投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

『浄土くじけてもつまづいても帰れる世界』

「金子みすゞ」

という人を知っていますか。

みすゞさんは明治36年に山口県の長門市仙崎に生まれ、浄土真宗のご法義の篤かったおばあちゃんに育てられ、大正12年(20歳)に童謡詩人として世に出たひとです。

最近になって学校の教科書等に

「大漁」

等の詩が紹介されたことをきっかけに、人々の感動を呼び、書店の本棚にも

「金子みすゞ詩集」

が多く並ぶようになりました。

その詩集の中に『失くなったもの』という詩があります。

みすゞさんには田辺豊々代さんという大親友がいて、女学校時代はもちろん、その後も手紙のやり取りをしたり、お寺で聞いたご法話や仏さまのお慈悲のことを話し合い、その歓喜を分かち合うほど、仲が良かったそうです。

ところが、その大親友が、病気で愛児を身籠ったまま22歳での若さでこの世を去ったのです。

みすゞさんは、その無二の親友の死を次のように詩に詠みました。

夏の渚でなくなった

おもちゃの船は、あの船は、

おもちゃの島へかへったの

月のひかりのふるなかを

なんきん玉の渚まで

いつか、ゆびきりしたけれど

あれきり逢はぬ豊ちゃんは

そらのおくにへかへったの

蓮華のはなのふるなかを

天童たちにまもられて

そして、ゆうべの、トランプの

おひげのこはい王さまは

トランプのお国へかへったたの

ちらちら雪のふるなかを

おくにの兵士にまもられて。

失くなったものはみんなみんな

もとのお家へかへるのよ。

みすゞさんは、いのちのかえる故郷、お浄土を見事に詩いあげ、

「まちがいなく豊々代さんは、阿弥陀仏のましますお浄土へかえらせていただき、そこで無量寿のいのちをいただいて、娑婆に生きているすべての生きとし生くるものを照覧したもうのである。

そして、やがて自分のかえってゆく永遠の故郷も、そのお浄土なのだ」

と詩ったのです。

浄土とはすべてのいのちを受けいれ、願いとなって再び逢える世界(故郷)のことなのでしょう。

待ちたもうみ仏(おや)のもとにかえりなん

「親鸞聖人の仏身・仏土観」(7月後期)

(三)の

(三)親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけまひらすべしと、よきひとのおわせをかぶりて信ずるほかに、別の子細なきなり。

は、『歎異抄』第二条の、親鸞聖人の弟子たちが命懸けで、関東から京都に来て、疑問になっている往生浄土の道を、いま一度師匠である親鸞聖人に問いかけている文です。

親鸞聖人は、この弟子たちの求めを厳しい口調で叱咤しておられます。

では、その求めのどこに根本的な誤りがあると、親鸞聖人は見られたのでしょうか。

一言でいえば、衆生の側の

「はからい」

だといえます。

知識的に往生の道がよく理解できて、行道を通して確固たる信心を得ようとして、弟子たちはいま師匠に往生の道を問いかけているからです。

この

「はからい」

が衆生の心にあるかぎり、衆生は絶対に阿弥陀仏に遇うことはできません。

そこで弟子たちの求道の過ちを、まず厳しく戒めた上で、自分は

「ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべし」

と教えられた、

「よきひと」

の教えを信じているだけだと述べられたのです。

この

「よきひと」

とは、法然聖人であることは言うまでもありませんが、法然聖人が語られるこの言葉はそのまま弥陀の勅命になっています。

この文もまた

「行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひてむかへんと、はからはせたまひたる」

という自然法爾の言葉と重なりますが、法然聖人の教えによって往生はただ弥陀のはからいによると、親鸞聖人は信知しておられたからこそ、弟子たちにはからいの一切を捨てさせることが可能であられたのです。

では、この

「自然の道理」

は、なぜ阿弥陀仏という仏でなければならなかったのでしょうか。

「行巻」

で、南無阿弥陀仏が不回向の行だということを論証された後に、親鸞聖人は

「この行信に帰命すれば、攝取して捨てたまはず。

故に阿弥陀仏と名づけたてまつる」

と述べておられます。

「不回向の行」

とは、ただ一方的に、阿弥陀仏より衆生に廻向されている大行のことで、この

「行」

に対する、衆生のはからいの一切を否定する言葉です。

では、なぜ

「南無阿弥陀仏とたのめば」

攝取して捨てたまわない仏が、

「阿弥陀」

と呼ばれるのでしょうか。

真如とは無上仏であり、無上涅槃です。

そしてこの真如の

「おのづからしからしむる」

はたらきを、自然法爾と呼んでいます。

その自然のはたらきとは、いわば無限の空間と無限の時間を覆い尽くして、その一切を無上仏になさしめようとしている力です。

だとすれば、その

「はたらき」

とは、どのような力によって可能になるでしょうか。

一切の空間を輝かせる

「無量の光明」

と、一切の時間に耐える

「無量の寿命」

によるほかありません。

この無限の大智と大悲によってのみ、この道理は可能となりますが、そのはたらきの全体が、一言で

「阿弥陀」

と発音されます。

そしてこの

「阿弥陀」

が、一切の衆生を救おうとする願意が、言葉で

「南無」

となるのです。

そうしますと、無上仏の大信心が、大行となって衆生に

「相」

を示すとするならば、

「南無阿弥陀仏」

とならざるを得ないのです。

「より良い人間関係を築くために」(下旬)「何で俺の親切な助言を聞き入れないんだ」

自分の執着を引っ込めるというのは難しいことです。

自我・執着というのは、思念や価値観、虚栄心、情念、あらゆるものから出来ていますが、その中で中心の核として成り立たせているのが、長年かけて培ってきた人生観です。

人間関係に亀裂が入り、溝が大きくなりやすいのは、この人生観の衝突が原因になっている場合が多い訳ですね。

ここで、あるご家族を例にとってみましょう。

そこのご主人は勉強家で、現実的な理論を重視し、効率のよい生活を目指していく人です。

この方は、奥さんと娘さんの買い物や交友関係などにも細かいアドバイスをします。

奥さんは、とても助かると言っていましたが、その内に細かい口出しにストレスを感じるようになったと言います。

最初は優しかったご主人も、奥さんと子どもさんが助言を受け入れなかったときは、

「なんでおれの親切なアドバイスを聞き入れないのか」

と言うようになったそうです。

このようなことを言うとき、実は自分のことも相手のことも見失いかた状態になっているのではないでしょうか。

人に親切にして、自分の人生観を説くとき、あるいは自分の話が絶対的に正しいことを前提として話したときは、たいていどこかに見落としがあるということをつくづく感じる訳です。

世間では、礼儀作法がよく言葉遣いのきれいな人を

「品のよい人」

と言います。

しかし、仏教、つまり仏さまにとっては、そういう表面的なことは問題ではなく、自分の主張の引き際を心得た人、そして相手の気持ちを察して人と接していくことを品がよいと言うようです。

自分が一方的な話をし続けるときは、たいてい相手に圧迫感を与えている一方通行の状態です。

相手の気持ちを察するということが、どこかでおろそかになっているんじゃないかと思います。

それが、人間関係を築く上で障害になるのです。

では、何が欠けているのかと言いますと、自分の人生観に基づいた話をしながらも、

「あなたはどう思う」

という問いかけを入れることだと思うんですね。

自分の思いが強ければ強いほど、この問いかけを忘れがちになってしまいます。

しかし、これによって、相手に感情を整理する心の余裕を与え、信頼関係が築けてくるのではないかと思うんです。

そこから会話が充実して、話の幅が広がり、自分とは違った人とも話がかみ合う。

さらに、お互いの長所を吸収し合える。

すなわち、よりよい人間関係を築いていくことになるんだと思います。

短かった娘の髪が、最近いろいろアレンジできる長さになってきました。

短かった娘の髪が、最近いろいろアレンジできる長さになってきました。

先月結婚式に出席した際は、ふわふわの横結びして、大きなお花のコサージュつけてあげました。

そして、ネットでレンタル予約しておいたドレスをまとって、さながらプチお姫様気分。

とすると、母であるわたしは、プチおきさき様気分??

花嫁さんそっちのけで写真とりまくりでした!

誰が何と言っても、やっぱり我が子が一番かわいぃね。

OYABAKAoyabaka

毎朝の登校前は

「ママ〜、きょうは暑いからポニーテールにしてぇ〜」

「きょうは体育あるから2つ結び。

低めでお願い」

「きょうはちょい編みからのサイド結びで、飾りゴムつけて」

などど、注文も多い。

今の学校はおろしておくのもOKだし、飾りゴムだろうが色ゴムだろうが何でもOKらしい。

わたしたちの時代はゴムは黒か茶か紺で、髪は肩にかからないように…などど、

いちいち校則で決まっていたのになぁ。

(年がばれる〜)

時には娘がわたしの髪を結ってくれることもある。

まだまだ下手だけど、一生懸命小さな手をくねらせながら、わたしの髪をひっぱっている様子がこの上なく愛おしい。

こんななんでもない日常が、わたしにとっては今一番の幸せです。

ありがとう、我が子よ!

この夏は親子で髪を伸ばして、いろんな髪型して、いっぱい楽しみます。

『浄土くじけてもつまづいても帰れる世界』

「浄土」

とは、

「清浄の土」

という意味です。

この清浄ということには、どのような意味があるのかといいますと、清とはそこにいるすべてのものが満足しているあり方、浄というのは心が開かれ明るさを持つあり方という意味があります。

また、清に対するものは濁で、これは

「にごっている」

ということです。

仏教では、この世は濁世であるといい、この濁という言葉で私たちのあり方を語っています。

「濁」

つまりにごっているということは、そこにあるものすべてがぼんやりとしているということです。

例えば、水がにごっているということは、水の中にあるもの全てがぼんやりとして見えないということで、それはまた、曖昧ということでもあります。

そうすると、私たちの世の中は濁世ということですから、みんな曖昧にぼんやりとした中に生きているということになります。

では、いったい何がぼんやりしているのかというと、根本的には、自分にとって、自分自身が曖昧だということです。

つまり、濁世の濁ということの根本には、世の中がにごっているという前に、自分にとって自身が曖昧だということがあるというわけです。

そのために、どうなれば自分が本当に満足できるのか。

あるいは、自分が本当に求めているものが何なのかが分からないのです。

そして、その分からないままで、いろいろなことを周りに要求をしているので、あれにも満足しこれにも満足したけれども、結局のところ、一生を振り返ってみると、自分の人生とはいったい何だったのか分からない、というようなことになってしまうのです。

このように、濁とは自分にとって自身が曖昧なままに生きているということですから、それは、本来の自分というものが分からないままに生きているというあり方だといえます。

それに対して、清とは自分がはっきりしたということです。

ただし、それは何かがどうなったから満足することができたというのではなく、自分がここにこうして在ることを本当に受け止めることができた。

私の生きている喜びがそこに見いだせた。

自分自身に、本当に安んじて生きることが出来るようになったということです。

また、浄ということは、穢ということに応えています。

浄土に対して、穢土というのですが、穢という言葉は、仏教では執着されてあるあり方をさしています。

穢というのはけがれているということですが、それは何に対してけがれているのかというと、執着にけがれているというのです。

人間の生き方にしても、社会のあり方にしてみても、私たちはすべて自分の思い、自分中心の見方でとらえています。

そして、そのような自分の思いを後生大事にかかえて生きています。

それは、つまるところ、それぞれ自分の思いに閉じこもって生きているということです。

考えてみますと、人間はどのような苦しみに会っても、そこに語るべき友をもっている間は、絶望することはありません。

けれども、誰に言ってもどうにもなるものかという、自分の思いに閉じこもってしまった時に、人は絶望するのです。

したがって、たとえそれがどれほど苦しい事実であっても、決して事実によって絶望することはないのです。

孤独感に苛まれ、心を閉じ、自分だけの思いに閉じこもったとき、人は救いのない、抜け場のない、そういうあり方の中に落ち込んでいくのです。

これに対して、浄土というのは、心が開かれ明るさを持つ世界です。

それは、苦楽ともにということから言いますと、苦しみにおいて自らの事実を受け止め、楽しみにおいて人と共に出会っていける世界ということです。

私たちが浄土を見いだし、常に浄土を心の依りどころとして生きていくということは、苦しみにおいて常に自らを明らかに受け止め、楽しみにおいて常に人と出会う、そういう生き方が私たちの上に開かれてくるということです。

このような意味で、少なくとも、私たちにとって二つのことが生き方の中に開かれなければ、本当に自らの生涯というものを十分に生ききることが出来ないのではないでしょうか。

一には、自分の事実をどこまでも引き受けていける、そういう場所を持つということ。

同時に、すべての人々と喜びをともに分かち合っていける心が開かれてくるということです。

人生の途上で、たとえつまづいても、くじけても、私が帰っていける世界を見いだすことが出来れば、私たちはその喜びを胸に一度限りのこの人生を尽くしていくことが出来るのだと思います。

「親鸞聖人の仏身・仏土観」(7月中期)

(二)の

(二)行と申は本願の名号をひとこゑとなへてわうじゃうすと申ことをききてひとこゑをもとなへもしは十念をもせんは行なり。

も『末燈鈔』の文で、第十一通に当たります。

ここでは

「行の一念と信の一念」

の関係が問われます。

親鸞聖人はこの二者の関係を

「行」

という概念でとらえられます。

「本願の名号を一声称えて往生す、という阿弥陀仏の誓いを聞いて、一声をも称え、十念をもする」

ことが、行だといわれているからです。

ところで、この文中の

「聞く」

について、聞くとは、本願の勅命を聞いて疑心が全くなくなることだとして、その心に信の一念を見られます。

そこで、ここに信の一念をはさんで、二種の行の一念が存在します。

「ひとこゑとなへてわうじゃうす」

という本願の教法を聞いて、

「ひとこゑをもとなへ」るの

「一声」

がそれで、

「行の一念」

「信の一念」

「行の一念」

という

「聞いて」

という信をはさんで、二種の

「行」

の関係が見られるのです。

しかも、この全体を親鸞聖人は

「行」

とらえられるのです。

では、その行とは何でしょうか。

「一声称えて往生す」

という弥陀の勅命だといえます。

弥陀の誓願のはたらきが、必然の道理として衆生をしてその誓願を信ぜしめ、称名しているからです。

ここで重要なのは、信じた後の称名ではありません。

この称名は、勅命に信順している姿でしかありません。

したがって重視されるべきは、衆生に信を生起せしめる

「称名せよ」

という勅命、本願のはたらきです。

この行の一念と信の一念の関係がここで問われています。

だからこそ、この行の一念を離れては、信の一念は成り立ちませんし、行の一念は意味をなさないのです。

「行一念と信一念」

の関係は、まさに行の一念が信の一念を成就せしめるのですから、親鸞聖人はこのはたらきの全体を

「行」

として捉えられ、この一切を

「みだの御ちかひ」

だと理解されたのです。

「自然法爾」

のお手紙では、この弥陀の御ちかいが

「南無阿弥陀仏とたのませたまひてむかへんと、はからはせたまひたる」

という、弥陀のはからいだとされます。

「ひとこゑとなへてわうじゃうす」

という行の一念こそ、

「南無阿弥陀仏とたのませたまひてむかへん」

という、弥陀の

「はからい」

そのものになるのです。