投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

「より良い人間関係を築くために」(中旬)たった一言、されど一言

次は、言葉についてお話して参りましょう。

仏さまの教えには、お金や物ではなく、行いをお布施する

「無財の七施」

という行があるんですが、その中に

「愛語施」

というものがあります。

愛語施は、心のこもった言葉で人と接していくという意味です。

これは特別な行為ではなく、誰にでも実践できることです。

先ほど母親の話をしましたが、私は仕事の忙しさと母親の世話にはさまれて、自分自身の体調を崩したことがあります。

母親の恩に報いたくてもどうにもできず、とても辛い思いをしました。

そんなとき、私の身内や親しい人が一言、

「ご苦労さま。

分かってるよ。

あなたはよく頑張っている」

と言ってくれたんです。

その一言で、私はものすごく気が楽になりました。

生きる気力がみなぎってきたんです。

たった一言、されど一言。

気持ちのこもった言葉というのは、本当に大きいということを、身をもって感じたことでした。

これは家族だけでなく、仕事場などあらゆるところに当てはまることではないかと思います優しい思いやりのこもった言葉で人に接することで、相手の心を助け、和ませることにもなる訳です。

しかも、自分自身が穏やかな心を頂ける。

お互いが助け合うことになんですね。

愛語施にはもう一つ、他者からの指摘を大切にするという意味があります。

誰でも言えるお世辞と違い、悪い所を指摘するのは本当に相手のことを思っていなければ、なかなか出来ません。

家族や親しい人だと、自分のことをよく見ているから遠慮がないし、ごまかせません。

だからこそ、本音で指摘してくれる。

いろんな意味で手ごわいんです。

ここで、愛情のこもった指摘を煙たがって受け入れないか。

または、自分のためだと受け止めていくか。

それが大きな分かれ目になるんです。

私は妹からよく指摘されます。

耳が痛いことですが、自分に対する執着、自我が強いために、今さら自分を変えることはなかなかできません。

ましてや自分より年下の人の指摘を受け入れるというのは難しいですね。

人は自分の欠点や未熟な部分には気付こうとしません。

気付いても、自我が強いから、見て見ぬふりをします。

すると、内面の成長はストップしてしまいます。

ですから、私は親身になって指摘してくれる人たちの言葉を

「よくぞ言ってくれた」

と受け入れるように心がけ、指摘されたことを少しずつ実践するようにしました。

そして、2・3カ月も経つと、それまで以上に生活が充実するようになったんです。

反対に、私も妹に対して遠慮なく指摘しています。

一方通行ではなく、お互いというのが大事なことですから、そのように、お互いに指摘しあえる関係は、家族も友だちも変わりません。

互いに気持ちを込めた言葉を交わすことで、よりよい人間関係を築き、ともに成長していけるんです。

これは、仏さまが説かれる

「自利利他円満」

の教えに通じるものではないかと思います。

『他力』

「他力」

という言葉は、仏教用語なのですが、日常語として、特にスポーツや政治の場面でしばしば用いられます。

そこで、岩波国語辞典で

「他力」

の語を引きますと、

「他人の助力」

とあり、また

「他力本願のこと」

だとして、

「阿弥陀仏が一切の人を救おうとして立てた願いにたよって成仏すること。

比喩的に、他力にたよって物事をしようとすること」

だと述べ、

「自力」

という語を対応させています。

そして

「自力」

については、

「自分ひとりの力。

独力。

悟りをめざして自分の力にたよって修行すること」

と説いています。

この説示によりますと、自分の力に

「たよる」

のが自力であり、他の者の力に

「たよる」

のが他力となります。

いわば、ある大事を完成させる場合、そのことを自分の力で一生懸命努力することが

「自力」

であり、努力もしないでなまけていながら、いざとなれば他人の力を当てたよりにすることが

「他力」

だと解されます。

辞書にそのような意味が示されているということは、今日私たちが日常語として使っている

「他力」

は、このような意味として人々に理解され、用いられているということです。

ところで

「他力」

が仏教用語として使われる場合は、私たち一人ひとりが仏になるための行道を意味しています。

また、ここで確認しておきたいことは、仏教の行道において怠けることを勧める教えは存在しないということです。

そうしますと、この

「他力」

の語は、世間で使われている意味とは大きく異なっているといわなければなりません。

こごて

「自力」

ということを少し問題にしてみます。

たとえば、日本からアメリカまで太平洋を独力で泳いで渡ろうと決意した人がいるとします。

しかし、それがどれほど堅固な決意であったとしても、それを誉め称える人はおそらく誰もいないと思われます。

その結果は、力尽きて溺れて死ぬだけだからです。

ではこの場合、重要なことは何でしょうか。

極めて簡単なことで、自分にはその力がないと知ることであって、船とか飛行機などの力によらないかぎり、太平洋は横断し得ないことを認めることです。

自分で仏になるとは、まさしくこのようなことです。

仏の力によらないかぎり、だれ一人として仏果には至りえないのです。

ところが、悲しいことに人はその仏力を知り得ませんから、いたずらに迷いを積み重ねているのです。

まさに、この迷える衆生をただ一方的に救おうとしておられるのが、阿弥陀仏の本願力にほかなりません。

この阿弥陀仏の迷える衆生(阿弥陀仏から見て、他)を救う力を

「他力」

というのです。

釈尊は、私たち凡夫に阿弥陀仏の無限の大悲を説いて、阿弥陀仏の本願力に乗じて速やかに仏果に至る道を示さました。

そこで、阿弥陀仏が一切の衆生を救われる力を

「他力」

と呼ぶと同時に、この私を救われる阿弥陀仏の本願力を信じる心をまた

「他力」

というのです。

それは決して、怠け者が神仏の利益を求めて、必死にその力にしがみつこうとしている姿ではありません。

この

「力」

こそ、自力の極みだからです。

「他力」

とは、阿弥陀仏が阿弥陀仏自身から見て

「他」

である私を、私が願うと願わざるとにかかわらず、願うに先立ってこの私を迷いから救おうとされる阿弥陀仏の願いのはたらきです。

したがって、私たちは念仏の教えを聞き続けることを通して、阿弥陀仏の願いのはたらきに目覚めていくことが、他力の教えに生きることに重なっていくのだと言えます。

先日、職場で行われている定期健康診断がありました。

先日、職場で行われている定期健康診断がありました。

毎年のことなので、特に深く考えることもなく、医療機関に出向いて受診しました。

結果は、また後日文書で報告するということで、ここまではいつもと変わらない流れでした。

ところが今回はいつもと違い、数日後、受診した医療機関から電話がかかってきました。

「何かな?」

と思って受話器を取ると、お医者さんが

「心電図に気になる部分があります。

御都合のよい時で結構ですから、もう一度こちらにいらしてくださいませんか?」

と、言われるのです。

あまりにも突然のことだったので、すぐに返す言葉が見つからず、また電話ということもあり、詳しいことを尋ねる訳にもいかず、結局その時は

「わかりました。

後日うかがいます」

とだけ答えて電話を切りました。

後日、病院でお医者さんの前に座ると、

「ご家族や近い親戚に、突然死をされた方はいらっしゃいませんか?」と。

私の知る限りでそういった人はいなかったので

「いいえ、いません。

一体どうしたのでしょうか?」

と尋ねました。

すると、

「心電図に気になる部分があって…。

突然死をしたりする人によく見られるのと同じような部分がある」

とのことでした。

自覚症状がないこともあり、はじめは全くピンとこなかったのですが、とりあえずお医者さんの指示により、

「しばらく検査をしながら様子をみていく」

ということになりました。

時間が経つに連れて、次第に事の重大さが分かってくると、これまでは元気に生活していることが当たり前であるかのように過ごしていたのですが、

「それは決して当たり前などではなく、たまたま頂いていた、かけがえのない尊い時間であったのだ」

ということに気づかされました。

普段から

「諸行無常のいのち」

と、私なりにみ教えを頂いているつもりでいたのですが、今回の問題を通して、それは単に言葉だけの表面的な理解に過ぎなかったこと、そして初めて

「これがまさしく現実の姿なのだ」

と強く実感させられたことです。

現在、経過観察ということで、お医者さんに気をつける点などを聞かせて頂きながら、我が身を省みる尊いご縁だと思い、生活習慣を見直したり、今まで当たり前にしてきたようなことを改めたりしています。

いのちに関わることだけに心配なことではありますが、そういった我が身とうまく付き合いながら、今日の一日を改めて見つめ直し、今こうしていのちを頂いていることを喜んでいる毎日です。

そのせいか、気持ちの上では、今まで以上に大変充実した日々を送ることが出来ています。

気がつけば、早いもので今年も後半に入りました。

「人生とはその日その日のこと」

と言われます。

あなたも、今日という一日を振り返り、かけがえのない大切な今を生かさせて頂いていることに心を寄せてみてはいかがでしょうか。

また

「病は気から」

とも言われますが、一日一日を大切にしようと心がけることが、実は元気に日々を過ごすことのできる一番の秘訣かもしれませんね。

『浄土くじけてもつまづいても帰れる世界』

親鸞聖人750回大遠忌法要が京都の本願寺で4月より厳修されています。

ご門主様は4月からの法要厳修に先立ち、東日本大震災によって被災された方々に対し、心よりのお見舞いを申し上げるとともに、いのちを失われた方々とご遺族に哀悼の意を表されました。

そして

宗門では、すべての被災された方々の悲しみに寄り添い思いを分かち合いたいとの願いをもって大遠忌法要をお勤めいたします

と述べておられます。

私たちもまた、被災された方々の苦しみや悲しみに寄り添いながら、自分たちに何ができるのかを考え続け、それぞれの立場で活動していければと思います。

先日、私はご門徒の皆様とともに親鸞聖人750回大遠忌法要にお参りしてきました。

雅楽演奏の厳かな雰囲気の中に、ご門主さま・新門さまをはじめ、多くの僧侶が出勤して賑々しくご法要が勤まり、御影堂を埋め尽くした3,000名以上の僧侶・門徒が、ともに

「正信念仏偈」

のお勤めを始めますと、御影堂全体を震わすばかりの声が隅々に響きわたりました。

親鸞聖人が90年のご生涯をかけてお念仏のみ教えをお伝え下さった御苦労を偲びつつ、そのみ教えを慶び、心の拠り所として生き抜き、伝えてこられた先達の方々の親鸞聖人への思いに心を馳せる時、両頬に流れる熱いものを感じました。

このご勝縁に出遇わせて頂きましたことを心から慶ばせて頂くことです。

親鸞聖人が90年の生涯を通してお念仏のみ教えに導かれながら苦しみや悲しみを克服し、力強く生き抜いてこられたように、私たちもまたくじけても、つまずいても、必ずかならず帰らせていただくお浄土を頂くことによって、安心して生き、安心していのち終わっていくことのできる力強い人生を歩ませて頂きたいものです。

「親鸞聖人の仏身・仏土観」(7月前期)

さて、親鸞聖人にみるこのような信心と念仏の構造を念頭において、これら三つの引文の念仏思想を窺ってみましょう。

(一)の

(一)弥陀の本願とまふすは、名号をとなへんものをば極楽へむかへんとちかはせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候なり。

は、『末燈鈔』第十二通の文です。

このお手紙は

「念仏往生と信じる人は、辺地に往生する」

という主張をめぐっての、弟子たちの論争に対しての、親鸞聖人の回答です。

親鸞聖人はここで、弟子たちの論争そのものを、まず厳しく否定されます。

両者共

「念仏往生」

の義をまったく誤って理解していたからです。

浄土教一般では

「念仏往生」

といえば、一心に念仏を称えて、往生を願うという意味になります。

したがって

「念仏往生と信じる」

ということは、普通は一生懸命念仏を称えていれば、往生できるのだと信じることですから、称名が往因行となり、自力の称名と見られなくはありません。

自力の称名は言うまでもなく、辺地にしか往生しません。

そこで弟子の何人かは

「念仏往生と信じる人は辺地に往生する」

と主張したのだと思われます。

ところが、他の弟子から見ると、その主張は

「称名」

の否定になりかねません。

では、この論難のどこに根本的な誤りがあるのでしょうか。

実はその誤りを見いだすことが出来なかったので、このような手紙を親鸞聖人に送ったのだと思われます。

そこで、親鸞聖人は浄土真宗の

「念仏往生」

の真実義をここで説かれたのです。

「弥陀の本願とまふすは、名号をとなへんものをば極楽へむかへんとちかわせたまひたる」

がその答えです。

この意味は、善導大師の『往生礼讃』の

「弥陀の本弘誓願は」

以下の文によっていることは確かであり、また

「自然法爾」

の文の

「南無阿弥陀仏とたのませたまひてむかへんと、はからはせたまひたる」

の意味とも重なっています。

親鸞聖人にとっての念仏往生とは、まさに阿弥陀仏の

「ただ念仏せよ、汝を救う」

という本願のはからいにほかなりません。

だからこそ親鸞聖人は、この本願の勅命を、そのごとく

「ただ信じる」

ことが、念仏者にとっての唯一の往因だと説かれるのです。

そうしますと、この者の仏道は、

「念仏せよ」

という弥陀の勅命をただ信順して念仏するのみとなります。

この故に、念仏往生の本願を

「ふかく信じてとなふるがめでたきこと」

なのです。

「より良い人間関係を築くために」(上旬)自分は変わろうとせず、相手に変化を求める

======ご講師紹介======

川村寿法さん(一人語り演劇家・脚本家)

☆演題 「より良い人間関係を築くために」

真宗大谷派・西蓮寺の住職として、日本各地で仏法講演を行うと同時に、朗読演劇の脚本作りに励む。

平成11年にはメディア出演し、「仏法視点による人生論」などを説く。

平成17年、プロ・セミプロ混成の人形劇団で、脚本・声優役を兼ねた代表に就任。

演目『蓮如上人記〜桜の散り際』が全国誌に掲載された。

また、老人から中年、青少年、幼児役など、あらゆる声の演出を一人でこなす。

「一人語り演劇」を全国各地で実施。

平成18年には、ラジオFMキタキュウシュウ(北九)でレギュラー番組『ラジオ一人語り演劇』を担当した。

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仏教を開かれたお釈迦さまは、人間関係がこじれる原因は、自分への執着

「自我」

にあると教えてくださいました。

それはつまり、自分の考えや価値観を基準にした

「私こそが」

「私だけが」

という我と我の衝突ということです。

私たちは夫婦や親子といった家族の他にも、友人関係、師弟関係など、さまざま人との関わりがあるます。

性格や価値観の異なる人が同じ空間で過ごすということになります。

人間は、自分の主観で物事を推し量る生き物です。

ですから、お互いに自分こそが正しいと主張します。

その我と我がぶつかり合うわけですね。

これがお釈迦さまが言われた執着です。

ここで問題なのは、

「私は間違っていないんだから、あなた方が正すべきでしょう」

と、自分は変わろうとしないのに、相手の方に変化を求める点です。

ここからストレスがたまっていくんです。

そこで、お互いに少しの勇気を出して、自分こそがという思いを引っ込めていく。

自分とは異なる価値観や性格を少しずつでもいいから受け入れていくことが重要になります。

ここで例にあげますのが、私の母親です。

学校の先生を40年間やってきた人で、とても元気な人でした。

しかし年には勝てず、身体が弱ってきて、人工透析を受けるようになりました。

腎臓が悪くなって、2日おきに病院に行って血を入れ替えなければなりません。

私は、仕事の合間を縫って母親の送り迎えをしていました。

透析にとって一番気を付けなければならないのは、風邪をひいてしまうことなんだそうです。

母親も年を取ると気弱になっていくんですね。

ですから、風邪を極端に気にするようになりました。

冬場だと、特に待たされるのが大嫌いになりまして、私が約束の時間に3分遅れて迎えに行くと、

「遅い」

と大声で言われるんです。

さらに

「私はこんなに具合が悪いのに、20分も待たせて」

と言うんです。

でも、私は20分も待たせてはいないんです。

ところが、母親の中の時計では、3分でも20分に相当する長い時間な訳です。

まさにここが

「私の感覚が正しいんだ」

という我執です。

そこで、私は仏さまの教えを思い起こすことにしました。

ここはひとつ私が

「自分こそが」

の我を引っ込めてみようと思ったのです。

ある日、私が遅れて迎えに行きますと、いつものように母親は大きな声で文句を言ってきました。

そしてお寺に着いた時、私は自分の中にある

「絶対に3分ほどしか待たせていない」

という思いを押さえ込んで、

「お袋、悪かったね。

20分も待たせて悪かった」

と言ったんです。

すると、母親はなかなか車が降りようとしません。

じっとうつむいて、

「私こそ悪かったね。

本当にありがとう」

と、初めて言ってくれたんです。

私はこのとき、もっと早く

「悪かったね」

と言えば良かったと思いました。

このことが、私と母親との本当の出遇いになったと思っています。

このように、お互いが

「自分は正しい」

という我を引っ込め、自分とは異なる相手の生き方、考え方、性格を認めて受け入れていく。

そうすることで、おのずとお互いに心が開かれ、人間関係が築かれていくんです。

そのことを、私は日頃の仏さまの教えと、家族との関わりを通して、学ばせていただいたような気がします。