投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

先日、職場で行われている定期健康診断がありました。

先日、職場で行われている定期健康診断がありました。

毎年のことなので、特に深く考えることもなく、医療機関に出向いて受診しました。

結果は、また後日文書で報告するということで、ここまではいつもと変わらない流れでした。

ところが今回はいつもと違い、数日後、受診した医療機関から電話がかかってきました。

「何かな?」

と思って受話器を取ると、お医者さんが

「心電図に気になる部分があります。

御都合のよい時で結構ですから、もう一度こちらにいらしてくださいませんか?」

と、言われるのです。

あまりにも突然のことだったので、すぐに返す言葉が見つからず、また電話ということもあり、詳しいことを尋ねる訳にもいかず、結局その時は

「わかりました。

後日うかがいます」

とだけ答えて電話を切りました。

後日、病院でお医者さんの前に座ると、

「ご家族や近い親戚に、突然死をされた方はいらっしゃいませんか?」と。

私の知る限りでそういった人はいなかったので

「いいえ、いません。

一体どうしたのでしょうか?」

と尋ねました。

すると、

「心電図に気になる部分があって…。

突然死をしたりする人によく見られるのと同じような部分がある」

とのことでした。

自覚症状がないこともあり、はじめは全くピンとこなかったのですが、とりあえずお医者さんの指示により、

「しばらく検査をしながら様子をみていく」

ということになりました。

時間が経つに連れて、次第に事の重大さが分かってくると、これまでは元気に生活していることが当たり前であるかのように過ごしていたのですが、

「それは決して当たり前などではなく、たまたま頂いていた、かけがえのない尊い時間であったのだ」

ということに気づかされました。

普段から

「諸行無常のいのち」

と、私なりにみ教えを頂いているつもりでいたのですが、今回の問題を通して、それは単に言葉だけの表面的な理解に過ぎなかったこと、そして初めて

「これがまさしく現実の姿なのだ」

と強く実感させられたことです。

現在、経過観察ということで、お医者さんに気をつける点などを聞かせて頂きながら、我が身を省みる尊いご縁だと思い、生活習慣を見直したり、今まで当たり前にしてきたようなことを改めたりしています。

いのちに関わることだけに心配なことではありますが、そういった我が身とうまく付き合いながら、今日の一日を改めて見つめ直し、今こうしていのちを頂いていることを喜んでいる毎日です。

そのせいか、気持ちの上では、今まで以上に大変充実した日々を送ることが出来ています。

気がつけば、早いもので今年も後半に入りました。

「人生とはその日その日のこと」

と言われます。

あなたも、今日という一日を振り返り、かけがえのない大切な今を生かさせて頂いていることに心を寄せてみてはいかがでしょうか。

また

「病は気から」

とも言われますが、一日一日を大切にしようと心がけることが、実は元気に日々を過ごすことのできる一番の秘訣かもしれませんね。

『浄土くじけてもつまづいても帰れる世界』

親鸞聖人750回大遠忌法要が京都の本願寺で4月より厳修されています。

ご門主様は4月からの法要厳修に先立ち、東日本大震災によって被災された方々に対し、心よりのお見舞いを申し上げるとともに、いのちを失われた方々とご遺族に哀悼の意を表されました。

そして

宗門では、すべての被災された方々の悲しみに寄り添い思いを分かち合いたいとの願いをもって大遠忌法要をお勤めいたします

と述べておられます。

私たちもまた、被災された方々の苦しみや悲しみに寄り添いながら、自分たちに何ができるのかを考え続け、それぞれの立場で活動していければと思います。

先日、私はご門徒の皆様とともに親鸞聖人750回大遠忌法要にお参りしてきました。

雅楽演奏の厳かな雰囲気の中に、ご門主さま・新門さまをはじめ、多くの僧侶が出勤して賑々しくご法要が勤まり、御影堂を埋め尽くした3,000名以上の僧侶・門徒が、ともに

「正信念仏偈」

のお勤めを始めますと、御影堂全体を震わすばかりの声が隅々に響きわたりました。

親鸞聖人が90年のご生涯をかけてお念仏のみ教えをお伝え下さった御苦労を偲びつつ、そのみ教えを慶び、心の拠り所として生き抜き、伝えてこられた先達の方々の親鸞聖人への思いに心を馳せる時、両頬に流れる熱いものを感じました。

このご勝縁に出遇わせて頂きましたことを心から慶ばせて頂くことです。

親鸞聖人が90年の生涯を通してお念仏のみ教えに導かれながら苦しみや悲しみを克服し、力強く生き抜いてこられたように、私たちもまたくじけても、つまずいても、必ずかならず帰らせていただくお浄土を頂くことによって、安心して生き、安心していのち終わっていくことのできる力強い人生を歩ませて頂きたいものです。

「親鸞聖人の仏身・仏土観」(7月前期)

さて、親鸞聖人にみるこのような信心と念仏の構造を念頭において、これら三つの引文の念仏思想を窺ってみましょう。

(一)の

(一)弥陀の本願とまふすは、名号をとなへんものをば極楽へむかへんとちかはせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候なり。

は、『末燈鈔』第十二通の文です。

このお手紙は

「念仏往生と信じる人は、辺地に往生する」

という主張をめぐっての、弟子たちの論争に対しての、親鸞聖人の回答です。

親鸞聖人はここで、弟子たちの論争そのものを、まず厳しく否定されます。

両者共

「念仏往生」

の義をまったく誤って理解していたからです。

浄土教一般では

「念仏往生」

といえば、一心に念仏を称えて、往生を願うという意味になります。

したがって

「念仏往生と信じる」

ということは、普通は一生懸命念仏を称えていれば、往生できるのだと信じることですから、称名が往因行となり、自力の称名と見られなくはありません。

自力の称名は言うまでもなく、辺地にしか往生しません。

そこで弟子の何人かは

「念仏往生と信じる人は辺地に往生する」

と主張したのだと思われます。

ところが、他の弟子から見ると、その主張は

「称名」

の否定になりかねません。

では、この論難のどこに根本的な誤りがあるのでしょうか。

実はその誤りを見いだすことが出来なかったので、このような手紙を親鸞聖人に送ったのだと思われます。

そこで、親鸞聖人は浄土真宗の

「念仏往生」

の真実義をここで説かれたのです。

「弥陀の本願とまふすは、名号をとなへんものをば極楽へむかへんとちかわせたまひたる」

がその答えです。

この意味は、善導大師の『往生礼讃』の

「弥陀の本弘誓願は」

以下の文によっていることは確かであり、また

「自然法爾」

の文の

「南無阿弥陀仏とたのませたまひてむかへんと、はからはせたまひたる」

の意味とも重なっています。

親鸞聖人にとっての念仏往生とは、まさに阿弥陀仏の

「ただ念仏せよ、汝を救う」

という本願のはからいにほかなりません。

だからこそ親鸞聖人は、この本願の勅命を、そのごとく

「ただ信じる」

ことが、念仏者にとっての唯一の往因だと説かれるのです。

そうしますと、この者の仏道は、

「念仏せよ」

という弥陀の勅命をただ信順して念仏するのみとなります。

この故に、念仏往生の本願を

「ふかく信じてとなふるがめでたきこと」

なのです。

「より良い人間関係を築くために」(上旬)自分は変わろうとせず、相手に変化を求める

======ご講師紹介======

川村寿法さん(一人語り演劇家・脚本家)

☆演題 「より良い人間関係を築くために」

真宗大谷派・西蓮寺の住職として、日本各地で仏法講演を行うと同時に、朗読演劇の脚本作りに励む。

平成11年にはメディア出演し、「仏法視点による人生論」などを説く。

平成17年、プロ・セミプロ混成の人形劇団で、脚本・声優役を兼ねた代表に就任。

演目『蓮如上人記〜桜の散り際』が全国誌に掲載された。

また、老人から中年、青少年、幼児役など、あらゆる声の演出を一人でこなす。

「一人語り演劇」を全国各地で実施。

平成18年には、ラジオFMキタキュウシュウ(北九)でレギュラー番組『ラジオ一人語り演劇』を担当した。

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仏教を開かれたお釈迦さまは、人間関係がこじれる原因は、自分への執着

「自我」

にあると教えてくださいました。

それはつまり、自分の考えや価値観を基準にした

「私こそが」

「私だけが」

という我と我の衝突ということです。

私たちは夫婦や親子といった家族の他にも、友人関係、師弟関係など、さまざま人との関わりがあるます。

性格や価値観の異なる人が同じ空間で過ごすということになります。

人間は、自分の主観で物事を推し量る生き物です。

ですから、お互いに自分こそが正しいと主張します。

その我と我がぶつかり合うわけですね。

これがお釈迦さまが言われた執着です。

ここで問題なのは、

「私は間違っていないんだから、あなた方が正すべきでしょう」

と、自分は変わろうとしないのに、相手の方に変化を求める点です。

ここからストレスがたまっていくんです。

そこで、お互いに少しの勇気を出して、自分こそがという思いを引っ込めていく。

自分とは異なる価値観や性格を少しずつでもいいから受け入れていくことが重要になります。

ここで例にあげますのが、私の母親です。

学校の先生を40年間やってきた人で、とても元気な人でした。

しかし年には勝てず、身体が弱ってきて、人工透析を受けるようになりました。

腎臓が悪くなって、2日おきに病院に行って血を入れ替えなければなりません。

私は、仕事の合間を縫って母親の送り迎えをしていました。

透析にとって一番気を付けなければならないのは、風邪をひいてしまうことなんだそうです。

母親も年を取ると気弱になっていくんですね。

ですから、風邪を極端に気にするようになりました。

冬場だと、特に待たされるのが大嫌いになりまして、私が約束の時間に3分遅れて迎えに行くと、

「遅い」

と大声で言われるんです。

さらに

「私はこんなに具合が悪いのに、20分も待たせて」

と言うんです。

でも、私は20分も待たせてはいないんです。

ところが、母親の中の時計では、3分でも20分に相当する長い時間な訳です。

まさにここが

「私の感覚が正しいんだ」

という我執です。

そこで、私は仏さまの教えを思い起こすことにしました。

ここはひとつ私が

「自分こそが」

の我を引っ込めてみようと思ったのです。

ある日、私が遅れて迎えに行きますと、いつものように母親は大きな声で文句を言ってきました。

そしてお寺に着いた時、私は自分の中にある

「絶対に3分ほどしか待たせていない」

という思いを押さえ込んで、

「お袋、悪かったね。

20分も待たせて悪かった」

と言ったんです。

すると、母親はなかなか車が降りようとしません。

じっとうつむいて、

「私こそ悪かったね。

本当にありがとう」

と、初めて言ってくれたんです。

私はこのとき、もっと早く

「悪かったね」

と言えば良かったと思いました。

このことが、私と母親との本当の出遇いになったと思っています。

このように、お互いが

「自分は正しい」

という我を引っ込め、自分とは異なる相手の生き方、考え方、性格を認めて受け入れていく。

そうすることで、おのずとお互いに心が開かれ、人間関係が築かれていくんです。

そのことを、私は日頃の仏さまの教えと、家族との関わりを通して、学ばせていただいたような気がします。

『流す涙に育てられるものもある』

身体も、老いも、死もすべて思いのままにならなかった、つまり真実の

「人間のありさま」

に気付いたとき

「流す涙に育てられる」

と頷ける世界が開けてくるのです。

自分はいつもまでも若い、健康が宝だという妄想が消え果てたとき、開けてくる世界です。

私たちは、この真実の

「人間のありさま」

が受け入れられないから苦しむのでしょう。

思い通りにしたいという

「我が思い」

に苦しめられるのです。

身体も、老いも、病も、生も死もすべて与えられたものです。

これを

「絶対他力」

といいます。

この絶対他力の

「はたらき」

に気付けば、

「流す涙に育てられるものもある」

ことに頷けるのです。

福岡のあるお寺のご門徒のKさんは、人生の四苦八苦を何度も経験し、今は寝たきりになりながらも、まわりの人びとの心づかいに、いちいちお礼を言いながら、

「今の私は、申し訳ありませんが、笑顔しか差し上げるものがありません。

その笑顔すらできないことがあるのですよ。

もったいのうございます」

と、さわやかな笑顔を見せてくださるそうです。

その話を、その方のお寺のご住職から聞かせて頂きましたが、先生は

「健康は誰でも望むところではあるが、身体の健康には往々にして落とし穴がある。

健全なる精神は健全なる身体に宿るという諺も、半分は本当だが、半分はウソである」

と語っておられます。

病気にならなければ手に入らない大切なものもあります。

「病がまたひとつの世界を開いてくれた」

(坂村真民)

病気のことだけでなく、人生には失敗もあれば、挫折もあります。

その他にも様々な苦しみや悲しみを体験しますが、親鸞聖人は

「よきことも悪しきことも、業報に差し任せて、ひとえに本願をたのみます」

と、大変に力強い人間の生き方を示しておられます。

み教えに学んでいきましょう。

「親鸞聖人の仏身・仏土観」(6月後期)

ところが親鸞聖人の思想には、このような表現は見られません。

往因を問題にされる場合には、

「ただ信じる」か

「ただ念仏する」

かのどちらかに限られています。

しかも、親鸞聖人の思想の特徴は、この信心と念仏に関して、衆生の信じ方や称え方をまったく問題にされない点にあります。

つまり、親鸞聖人は真実の信心と念仏を、人間の精神現象の面でとらえようとはしておられないのです。

なぜなら、親鸞聖人は迷える凡夫の心には

「一片の真実心」

も無いと見られたからです。

これは当然の理であって、凡夫の迷いは、真実心がないことから生じています。

もし真実心があれば、迷いは生じません。

今日の真宗教学でも、真実の信心でもって本願を信じるとか、真実信心をもって称名するというようなに、

「真実の信心」

という精神現象面が強調される場合がありますが、少なくとも親鸞聖人の著述においては、そのような凡夫の精神現象面での

「真実信心」

のあり方は全く述べられてはいません。

それは、凡夫の心には、精神現象面での

「真実の心」

はありえないからで、そのことについては

『一念多念文意』に、

凡夫といふは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおほく、怒り腹立ち、そねみねたむこころ、おほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず。

と説かれ、また

『歎異抄』にも

煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのことみなもてそらごとたわごと、まことあることなきに、

と語られていることによっても明らかです。

この故に親鸞聖人は、本願の三心と十念を、衆生が往生するための、凡夫自身がなすべき行為としての、信心と念仏とは見ないで、

その三心と十念を、阿弥陀仏が衆生を往生せしめるための、仏の大悲心であり、大行であると解釈されたのです。

『教行信証』の

「行巻」と

「信巻」は、

この阿弥陀仏の大行と大信の構造を論理的体系的に語っておられるのですが、いま問題にしている

「自然法爾」

もまた、この点が問われているのです。