投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

「がんとともに生きる」(下旬)がん患者の生きざまから学ぶこと

そこからは早かったです。

このまま転んでいたらもったいない。

がんになったこと、おっぱいを取ったことはリセットできないけど、考えを変えることはできると思い、がんと向き合って生きるモットーを決めました。

1つめは

「がんになってもあきらめない」

です。

確かに、がんになって、どうしてもあきらめないといけないこともありますが、仕事復帰をがんのせいにしたくなかったんですね。

がんになっても、やれることはとことんやる。

元気な人と同じようにがんばることです。

2つめは、

「がんも個性である」

です。

小学校で子どもたちと接すると、背が小さいとか、そばかすがあるとかで、みんな個性に悩んでいますね。

がんも同じです。

私は堂々と乳がん患者だと言えます。

恥ずかしいことはではありません。

また、自己PRでもあるんです。

なので履歴書に

「乳がん」

と書いて就職面接のときに伝えました。

ちゃんと採用されましたよ。

がんも個性なんです。

2つめは、小学校の頃からのモットーですが

「どうせやるなら楽しく」

です。

宿題をやらないといけないのは嫌だったんですが、ちょっと気持ちを変えて

「どうせやるなら楽しくしよう」

と思ってやっていたんです。

がんになってからは、それをさらに強く思いました。

これは先ほどお話した患者さんのお蔭だと思っています。

また、すでに亡くなってしまいましたが、私の友だちに、ある女性のがん患者さんがいました。

彼女は亡くなる直前、電話越しの会話で

「死にたくない」

と泣きながら繰り返していましたが、最後の最後に

「聞いてくれてありがとう。

三好さんは生きてね」

と言ったんです。

自分の最期に

「ありがとう」

「生きてね」

って言える人ってすごいな、素敵だなと思いました。

人が亡くなるのはとても寂しいです。

でも、亡くなっていく人は悲しみだけじゃなく、不思議な温かさも残していってくれます。

その生きざまから学ぶこともいっぱいあると思います。

彼女は37歳で逝ってしまいましたが、彼女の最期の言葉は、今も胸に残っています。

がんの発覚の当時赤ちゃんだった息子も、今年で10歳。

小学校の4年生になりました。

息子が1歳年を取るごとに、私も乳がん歴が1年ずつ増えていきます。

乳がんは手術してから何もなく20年過ごせば、乳がん

「卒業」

になると言われています。

今は、息子が成人式を迎える20歳のとき、一緒に

「乳がん卒業式」

をするという目標を持って生活しています。

讃岐の庄松(ささぬきのしょうま)

1798?〜1871年。

讃岐(香川県)大川郡丹生村土居で農業を行い、明治4年73歳で死去。

『庄松ありのままの記』によれば、

「庄松はつねに縄を編み、あるいは草履を作りなど致し居て、ふと、阿弥陀仏のお慈悲のことを思い出すと、所作を抛(なげう)ち、座上に飛び上がり立ちながら、仏壇の障子を押し開き、御本尊(阿弥陀仏)に向かって、曰く『バーアバーア』」。

これは、無学な貧乏人であった庄松が、子どもが親に甘えるように御本尊に甘えている姿であると言われます。

無邪気というか、純粋無垢というか、何とも名状しがたい信仰ぶりです。

蒸し暑い夏の日のこと、庄松は田んぼから帰るなり、仏壇から本尊を持ち出して、それを青竹の先に結びつけて、軒先に垂らし、そこで念仏を称えていました。

それを見た同行(門徒の仲間)が何をしているのかと聞くと

「親さま(阿弥陀仏)も、これで涼しかろう…」

と平然と答えたそうです。

彼には、他の妙好人にも言えることですが、世間一般の常識は通用しませんでした。

世間の目とか、習慣とは関係のない、ありのままの生一本の時空軸の中に生きていたかのように窺えます。

住職との問答でも峻烈です。

「うちの御堂のご本尊さまは生きてござろうか」

と住職が聞くと、庄松は

「生きておられるとも」

と。

「でも、ものを言われぬではないか」

と畳みかけると、

「ものを仰せられたら、お前らは一時もここに生きておられぬぞ」

と返したそうで、機鋒が鋭すぎて、住職のかなう相手ではなかったようです。

庄松が臨終の床についた時、生涯独身であったため、一人で寝ていました。

そこへ同行の市蔵が見舞いにやってきました。

市蔵は庄松に

「同行らと相談したんだが、お前が死んだら、墓を建ててやるから、あとのことは心配するなよ」

と言いました。

すると庄松は

「おれは石の下にはおらんぞ」

と答えました。

既に阿弥陀仏の本願に救われている身なので、墓石の中ではなく、浄土に生まれることを確信する中から発せられた言葉だと言えます。

5月にあった職場での健康診断。

5月にあった職場での健康診断。

年々、あまり良くない結果となってきています。

一番気になるのがコレステロールの数値・・・

日ごろの食生活と、運動不足の結果でしょう。

っということで、6月からスポーツジムに通い始めました。

仕事終了後ジムへ。

いつもの流れは、

○自転車30分こいで→

○あらゆる器具を使い筋力アップ(それぞれ10回×3セット)→

○約3キロのランニング→

○20分のストレッチ

で終了です。

その後、お風呂に入って、さっぱりして帰宅となります。

これまで、身体を動かすことなんて、全くなかった私。

高校の体育の授業以来になります。

そんな私が気に入って、力をいれているのが、ランニング。

最初は息があがって、苦しいのですが、フッとした瞬間からすごく気持ちよくなります。

(ランニング・ハイってやつなのかな?)

5キロくらいは軽く走れそうなのですが、あまり最初に無理してはと考えて、今はまだ3キロでストップしています。

さてさて、これが私の最近の日常生活ですが。

効果のほどはというと・・・・

1ヶ月後の測定結果。

脂肪UP。。。

体脂肪UP。。。

筋力マイナス。。。

最悪です。

今まで運動をしていなかった分、絶対に良い結果だと信じていたのに。

なぜこのような結果になったのか、考えて見ました。

そして、原因はすぐに分かりました。

食事の時間と量です。

仕事終了後ジムで2時間過ごし、帰宅したら、どうしても晩御飯の時間は9時頃。

身体を動かした後なので、食欲は旺盛だし、ビールはおいしいし。

で、その結果上記にあるよう事態へとなったわけです。

はぁ〜・・・・・

これからは、これらの経験をふまえ、体調管理に励んでいきたいと考えている日々です。。。

これから、まだまだ暑い日は続きます。

夏バテ防止のためにも、お互い、体調管理をしっかりし、元気に毎日大切に生きていきたいですね☆

『お盆仏縁を喜び合う』

「阿弥陀経」

の中に

「俱会一処」

ということが説かれています。

これは

「俱に一処で会う」

と読みますが、具体的にはどのようなことなのでしょうか。

お釈迦さまは、私たちに阿弥陀仏の浄土の素晴らしさを説かれた後、この教えを聞いた人はすべて念仏を称えて浄土に生まれたいと願うようお勧めくださいました。

それは、阿弥陀仏の浄土は無限の輝きの中にあり、どのような苦も存在しないからなのですが、それにもましてお勧めくださるのは、必ず仏になる、すぐれた方々と

「俱に一処で会う」

喜びに満たされている世界だからです。

私たちの人生は、出会いと別れの繰り返しと言っても過言ではありません。

したがって、私たちの人生における最大の喜びの一つは、素晴らしい人と出会うことであり、またとりわけ心を満たしてくれるのは、人生の喜びを愛する人と語り合うことだと言えます。

けれども、この世は無常の理におかれている以上、どれほど名残惜しくても、よき人、愛する人との語らいはやがて終わりの時を迎えることになります。

しかも、その時その人との出会いの喜びが大きければ大きいほど、そのことに比例して別れの悲しみはより深いものになってしまいます。

一方、人生における苦しみの一つとして避けがたいことの一つに、嫌な人、憎むべき人とも顔を合わせなくてはならないということがあります。

いつも好きな人、良い人ばかりが周囲にいてくれると嬉しいものですが、反対に人生の途上で相性の合わない人と長い年月、時間を共にすることを強いられると、本当にやりきれないものです。

とはいえ、この世の中は、私の思い通りに動いている訳ではありませんから、人生は時として憎むべき人と互いに憎悪し合いながらも生きなければならないこともあります。

そこで、お釈迦さまは、怨憎すべき者が誰一人としていない、すばらしい人々に囲まれ、愛する人と永遠に語り合うことの出来る浄土を願うことをお勧めくださったのだとうかがえます。

このことを端的に物語るのが

「俱会一処」

という言葉ですが、ではなぜ、私たちの世界では、このように愛する人と別れ、嫌な人と憎み合わなくてはならないのでしょうか。

それは、この世の人々は誰もが自分を中心とする身勝手な行動をしているからで、そのようなことの無限の因が無数に関係し合って、無秩序な結果を生み出しているのです。

そこで、お釈迦さまは私たちが少しばかりの善根や福徳を積んだくらいでは、今まで行ってきた迷いの因縁は断ち切ることか出来ず、阿弥陀仏の浄土に生まれることは不可能であることを見極められ、だからこそ仏行の中で最大の功徳を有している念仏を行ぜよと私たちに説かれるのです。

この世の迷いの一切は、それぞれ各自が無数の迷いの因を作っているからなのですが、もしここに同一の因縁がはたらけば、同じ結果が生じることはいうまでもありません。

そうだとすれば、もし私たちが阿弥陀仏の浄土に生まれ、覚りに至る同一の因縁に出会うことが出来るならば、すべての者が同一の果を得ることになります。

一般に

「お盆にはなくなられた方、先祖の方々があの世からこの世に還ってこられる」

と言われますが、お念仏のご縁を頂いてお浄土に生まれて往かれた亡き方、あるいは先祖の方々は、お盆の時だけではなく、いつでも、どこでも、私の称える

「南無阿弥陀仏」

の中に、生き生きとはたらいていて、この私を導いていて下さいます。

お盆には、亡き方々を偲ぶことを通して、仏縁に遇いえたこと、そしてお念仏の教えによって

「俱に一処で会う」

喜びを持ちえたことを共に喜び合いたいものです。

「親鸞聖人の仏身・仏土観」(8月中期)

そうであるからこそ、ここで最も厳しく否定されるべき行為が、その大信海に対する衆生のはからいということになります。

後者は、

『歎異抄』

第八条の

「念仏は行者のためには非行非善なり」

の文に重なりますが、ここに示される

「行・善・頓・漸・定・散・正観・邪観・有念・無念・尋常・臨終・多念・一念」

の語はすべて、仏道としての行に関する重要な言葉です。

仏道においては、普通、行者は常にこれらの行為に真剣であらねぎなりません。

そうでなければ、仏道者としての行道は成り立ちません。

果たして

「この行は仏果に至る行であるか否か。

真の善根であるか否か。

頓教であるか漸教であるか。

定善の行とは散善の行とは。

この行は正観であるか邪観であるか。

有念の心とは無念の心とは。

尋常の行とは臨終の行とは。

多念がよいのか一念がよいのか。

自らの行について、このような一心の求めがあって、初めて真の行道の実践が可能になるのです。

ところが、親鸞聖人はこれらの求道の一切を、愚かな凡夫のはからいだと見られます。

末法の凡愚は何人も真実の智慧は持ちえないからで、このような求道のはからいは、かえって迷いの積み重ねになってしまいます。

だからこそ、この凡夫が阿弥陀仏の

「大信海」

によって、無条件で攝取されるのです。

その弥陀の信楽は、衆生の思議の一切を超越しているが故に、ただ

「不可思議不可称不可説」

としかいいようがありません。

けれども如来の心は常に、衆生を無上仏にならせようとして、阿弥陀という仏の相を示し、衆生の心に来たっています。

それは、あたかも

「阿伽陀薬」

のように、この誓願の薬は、一切の衆生の智愚の毒を滅してしまうのです。

そうであるからこそ、この信楽の信知は、衆生のはからいの否定の上においてのみ成り立つのです。

さて、

「自然法爾章」

を通して、親鸞聖人の阿弥陀仏観を求めましたが、それは自然法爾という、真如のはたらきそのものだったといえるのではないかと思われます。

真如が一切の衆生を

「無上仏にならしめ」

として、その無上涅槃の真理を知らしめるために、阿弥陀という仏の相好を現されましたが、このように無上仏にならしめる、その真如のはからいが、まさに

「南無阿弥陀仏」

であったといえます。

そうしますと、阿弥陀仏の存在は、南無阿弥陀仏を離れてはありえません。

場所的に、あるいは時間的に、宇宙のどこかに阿弥陀仏という仏がましますのではなく、真如の無限の大悲大行がいま現に衆生を救うために

「南無阿弥陀仏」

と相を示して躍動している、その躍動する南無阿弥陀仏を、親鸞聖人は阿弥陀仏そのものと見られたのだといえます。

「がんとともに生きる」(中旬)死ぬことばかり考えた治療の日々

しかし、診断の結果は全て同じでした。

結局私は乳がんでしたし、おっぱいも取らなければなりませんでした。

大切な主人に八つ当たりして、泣き暮らしました。

そして、手術をして、右のおっぱいを全摘出したので、右胸はありません。

がんには0から4までのステージがあります。

0が最も軽く、4は末期症状です。

私の場合は3でした。

再発のリスクも高く、リンパへの転移も見られると聞き、どんどん落ち込んでいきました。

入院中は、部屋に小さなパソコンを置いて、インターネットで

「がんが治る方法」

「死なない方法」

をひたすら探しました。

そのときは正確な判断がつかないので、ありとあらゆる方法を試しました。

よくないことですが、びっくりするような食べ物も食べました。

また、世の中に嫉妬もしました。

元気な人、長生きなお年寄り、若い人、誰も彼もがうらやましくて、疎ましかったんです。

お医者さんは

「切れば治る」

と簡単に言いますが、乳房を捨てるということが、女性にとってどんな思いをするのかということも分かってもらいたいんです。

治療には抗がん剤を使いました。

私は年齢も若かったですし、転移も見られたので、最も強い抗がん剤を使ったんですね。

現われた副作用は、激しい嘔吐と倦怠感、寒気、そして脱毛です。

髪の毛がすべて抜けたんです。

女の私にとってはショックでした。

ドラマみたいに、お風呂場でごそっと抜けたときは

「いよいよ始まったんだな」

と実感して泣きました。

がんを治す治療なのに、あまりの辛さで、やはりこのまま死んでしまうんだなと考えました。

見た目も悲しい格好になり、とにかく泣いたことを覚えています。

私は死んだ後の自分がどうなるのかはよく分かりません。

でも、赤ちゃんだった息子のことが心配でした。

主人は大人ですから生きていくことが出来るでしょうが、息子が母親の顔を知らずに育っていくのが不安でたまりませんでした。

たとえ死んでしまっても、どうにか息子の成長を見ていたかったんですね。

病気になってからというもの、人生は終わったと思っていましたが、治療が終わり、がんの患者会に行ったとき、少し高齢のある患者さんに出会いました。

「あんた若いねえ。

がんの患者かい。

元気でいいねえ」

と言われたので、私は

「元気じゃありません。

私、来年死ぬんです」

と言いました。

すると。

強く背中をたたかれ

「あんたはさ、死ぬために生きてるの?

目標は死ぬことかい?

もったいないねえ、いのちが。

死ぬまでは生きてるんだから、もっと楽しい生き方をしなさいよ」

と言われたんです。

私はハッとしました。

それまでの私は、死ぬことを目標にして、どれだけ思い出を残せるかということばかりを考えていました。

ところが、彼女が私の目を覚ましてくれたんです。

そのおかげで

「生きなきゃ」

と気付かせていただきました。