真宗のお寺ではお盆、盂蘭盆会という言い方とともにこの仏事には

「歓喜会」

という言い方があることをご存知ですか。

盂蘭盆会とは最も苦しい状況を意味する言葉ですが、浄土真宗ではそれをご縁として仏法に出会うことができ、苦しみが喜びに転ずるということで

「歓喜会」

というのです。

けれども、大切な方を一年以内に亡くされて、今年初盆をお迎えの方々には、

「何を歓喜するようなことがあろうか」

と思われるかもしれません。

確かに、そのようなこともありましょうが、初盆の法要というご縁を頂いたことは、先立ちゆける方からのご縁に違いありません。

それを更に悲しみにひたるご縁と感じられるのか、それとも仏さまに手を合わせるご縁、仏法を聴聞する尊いご縁を受け取られるのかの違いではないでしょうか。

毎年繰り返されるお盆(歓喜会)ではありますが、手を合わせ聴聞するご縁をいただけたことに歓喜申していける、そんなご縁につなげたいものです。

親鸞聖人は

「歓喜」

という言葉を

「歓はみをよろこばしむ、喜はこころをよろこばしむとなり」

と、説いておられます。

「親鸞聖人の仏身・仏土観」(8月前期)

この

「行信に帰命する」

ということは、衆生がはからいを捨てて、

「南無阿弥陀仏とたのむ」

ことにほかなりません。

ここに衆生が、阿弥陀という真如との法と一体になっている姿がありますが、それは同時に、弥陀が

「行者のよからんとも、あしからんともおもは」

ないで、そうするためにはからわれている姿でもあります。

そうしますと、阿弥陀がこのように帰命する衆生を攝取しないはずはありません。

だからこそ、このような衆生を、攝取して捨てたまわない仏を、

「阿弥陀」

となづけたてまつるのです。

ここに衆生のはからいなど入る余地は絶対にありません。

そこで、この称名念仏の法理を『歎異抄』の第八条は

「念仏は行者のためには非行非善なり」

と説きます。

念仏は、行者が何々のために行じる行為ではなくて、

「南無阿弥陀仏」

の音声が、弥陀のはからいそのものだからです。

『教行信証』

「信巻」

には、この弥陀と衆生の関係が、より詳細に次のように説かれています。

凡そ大信海を案ずれば、貴賤緇素を簡ばず。

男女老少を簡ばず。

造罪の多少を簡ばず。

修行の久近を論ぜず。

行に非ず善に非ず。

頓に非ず漸に非ず。

定に非ず散に非ず。

正観に非ず邪観に非ず。

有念に非ず無念に非ず。

尋常に非ず臨終に非ず。

多念に非ず一念に非ず。

唯これ不可思議不可称不可説の信楽なり。

喩えば阿伽陀薬のよく一切の毒を滅するがごとし。

如来の誓願の薬は、よく智愚の毒を滅するなり。

この文で、大信海のはたらきに関しては、二重の構造が見られます。

「大信海」

という如来の心の働きと、その

「大信海」

に対する衆生の心の働きが、同時に語られているからです。

前者では

「簡ばず。

謂はず。

問はず。

論ぜず。

と述べられ、後者で

「…非ず。

…非ず。

と語られています。

前者は、

「自然法爾」

の文に見られる

「行者のよからんとも、あしからんともおもはぬ」

に重なっています。

この文は、阿弥陀仏の

「御ちかひ」

について、弥陀のはからいはただ

「南無阿弥陀仏とたのませたまひてむかへん」

ということであって、その行者の善悪は問題にしないとされています。

この阿弥陀仏の大悲の心が、より具体的に

「大信海」

の釈で語られているのです。

「貴賤緇素・男女老少・造罪の多少・修行の久近」

は、人間社会にみる差別構造の根本原因になる諸要素ですが、阿弥陀仏の本願は、その救いにこれらの要因の一切を、全く問題にしません。

それは、人間社会では、人々はこれらの差別の構造の中で迷い苦しみ歎き悲しむですが、その衆生の全体を無条件で平等に救うはたらきこそが、この弥陀の

「大信海」

だからです。

「がんとともに生きる」(上旬)「晴天の霹靂(へきれき)だった」27歳のがん告知

======ご講師紹介======

三好綾さん(NPO法人がんサポート鹿児島理事長)

☆演題 「がんとともに生きる」

昭和50年、鹿児島県薩摩川内市に生まれ。

国立長崎大学教育学部卒業。

平成14年4月、27歳のときに乳がんを告知され右胸を全摘出。

その翌年には、著書『乳がんなんてやっつけろ!!』を発刊。

その後、NPO法人ピンクリボンかごしまの事務局長に就任。

平成19年に、現在全部位のがん患者会、現在のがんサポート鹿児島の代表に就任。

また、ホームページ『うずの乳がんなんてやっつけろ!』管理人として、乳がんとたたかう患者や家族のネットワーク作りなどに尽力しておられます。

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私は、27歳のとき乳がんになりました。

当時、私は息子の授乳中だったんですが、あるとき右側のおっぱいの脇のところにしこりを見つけたんです。

それを触ってみると、ピンポン玉のようなものが入っていて、コロコロするような感じがしました。

お母さんになって分かったんですが、授乳中はおっぱいに出来物ができたり、硬くなったり。

いろんなトラブルがあるんですね。

最初はそれだと思いました。

全く痛い所もなく、普通の人だったら病院に行かないくらい、軽い症状に見えたんです。

私は当時、主人の仕事の都合で種子島に住んでいました。

毎日子育てしかすることがないものですから、たまには違った日常を味わおうと、病院に行くことにしたんです。

何科に行けばいいのか調べてみると、女性でしこりがある場合は、外科に行ってくださいと示されていたんです。

それで、書かれていた通り、外科のある小さな診療所に行きました。

そこで生まれて初めて検診を受けたんです。

27歳ですから、それまでがん検診なんてしたことはありません。

そこで触診や超音波検診など、いろんな検診をしました。

その中で、マンモグラフィー検査というものがありました。

それは、なかなか恥ずかしい検査なんです。

本当は授乳中の人は受けてはいけないんですが、私の場合は他の検査で異常が見つかっていたので、先生から授乳をやめて、マンモグラフィー検査を受けるように言われたんです。

恥ずかしくて受けたくなかったんですが、仕方なく受けました。

それを受けて、痛い人と痛くない人がいるんですが、私は痛かったんです。

まだその検査の段階では、私の頭の中にがんという文字は全くありません。

軽い症状だろうと思っていました。

その後、都市部の大きな病院を紹介してもらい、母も立ち会って診てもらいました。

そこで

「残念ながら悪いものでした。

若いのに可哀そうですが、おっぱいを全部取ることになります」

というがんの告知を受けたのです。

忘れもしない、桜のきれいな4月1日。

エイプリルフールの日でした。

告知を受けた私はすぐには信じられず、

「先生、誰のことを言ってるんですか」

と言いました。

受け入れることができませんでした。

先生は直接

「がん」

とは言わなかったんですが、何か恐いことを言われたと感じました。

だんだんと実感がわいてきて涙が出てきたそのとき、母が大きな声で泣きだしたんです。

母は

「うちの娘がそんなはずはありません。

何を言っているんですか」

と先生に詰め寄りました。

母がそんな状態だったせいか、私は反対に冷静で、

「お母さん、しょうがないよ。

先生も困ってるよ」

と言って、母をなだめました。

がん患者が家族を励ましていましたね。

とにかく、私ががんの告知を受けたのは、晴天の霹靂だったんです。

告知をされて、いろいろ調べているうちに

『セカンドオピニオン』

を知りました。

がんのような大病のときに、主治医の先生だけではなく、別の先生にも相談することができる制度です。

そこで私は、3人の先生に診てもらうことにしました。

他の先生にがんを否定してほしかったですし、女性にとって大切なおっぱいを切らずにすむ可能性を信じたかったんです。