投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

「より良い人間関係を築くために」(下旬)「何で俺の親切な助言を聞き入れないんだ」

自分の執着を引っ込めるというのは難しいことです。

自我・執着というのは、思念や価値観、虚栄心、情念、あらゆるものから出来ていますが、その中で中心の核として成り立たせているのが、長年かけて培ってきた人生観です。

人間関係に亀裂が入り、溝が大きくなりやすいのは、この人生観の衝突が原因になっている場合が多い訳ですね。

ここで、あるご家族を例にとってみましょう。

そこのご主人は勉強家で、現実的な理論を重視し、効率のよい生活を目指していく人です。

この方は、奥さんと娘さんの買い物や交友関係などにも細かいアドバイスをします。

奥さんは、とても助かると言っていましたが、その内に細かい口出しにストレスを感じるようになったと言います。

最初は優しかったご主人も、奥さんと子どもさんが助言を受け入れなかったときは、

「なんでおれの親切なアドバイスを聞き入れないのか」

と言うようになったそうです。

このようなことを言うとき、実は自分のことも相手のことも見失いかた状態になっているのではないでしょうか。

人に親切にして、自分の人生観を説くとき、あるいは自分の話が絶対的に正しいことを前提として話したときは、たいていどこかに見落としがあるということをつくづく感じる訳です。

世間では、礼儀作法がよく言葉遣いのきれいな人を

「品のよい人」

と言います。

しかし、仏教、つまり仏さまにとっては、そういう表面的なことは問題ではなく、自分の主張の引き際を心得た人、そして相手の気持ちを察して人と接していくことを品がよいと言うようです。

自分が一方的な話をし続けるときは、たいてい相手に圧迫感を与えている一方通行の状態です。

相手の気持ちを察するということが、どこかでおろそかになっているんじゃないかと思います。

それが、人間関係を築く上で障害になるのです。

では、何が欠けているのかと言いますと、自分の人生観に基づいた話をしながらも、

「あなたはどう思う」

という問いかけを入れることだと思うんですね。

自分の思いが強ければ強いほど、この問いかけを忘れがちになってしまいます。

しかし、これによって、相手に感情を整理する心の余裕を与え、信頼関係が築けてくるのではないかと思うんです。

そこから会話が充実して、話の幅が広がり、自分とは違った人とも話がかみ合う。

さらに、お互いの長所を吸収し合える。

すなわち、よりよい人間関係を築いていくことになるんだと思います。

短かった娘の髪が、最近いろいろアレンジできる長さになってきました。

短かった娘の髪が、最近いろいろアレンジできる長さになってきました。

先月結婚式に出席した際は、ふわふわの横結びして、大きなお花のコサージュつけてあげました。

そして、ネットでレンタル予約しておいたドレスをまとって、さながらプチお姫様気分。

とすると、母であるわたしは、プチおきさき様気分??

花嫁さんそっちのけで写真とりまくりでした!

誰が何と言っても、やっぱり我が子が一番かわいぃね。

OYABAKAoyabaka

毎朝の登校前は

「ママ〜、きょうは暑いからポニーテールにしてぇ〜」

「きょうは体育あるから2つ結び。

低めでお願い」

「きょうはちょい編みからのサイド結びで、飾りゴムつけて」

などど、注文も多い。

今の学校はおろしておくのもOKだし、飾りゴムだろうが色ゴムだろうが何でもOKらしい。

わたしたちの時代はゴムは黒か茶か紺で、髪は肩にかからないように…などど、

いちいち校則で決まっていたのになぁ。

(年がばれる〜)

時には娘がわたしの髪を結ってくれることもある。

まだまだ下手だけど、一生懸命小さな手をくねらせながら、わたしの髪をひっぱっている様子がこの上なく愛おしい。

こんななんでもない日常が、わたしにとっては今一番の幸せです。

ありがとう、我が子よ!

この夏は親子で髪を伸ばして、いろんな髪型して、いっぱい楽しみます。

『浄土くじけてもつまづいても帰れる世界』

「浄土」

とは、

「清浄の土」

という意味です。

この清浄ということには、どのような意味があるのかといいますと、清とはそこにいるすべてのものが満足しているあり方、浄というのは心が開かれ明るさを持つあり方という意味があります。

また、清に対するものは濁で、これは

「にごっている」

ということです。

仏教では、この世は濁世であるといい、この濁という言葉で私たちのあり方を語っています。

「濁」

つまりにごっているということは、そこにあるものすべてがぼんやりとしているということです。

例えば、水がにごっているということは、水の中にあるもの全てがぼんやりとして見えないということで、それはまた、曖昧ということでもあります。

そうすると、私たちの世の中は濁世ということですから、みんな曖昧にぼんやりとした中に生きているということになります。

では、いったい何がぼんやりしているのかというと、根本的には、自分にとって、自分自身が曖昧だということです。

つまり、濁世の濁ということの根本には、世の中がにごっているという前に、自分にとって自身が曖昧だということがあるというわけです。

そのために、どうなれば自分が本当に満足できるのか。

あるいは、自分が本当に求めているものが何なのかが分からないのです。

そして、その分からないままで、いろいろなことを周りに要求をしているので、あれにも満足しこれにも満足したけれども、結局のところ、一生を振り返ってみると、自分の人生とはいったい何だったのか分からない、というようなことになってしまうのです。

このように、濁とは自分にとって自身が曖昧なままに生きているということですから、それは、本来の自分というものが分からないままに生きているというあり方だといえます。

それに対して、清とは自分がはっきりしたということです。

ただし、それは何かがどうなったから満足することができたというのではなく、自分がここにこうして在ることを本当に受け止めることができた。

私の生きている喜びがそこに見いだせた。

自分自身に、本当に安んじて生きることが出来るようになったということです。

また、浄ということは、穢ということに応えています。

浄土に対して、穢土というのですが、穢という言葉は、仏教では執着されてあるあり方をさしています。

穢というのはけがれているということですが、それは何に対してけがれているのかというと、執着にけがれているというのです。

人間の生き方にしても、社会のあり方にしてみても、私たちはすべて自分の思い、自分中心の見方でとらえています。

そして、そのような自分の思いを後生大事にかかえて生きています。

それは、つまるところ、それぞれ自分の思いに閉じこもって生きているということです。

考えてみますと、人間はどのような苦しみに会っても、そこに語るべき友をもっている間は、絶望することはありません。

けれども、誰に言ってもどうにもなるものかという、自分の思いに閉じこもってしまった時に、人は絶望するのです。

したがって、たとえそれがどれほど苦しい事実であっても、決して事実によって絶望することはないのです。

孤独感に苛まれ、心を閉じ、自分だけの思いに閉じこもったとき、人は救いのない、抜け場のない、そういうあり方の中に落ち込んでいくのです。

これに対して、浄土というのは、心が開かれ明るさを持つ世界です。

それは、苦楽ともにということから言いますと、苦しみにおいて自らの事実を受け止め、楽しみにおいて人と共に出会っていける世界ということです。

私たちが浄土を見いだし、常に浄土を心の依りどころとして生きていくということは、苦しみにおいて常に自らを明らかに受け止め、楽しみにおいて常に人と出会う、そういう生き方が私たちの上に開かれてくるということです。

このような意味で、少なくとも、私たちにとって二つのことが生き方の中に開かれなければ、本当に自らの生涯というものを十分に生ききることが出来ないのではないでしょうか。

一には、自分の事実をどこまでも引き受けていける、そういう場所を持つということ。

同時に、すべての人々と喜びをともに分かち合っていける心が開かれてくるということです。

人生の途上で、たとえつまづいても、くじけても、私が帰っていける世界を見いだすことが出来れば、私たちはその喜びを胸に一度限りのこの人生を尽くしていくことが出来るのだと思います。

「親鸞聖人の仏身・仏土観」(7月中期)

(二)の

(二)行と申は本願の名号をひとこゑとなへてわうじゃうすと申ことをききてひとこゑをもとなへもしは十念をもせんは行なり。

も『末燈鈔』の文で、第十一通に当たります。

ここでは

「行の一念と信の一念」

の関係が問われます。

親鸞聖人はこの二者の関係を

「行」

という概念でとらえられます。

「本願の名号を一声称えて往生す、という阿弥陀仏の誓いを聞いて、一声をも称え、十念をもする」

ことが、行だといわれているからです。

ところで、この文中の

「聞く」

について、聞くとは、本願の勅命を聞いて疑心が全くなくなることだとして、その心に信の一念を見られます。

そこで、ここに信の一念をはさんで、二種の行の一念が存在します。

「ひとこゑとなへてわうじゃうす」

という本願の教法を聞いて、

「ひとこゑをもとなへ」るの

「一声」

がそれで、

「行の一念」

「信の一念」

「行の一念」

という

「聞いて」

という信をはさんで、二種の

「行」

の関係が見られるのです。

しかも、この全体を親鸞聖人は

「行」

とらえられるのです。

では、その行とは何でしょうか。

「一声称えて往生す」

という弥陀の勅命だといえます。

弥陀の誓願のはたらきが、必然の道理として衆生をしてその誓願を信ぜしめ、称名しているからです。

ここで重要なのは、信じた後の称名ではありません。

この称名は、勅命に信順している姿でしかありません。

したがって重視されるべきは、衆生に信を生起せしめる

「称名せよ」

という勅命、本願のはたらきです。

この行の一念と信の一念の関係がここで問われています。

だからこそ、この行の一念を離れては、信の一念は成り立ちませんし、行の一念は意味をなさないのです。

「行一念と信一念」

の関係は、まさに行の一念が信の一念を成就せしめるのですから、親鸞聖人はこのはたらきの全体を

「行」

として捉えられ、この一切を

「みだの御ちかひ」

だと理解されたのです。

「自然法爾」

のお手紙では、この弥陀の御ちかいが

「南無阿弥陀仏とたのませたまひてむかへんと、はからはせたまひたる」

という、弥陀のはからいだとされます。

「ひとこゑとなへてわうじゃうす」

という行の一念こそ、

「南無阿弥陀仏とたのませたまひてむかへん」

という、弥陀の

「はからい」

そのものになるのです。

「より良い人間関係を築くために」(中旬)たった一言、されど一言

次は、言葉についてお話して参りましょう。

仏さまの教えには、お金や物ではなく、行いをお布施する

「無財の七施」

という行があるんですが、その中に

「愛語施」

というものがあります。

愛語施は、心のこもった言葉で人と接していくという意味です。

これは特別な行為ではなく、誰にでも実践できることです。

先ほど母親の話をしましたが、私は仕事の忙しさと母親の世話にはさまれて、自分自身の体調を崩したことがあります。

母親の恩に報いたくてもどうにもできず、とても辛い思いをしました。

そんなとき、私の身内や親しい人が一言、

「ご苦労さま。

分かってるよ。

あなたはよく頑張っている」

と言ってくれたんです。

その一言で、私はものすごく気が楽になりました。

生きる気力がみなぎってきたんです。

たった一言、されど一言。

気持ちのこもった言葉というのは、本当に大きいということを、身をもって感じたことでした。

これは家族だけでなく、仕事場などあらゆるところに当てはまることではないかと思います優しい思いやりのこもった言葉で人に接することで、相手の心を助け、和ませることにもなる訳です。

しかも、自分自身が穏やかな心を頂ける。

お互いが助け合うことになんですね。

愛語施にはもう一つ、他者からの指摘を大切にするという意味があります。

誰でも言えるお世辞と違い、悪い所を指摘するのは本当に相手のことを思っていなければ、なかなか出来ません。

家族や親しい人だと、自分のことをよく見ているから遠慮がないし、ごまかせません。

だからこそ、本音で指摘してくれる。

いろんな意味で手ごわいんです。

ここで、愛情のこもった指摘を煙たがって受け入れないか。

または、自分のためだと受け止めていくか。

それが大きな分かれ目になるんです。

私は妹からよく指摘されます。

耳が痛いことですが、自分に対する執着、自我が強いために、今さら自分を変えることはなかなかできません。

ましてや自分より年下の人の指摘を受け入れるというのは難しいですね。

人は自分の欠点や未熟な部分には気付こうとしません。

気付いても、自我が強いから、見て見ぬふりをします。

すると、内面の成長はストップしてしまいます。

ですから、私は親身になって指摘してくれる人たちの言葉を

「よくぞ言ってくれた」

と受け入れるように心がけ、指摘されたことを少しずつ実践するようにしました。

そして、2・3カ月も経つと、それまで以上に生活が充実するようになったんです。

反対に、私も妹に対して遠慮なく指摘しています。

一方通行ではなく、お互いというのが大事なことですから、そのように、お互いに指摘しあえる関係は、家族も友だちも変わりません。

互いに気持ちを込めた言葉を交わすことで、よりよい人間関係を築き、ともに成長していけるんです。

これは、仏さまが説かれる

「自利利他円満」

の教えに通じるものではないかと思います。

『他力』

「他力」

という言葉は、仏教用語なのですが、日常語として、特にスポーツや政治の場面でしばしば用いられます。

そこで、岩波国語辞典で

「他力」

の語を引きますと、

「他人の助力」

とあり、また

「他力本願のこと」

だとして、

「阿弥陀仏が一切の人を救おうとして立てた願いにたよって成仏すること。

比喩的に、他力にたよって物事をしようとすること」

だと述べ、

「自力」

という語を対応させています。

そして

「自力」

については、

「自分ひとりの力。

独力。

悟りをめざして自分の力にたよって修行すること」

と説いています。

この説示によりますと、自分の力に

「たよる」

のが自力であり、他の者の力に

「たよる」

のが他力となります。

いわば、ある大事を完成させる場合、そのことを自分の力で一生懸命努力することが

「自力」

であり、努力もしないでなまけていながら、いざとなれば他人の力を当てたよりにすることが

「他力」

だと解されます。

辞書にそのような意味が示されているということは、今日私たちが日常語として使っている

「他力」

は、このような意味として人々に理解され、用いられているということです。

ところで

「他力」

が仏教用語として使われる場合は、私たち一人ひとりが仏になるための行道を意味しています。

また、ここで確認しておきたいことは、仏教の行道において怠けることを勧める教えは存在しないということです。

そうしますと、この

「他力」

の語は、世間で使われている意味とは大きく異なっているといわなければなりません。

こごて

「自力」

ということを少し問題にしてみます。

たとえば、日本からアメリカまで太平洋を独力で泳いで渡ろうと決意した人がいるとします。

しかし、それがどれほど堅固な決意であったとしても、それを誉め称える人はおそらく誰もいないと思われます。

その結果は、力尽きて溺れて死ぬだけだからです。

ではこの場合、重要なことは何でしょうか。

極めて簡単なことで、自分にはその力がないと知ることであって、船とか飛行機などの力によらないかぎり、太平洋は横断し得ないことを認めることです。

自分で仏になるとは、まさしくこのようなことです。

仏の力によらないかぎり、だれ一人として仏果には至りえないのです。

ところが、悲しいことに人はその仏力を知り得ませんから、いたずらに迷いを積み重ねているのです。

まさに、この迷える衆生をただ一方的に救おうとしておられるのが、阿弥陀仏の本願力にほかなりません。

この阿弥陀仏の迷える衆生(阿弥陀仏から見て、他)を救う力を

「他力」

というのです。

釈尊は、私たち凡夫に阿弥陀仏の無限の大悲を説いて、阿弥陀仏の本願力に乗じて速やかに仏果に至る道を示さました。

そこで、阿弥陀仏が一切の衆生を救われる力を

「他力」

と呼ぶと同時に、この私を救われる阿弥陀仏の本願力を信じる心をまた

「他力」

というのです。

それは決して、怠け者が神仏の利益を求めて、必死にその力にしがみつこうとしている姿ではありません。

この

「力」

こそ、自力の極みだからです。

「他力」

とは、阿弥陀仏が阿弥陀仏自身から見て

「他」

である私を、私が願うと願わざるとにかかわらず、願うに先立ってこの私を迷いから救おうとされる阿弥陀仏の願いのはたらきです。

したがって、私たちは念仏の教えを聞き続けることを通して、阿弥陀仏の願いのはたらきに目覚めていくことが、他力の教えに生きることに重なっていくのだと言えます。