投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

『流す涙に育てられるものもある』

身体も、老いも、死もすべて思いのままにならなかった、つまり真実の

「人間のありさま」

に気付いたとき

「流す涙に育てられる」

と頷ける世界が開けてくるのです。

自分はいつもまでも若い、健康が宝だという妄想が消え果てたとき、開けてくる世界です。

私たちは、この真実の

「人間のありさま」

が受け入れられないから苦しむのでしょう。

思い通りにしたいという

「我が思い」

に苦しめられるのです。

身体も、老いも、病も、生も死もすべて与えられたものです。

これを

「絶対他力」

といいます。

この絶対他力の

「はたらき」

に気付けば、

「流す涙に育てられるものもある」

ことに頷けるのです。

福岡のあるお寺のご門徒のKさんは、人生の四苦八苦を何度も経験し、今は寝たきりになりながらも、まわりの人びとの心づかいに、いちいちお礼を言いながら、

「今の私は、申し訳ありませんが、笑顔しか差し上げるものがありません。

その笑顔すらできないことがあるのですよ。

もったいのうございます」

と、さわやかな笑顔を見せてくださるそうです。

その話を、その方のお寺のご住職から聞かせて頂きましたが、先生は

「健康は誰でも望むところではあるが、身体の健康には往々にして落とし穴がある。

健全なる精神は健全なる身体に宿るという諺も、半分は本当だが、半分はウソである」

と語っておられます。

病気にならなければ手に入らない大切なものもあります。

「病がまたひとつの世界を開いてくれた」

(坂村真民)

病気のことだけでなく、人生には失敗もあれば、挫折もあります。

その他にも様々な苦しみや悲しみを体験しますが、親鸞聖人は

「よきことも悪しきことも、業報に差し任せて、ひとえに本願をたのみます」

と、大変に力強い人間の生き方を示しておられます。

み教えに学んでいきましょう。

「親鸞聖人の仏身・仏土観」(6月後期)

ところが親鸞聖人の思想には、このような表現は見られません。

往因を問題にされる場合には、

「ただ信じる」か

「ただ念仏する」

かのどちらかに限られています。

しかも、親鸞聖人の思想の特徴は、この信心と念仏に関して、衆生の信じ方や称え方をまったく問題にされない点にあります。

つまり、親鸞聖人は真実の信心と念仏を、人間の精神現象の面でとらえようとはしておられないのです。

なぜなら、親鸞聖人は迷える凡夫の心には

「一片の真実心」

も無いと見られたからです。

これは当然の理であって、凡夫の迷いは、真実心がないことから生じています。

もし真実心があれば、迷いは生じません。

今日の真宗教学でも、真実の信心でもって本願を信じるとか、真実信心をもって称名するというようなに、

「真実の信心」

という精神現象面が強調される場合がありますが、少なくとも親鸞聖人の著述においては、そのような凡夫の精神現象面での

「真実信心」

のあり方は全く述べられてはいません。

それは、凡夫の心には、精神現象面での

「真実の心」

はありえないからで、そのことについては

『一念多念文意』に、

凡夫といふは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおほく、怒り腹立ち、そねみねたむこころ、おほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず。

と説かれ、また

『歎異抄』にも

煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのことみなもてそらごとたわごと、まことあることなきに、

と語られていることによっても明らかです。

この故に親鸞聖人は、本願の三心と十念を、衆生が往生するための、凡夫自身がなすべき行為としての、信心と念仏とは見ないで、

その三心と十念を、阿弥陀仏が衆生を往生せしめるための、仏の大悲心であり、大行であると解釈されたのです。

『教行信証』の

「行巻」と

「信巻」は、

この阿弥陀仏の大行と大信の構造を論理的体系的に語っておられるのですが、いま問題にしている

「自然法爾」

もまた、この点が問われているのです。

「人生、好んで楽しもう」(下旬)何があってもワッハッハと笑えば幸せが訪れる

私の知り合いに、あるお年寄りがいます。

ある時、私に見せたいものがあると言われて、その人の家に伺ったんです。

とても大きな家に住んでいました。

それで、その人に会って、私に見せたい物とは何かを聞いてみますと、枕元のとても大きくて立派な金庫を指したんです。

中身に興味をひかれたので、せっかくだから中を見せてもらいました。

すると100万円の束がぎっしり入ってまして、すごいお金でびっくりしました。

いくらくらいあるのか聞いちゃいました。

なんと、3億8000万円だそうです。

でも、私はその人をうらやましいとは全く思えませんでした。

何故なら、実はその人、寝たきりだったんです。

自分の身体をほとんど動かせないので、外へ行くことも出来ません。

車に乗ったり、電車やバスに乗ったりしてどこかに行くことができないから、携帯電話で介護センターに電話して、身体を洗ってもらった、ご飯を食べさせてもらったりしているんです。

大金を持っていても使えない身体だということです。

つまらない人生でしょう。

だって、お金というのは、貯めても使っても、どちらでも楽しいものですよね。

でも、そういうことが何もできず、3億8000という大金に手をつけられないまま死んでいかなければならないんです。

不幸ですよね。

人間はやっぱり、最後は身体が大事なんだと思いました。

「お金が1円もなくても、立派な身体があれば、パートでお金を稼いで、友だちと一緒に旅行に行くこともできるんだよ」

そういうことを言える人は立派です。

やっぱり、ワッハッハと笑えて、自分で好きなことができる、歩いていける、友だちに会うこともできる。

そういう行動ができる人が一番幸せだと思いませんか。

人よりたくさんお金を持っている。

高級車を買った。

家を買ったと自慢されても、私はうらやましいとも何とも思いません。

むしろ

「バカだな。

おれは親からもらったこんなに丈夫な身体があるおかげで、ずっと楽しくて明るい人生を送らせてもらっているんだから、有り難い」

と笑って言えるのが、一番幸せだと思っています。

だから、みなさん、くよくよしたり、嘆いたり、人を恨んだりしちゃダメですよ。

年中笑っていてください。

亭主が死んでも、火事になっても、ワッハッハと笑っていれば、必ず幸せが訪れるんです。

『インド・ネパール旅日記!?』

『インド・ネパール旅日記!?』

1月の下旬から2週間程、インドを中心とした

「仏跡参拝」

をさせていただきました。

初めてのインド。

行くと決まってからは、

「服は?」

「薬は?」

「他には何が必要?」

インドへ行かれたことのある方々から、とにかく情報を集めて回った日々…。

その結果、必需品は

「正露丸」

これがダントツ!!

これまでにも外国には何カ国か行ったことがありますが、トップに

「正露丸」

が出てくる国は初めて…!

不安を抱きつつも、好奇心旺盛な私はワクワクしながらインドへ向かいました。

同行者に、以前通っていた学校の先生や先輩・友人が多かったこともあり、楽しく旅をスタートさせることができました。

飛行機がインドのコルカタ空港へ到着し、空港を出た時に出た一言は

「臭っっ!!」。

大気汚染で汚れた空気が、鼻をつきました。

しかし、翌日には鼻が慣れてしまう順応性の良さ…。

インドの旅では、寝台列車や特急列車、飛行機(中古)などいろいろな乗り物に乗りましたが、何と言ってもバスでの移動が長いこと長いこと。

7〜8時間かけての移動なんて当たり前。

そんな時は喋るか、音楽を聞くか…、経由地のシンガポール空港で手分けして購入したお酒をみんなで飲んで、後は寝るか…。

六大仏跡地を始め、多くの僧院跡やガンジス河、ネパールのカトマンズにある本願寺も訪ねました。

そんな中、今回の旅で深く思いが残った場所は、お釈迦さま涅槃の地であるクシナガラ。

悟りを開かれてから、45年という長い歳月を説法しながら歩き続けられ、最期の時を迎えられた場所。

その場所に立つことができた

「縁(えにし)」

というものを本当に有り難く感じました。

私を仏縁にあわせてくれたのは、父の

「いのち」

でした。

そこで、日本から持参した父の遺骨を少しばかり、お釈迦さまの涅槃像が安置されてある涅槃堂の傍らに分骨させていただきました。

あれから既に20年近く経つのに、未だに父と別れた寂しは消えてはいません。

でもそれ以上に、こうして仏縁を有り難く思える私にお育ていただいていたことを嬉しく思いました。

以前、知人からインドへ行った際、

「長渕剛の『ガンジス』という曲を持って行った」

という話を聞いていたので、私も持って行きました。

旅をするのは帰る家があるからだ

さすらいの旅ほど淋しいものはない

私にはインドでの旅を終えたら帰る家があります。

だからこそ、安心して旅をすることができました。

じゃぁ、私のいのちが終わったら!?

帰るべき場所はただ一つ。

お浄土なんだ…。

そう思うと、お念仏申さずにはおれませんでした。

仏跡参拝の旅は、本当に楽しかったです。

そして、自分が仏縁に出遇えたことを、改めて慶ばせていただけた旅でした。

心から

「このご縁を忘れず、日々を生きていこう!!」

と思ったことです。

あれから、4カ月。

さてさて、今の私はどうなんだろう…^^;

『流す涙に育てられるものもある』

あなたは、どのような時に涙を流しますか。

例えば、忘れてしまいたいことや、どうしようもない悲しさに包まれた時ですか。

それとも、心から嬉しいことがあったりした時ですか。

人によっては、何かに感動して、気がつけば涙を流しているということもあったりするかもしれませんね。

さて、

「涙を流す」

ことを

「泣く」

と言いますが、この

「泣く」という文字は、

「サンズイ」に

「立」

という字が添えてあります。

また

「涙」という字は同じく

「サンズイ」

に今度は

「戻」

という字が添えてあります。

これは、私たちが深い悲しみに出会い、涙に溺れそうになっている時、たとえそれがどんなに深い悲しみであったとしても、必ず

「立」ちあがらせずにはおかないという、仏さまの願いを表すために

「サンズイ」に

「立」を添えて

「泣」という字にし、

「涙」

に押し流されてしまいそうになる私たちを、必ずあるべき姿に引き

「戻」

してくださる、仏さまの御心を表すために

「サンズイ」に

「戻」を添えて、

「涙」

という字にしてあるのだというお話を聞いたことがあります。

経典には

「仏さまは、いつも私たちの心や想いの中に入り、私たちを導いて下さる」

ということが説かれています。

これは、私たちが悲しみにうちひしがれて心が沈み、泣いている時には新しい視点を与えて立ち上がらせ、悲しみの涙に押し流されかけている時には、新しい生きがいを示して本来の生き方に引き戻して下さるということのようです。

人生において、辛いことや悲しいことは、なければそれにこしたことはありませんが、条件さえ整えば思いがけない苦難に陥ることも少なからずあります。

けれども、人間には

「悲しみを通さないと見えてこない世界がある」

とも言われます。

悲しみに出会うことを通して、それまで

「当たり前」

と思っていたことが、決してそうではなかったことに気がついたり、見落としていたり、気にも止めていなかったことに頷かされたりすることがあったりするということでしょうか。

もちろん、私たちは悲しい時ばかりではなく、時には笑顔で涙を流すこともあったりします。

「嬉し涙」

と言われるものですが、出来れば人生においては、悲しくて流すよりも嬉しくて流す涙の回数が多い方が望ましいものです。

この他に、テレビや映画、あるいはスポーツなどを見て感動のあまり涙を流すこともあります。

思えば、悲しかったり、嬉しかったり、そして感動したり…と、いずれも私たちは何かにふれて心が大きく揺れ動く時に

「涙」

を流すようです。

そのような体験の繰り返しの中で、人は少しずつ成長をして行くのではないでしょうか。

「親鸞聖人の仏身・仏土観」(6月中期)

「阿弥陀仏の誓願」

とは、何でしょうか。

衆生に自らのはからいの一切を捨てさせ、

「南無阿弥陀仏とたのませて、その衆生を迎えようと、おはからいになっている」

この願意の全体が、

「南無阿弥陀仏」

という阿弥陀仏自体のすがたであり、このはたらきを

「自然」

申すのだと、親鸞聖人は聞いていると言われます。

では、親鸞聖人はこの真理を誰から、いかに聞き習われたのでしょうか。

『教行信証』

で、親鸞聖人は善導大師の

『往生礼讃』の

「深心釈」

を智弁の『集諸経礼讃儀』の文から引用され、

弥陀の本弘誓願は、名号を称すること、下至十声、聞等に及ぶまで、定んで往生を得しむと信知して、一念に至るにおよぶまで、疑心あることなし。

と聞かれます。

善導大師の教えを通して、阿弥陀仏は本願に

「ただ名号を称せよ、必ず往生を得しめる」

と誓われていると見られたのです。

その称名は十声でも一声でもよく、その名号を聞くだけでもよいのです。

この弥陀の大悲の誓願を信知して、疑心のないものは、まさに阿弥陀仏の攝取の光明の中に生かされているのですから、往生は必定なのです。

なぜなら、善導大師の

「六字釈」

に明らかなように、

「南無阿弥陀仏」

の称名こそ、阿弥陀仏が一切の衆生を攝取するために、衆生に対し

「帰命し発願廻向している」

阿弥陀仏の本願力の躍動の相に他ならないからです。

この阿弥陀仏の願意を

「南無阿弥陀仏とたのませたまひてむかへんと、はからはせたまひたる」

と手紙に述べておられますが、この称名思想が、親鸞聖人が

「行巻」

の全体を通して問題にしておられるところの、極めて独自な親鸞聖人の念仏思想だといえます。

今ここで、二、三の類似表現をひろってみることにします。

一。

弥陀の本願とまふすは、名号をとなへんものをば極楽へむかへんとちかはせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候なり。

二。

行と申は本願の名号をひとこゑとなへてわうじゃうすと申ことをききてひとこゑをもとなへもしは十念をもせんは行なり。

三。

親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけまひらすべしと、よきひとのおわせをかぶりて信ずるほかに、別の子細なきなり。

周知のように

『無量寿経』

の第十八願には

「至心信楽欲生我国乃至十念」

と、衆生の往因として

「三心と十念」

が誓われています。

善導流の浄土教一般では、この三心と十念の関係を、真実清浄の信心をもって、一心に阿弥陀仏の浄土への往生を願い、ただひたすら念仏を相続することだと捉えています。