投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

「死に学ぶ生の尊さ」(中旬) 仏さんは不公平

ある人の手紙に、

「隣の奥さんは孫を抱いて楽しそうに暮らしているのに、私はこんな病気になって、仏さんは不公平だ。

先生は仏教を勉強しておられるそうですが、何とか答えてくださいよ」

とありました。

でも事実は、私たちは健康が当たり前で、病がマイナスだと思っているんですね。

ところが、病んでいるその事実を見たら、生身の身体ということが分かるんですよ。

病んで当たり前なんですよ。

健康な時もあれば、病むときもあるんです。

「健康が当たり前なのに、どうして私ばかりこんな目にあうんだ。

仏さんは不公平だ」

と、あっちに祈り、こっちに祈りしている間に、病気はどんどんひどくなりますよ。

ましてや

「足の裏を見てあげましょう」

なんていうようなところに行ったら、病気がひどくなるばかりか、財産まで全部取られますよ(足の裏を見て

「あなたはガンだ」

と宣告し、

「研修を受けないと死んでしまう」

と不安に陥れて、大金を巻き上げる新興宗教がありました)。

「仏さんは不公平だ」

なんてことはないですよ。

「如実知見」

事実を見つめたら、病んで当たり前だって分かるんです。

生身の身体なんですから。

あっちに祈りこっちに祈りするんじゃなくて、病んで当たり前だと気付いたら、初めてその病気を引き受けていけるんです。

浄土真宗の救いは、奇跡で病気が治るというようなちっぽけな救いじゃないんです。

苦し事実を苦しいままに引き受けていけるという勇気が与えられるんです。

引き受けると、苦が苦でなくなるんですよ。

病んで当たり前だと気が付いたら、もう苦じゃないでしょう。

健康がプラスで病がマイナスと思っているから病が苦しみになるんです。

死も同じです。

生はプラスで、死はマイナスと思っているから死が苦しみになるんです。

ところが、事実は

「死すべき身」

なんですよね。

蓮如上人がちゃんと

「我や先、人や先、今日ともしらず、明日ともしらず」

とおっしゃっているように、老少不定なんですから。

だから死んで当たり前なんですよ。

でも、死なない方法もあります。

私の本にも書いてありますから、ご存知の方もおられるでしょう。

それは

「生まれないこと」

です。

でもね、みなさんもう手遅れでしょ。

如実知見、事実を見つめた時に、老いない、病まない、死なないという虚妄が破れるんですね。

人は無常ということがわかるんです。

私たちは死をタブーにして、いのちを見つめてこなかった。

いのちを見つめてこなかったが故に、今のような出遇いがない。

ところが、死を見つめますと、いろんなことを教えられます。

頭でっかちになった現代人は、頭が勝っているものですから、まずいのちを物として見ていますね。

物であるいのちは、所有化されております。

子ども達に聞いたら、

「自分のいのちは自分のものだから、自分で考えて生きなさい」

と学校で教えられているそうです。

何も不自然さを感じさせないようですけど、よくよく考えてみると、これは変なことなんですよ。

自分のいのちというのなら、自分の力で生まれてきたんですか。

そんな人いないでしょ。

みんな父があり、母があり、祖父があり、祖母がありと、延々と続くご縁の連続によっていのちを頂いた訳でしょう。

自分のいのちというのなら、自分で思い通りに死んでいけるはずですよ。

みなさん、上手に死ねますか。

そうはいかないですね。

死はいつやって来るがわからないんですから。

言うじゃないですか。

「思いがけない死」

なんてね。

みんな、思いがけずに死んでいくんですよ。

『浄土三部経』

「浄土三部経」

というのは、そのような名前の経典があるのではなく、私たち浄土教徒が自らの拠り所としている『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』という三部の経典を総称したものです。

すべて阿弥陀仏とその浄土について説かれていますので、

「浄土三部経」

と呼んでいます。

なお、一般には

「大経」

「観経」

「小経」

と略されています。

「大経」

は、上下二巻から出来ており、上巻では阿弥陀仏がどのようにして仏になられたか、またその浄土はどのようにすばらしいかが説かれ、下巻では私たち衆生はその国土に生まれるためにはどうすればよいか、浄土に生まれた衆生どのような姿になるかが明かされています。

そこで、上巻は阿弥陀仏の因果、下巻は衆生往生の因果が説かれていると言えます。

この経典は、 釈尊の不可思議な輝きから始まっています。

いつも釈尊のそばに仕えている弟子の阿難が、今まで見たこともないその不可思議な輝きは、きっと釈尊が最高の仏と念じあっているからだと確信し、その仏の教えを聞かせてほしいとお願いするのです。

それが阿弥陀仏の教法で、その教えの中心は、阿弥陀仏が一切の衆生を南無阿弥陀仏の名号を通して救われよ、と願われている本願にあります。

いわば経典の全体で、本願に誓われている名号の真理が明かされているのです。

この阿弥陀仏の大悲こそ最高の仏法ですから、この法の真実を説く経典が、釈尊がこの世に生まれられた意義、いわゆる出世本懐の経になるのです。

「観経」

は、釈尊の晩年、王舎城で起こった悲劇が機縁になっています。

この国のビンビサーラ王がアジャセ王子によって殺害されるという事件が起こったのですが、その后イダイケがこの悲劇の中で、釈尊に対して

「このような悲しみはもう二度と味わいたくない。

喜びのみの浄土に生まれたい」

と願います。

それに応えて説かれたのが、この

「観経」

です。

釈尊は、イダイケに凡夫が永遠に喜びを得るには、阿弥陀仏の浄土に生まれる以外に道はないと諭され、その浄土に生まれる念仏の喜びを与えられます。

イダイケはその喜びの中で、釈尊のいない未来の衆生がこの喜びを得るためにはどうすればよいかを問い、釈尊は心を鎮めて 阿弥陀仏を見る聖者のための念仏道と、ただ口に南無阿弥陀仏を称える凡夫のための念仏道を説かれます。

そこでこの経典は、機(人間)の真実を説く経典とされています。

「小経」

は、問うものがないのに、釈尊が仏弟子の舎利弗に一方的に阿弥陀仏の教法の真理を語り始められます。

そこでこの経典は

「無問自説経」

と呼ばれます。

また、それはあたかも遺言のようにも受け取ることから、この経典こそ釈尊の最後の説法だともされています。

そこでは、阿弥陀仏の浄土の素晴らしさが説かれ、阿弥陀仏が光明無量・寿命無量という無限の功徳を有しておられることを明かし、衆生はその仏の名号を称えるのみで往生するという念仏の道が示されています。

さらに加えて、この経典では十方の一切の諸仏が、釈尊と同じく阿弥陀仏を讃嘆し、釈尊が説かれる阿弥陀仏の教えがいかに真実であるかを証明されます。

あなたは、今年1年の目標ってありますか?

あなたは、今年1年の目標ってありますか?

私の今年の目標は

「暴飲暴食に気をつける」

です。

部屋の前に貼ってあります。

ちなみに去年の目標も

「暴飲暴食に気をつける」

でした。

昨年を振り返ると、あまり目標を守れなかったので、今年も継続中です。

しかし、1月は飲み過ぎ、食べ過ぎが多くて、目標達成に早くも危険信号です。

はじめのうちは気をつけているのですが、油断するとついつい飲み過ぎて食べ過ぎてしまいます。

続けることは、本当に困難だと思うこの頃です。

先月、間 寛平さんが、地球一周アースマラソンをゴールされました。

太平洋、北米大陸、大西洋、ユーラシア大陸を自らの足とヨットを使って、乗り越えた距離は約4万1千?。

途中、病気の発症などの困難を乗り越えてのゴールには感動しました。

家族や仲間、応援してくれた方に支えられたおかげと感謝する姿は、印象的でありました。

地球を一周する、4万1千km…。

学校時代の3kmのマラソンが、嫌でしょうがなかった私には、とても想像がつきません。

地道に走り続けてのゴール。

まさに

「継続は力なり」

です。

私も目標達成に向けて、改めて再出発です!

『一番怖い鬼さんは 私の中におりました』

最近はテレビニュースを見ておりましても、なかなか楽しいニュースはないものです。

世界中でおこるテロ事件、そして親殺しや子殺し事件など話題には事欠きません。

悪い人は、世の中になんと多いことでしょう。

私など自慢ではありませんが、今まで万引きどころか人を殴ったこともなく

「いい人」

と言われながら生きてまいりました。

そんな私には、人を殺していくなどといったことがどうしてできるのか不思議でなりません。

しかし、親鸞聖人はおっしゃいます。

「悪人こそが阿弥陀仏の本願による救済の主正の根機である」と。

ますます、私の混迷は深まるばかりです。

ただでさえ、罪を犯す人の気が知れないのに、親鸞聖人は

「そんな悪人こそが救われるべきものだ」

とおっしゃる。

どうでしょうか。

私も考えさせていただきました。

そして少しだけ気づかせていただいたことがあります。

それは、今まで罪を犯したことがないと自慢していた私ですが、その

「罪」

とは私の尺度で考えた罪だったのではないかということです。

つまり、私ひとりが罪を犯していないと思っていただけで、他人からみた私は悪人だったのかも知れません。

私は、善人面しただけの悪人ではなかったのかということです。

一番怖い鬼さんとは、私の中にある善人さんのことではないでしょうか。

善人さんは、私の悪人さんを隠してしまいます。

隠れた悪人さんは、顔を出さず悪事を働きます。

なんと恐ろしいことでしょう。

表に出てきた悪人ばかりを責め立てて、私の悪人さんを隠して生きる私のどこが善人なのでしょうか。

私の中の鬼さんに、新年のあいさつ忘れておりました。

親鸞聖人における「真俗二諦」2月(前期)

以上が、親鸞聖人が引用される『末法燈明記』冒頭の大意です。

この引文中に見られる

「真諦・俗諦」

の意味は、曇鸞引文に見られた意味とは異なり、真諦とは仏法のことを、俗諦とは仏法に即した世俗の法の意を指しています。

では、親鸞聖人はこの『末法燈明記』を通して何を言おうとしておられるのでしょうか。

それは、このような真諦・俗諦の関係は、この末法の時代には全く成立しないことを示して、念仏者になされた弾圧の非なることを糺そうとしておられるのだと思われます。

末法の時代には、真の仏道(真諦)を行じ得るものは一人としていません。

そのような世で、国家が仏教の教えに従って国を治める(俗諦)ことなどありえないとされるのです。

このような意味からすれば、親鸞聖人の思想はまさに、仏教一般が意味している真諦と俗諦の関係の否定の上に成り立っていると見なさなければなりません。

親鸞は、『教行信証』の後序に

ひそかにおもんみれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛りなり

と、明確に言い切られます。

今は、釈尊が定められた仏道も、その仏道による国家の法律も成り立たない時代であるからこそ、阿弥陀仏の仏法のみが仏果への道を開いているのだと示されるのです。

まさしくこの世には、真の意味での真諦と俗諦の関係はもはや存在しえません。

しかも国家が支配する法は、ただ世俗の法のみです。

この末法の、世俗の法のみが支配する世の中にあって、凡愚の仏果に至りうる道は、ただ阿弥陀仏の他力による回向法のみである。

これが親鸞聖人によって樹立された、まったく新しい仏道であったのです。

「死に学ぶ生の尊さ」(上旬)こんなはずでは

======ご講師紹介======

同朋大学教授 田代俊孝さん
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(お知らせ)

先月号で、今月は漫才師 宮川ハナ子さんの講話を掲載することを予告しましたが、都合により過去の講話の中から未掲載の田代俊孝さんの講話録を掲載します。

また、ハートフル大学は平成22年度から年8回(前年度までは10回)の開講となりましたので、2月・3月・4月・9月・10月は過去の講話録の中から掲載いたします。

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私たちの苦しみの原因は、ほとんどが自分の価値観にとらわれているからです。

例えば

「いのちは長ければ長いほどいい。

延命がすべてだ」

という価値観を持っていませんか。

「長いいのちがよくて、短いいのちはだめだ」。

そういう価値観を持っているかぎり、どこまでいのちを延ばしても満足はないですよ。

かつて人生50年といったのが、今は80年ですね。

6割も伸びたのに、満足はしていないでしょう。

100歳まで生きても、150歳まで生きても

「こんなはずではなかった。

私はもう一度臓器移植をして、150歳まで生きるつもりだったのに、149歳で死ぬのは不本意だ」

と言うんでしょうね。

長いのがプラスで死はマイナスという価値観、

「死んだらおしまいだ」

という価値観にたつかぎり、毎日敗北の方に向かっているんです。

死は、マイナスと思っているから、敗北になってしまうんですね。

「こんなはずではなかった。

思い通りならない」

と、私たちが悩むのは、どうもその裏には、私たちが持っている価値観を絶対視しているところに苦しみが生じています。

例えば、福祉施設をよくして延命を勝ち得る。

それで、あたかも解決するかのごとくに思っていますよね。

けれども、どんなに良い施設に入っていても、みんな

「こんなはずではなかった」

と死んでいくんですよ。

この価値観を持っているかぎり、いくら延命を果たしても、医学が発達しても、どんなに素晴らしい施設ができても、

「こんなはずではなかった」

と死んでいかねばならないんですね。

私たちの持つ価値観を物差しと言ってもいいですが、その価値観、物差しをどこでひっくり返すかということですね。

そのひっくり返すチャンスは、いちのを見つめること、生とか死を見つめることにあります。

だいたい、私どもの悩みというのは、年をとっていく、老いていくことにあります。

それは、若いのがプラスで、老いがマイナスだという価値観を持っているからですね。

だから鏡を見て

「若いはずの私がどうしてこんなに白髪やシワが出来ているんだ」

とがっかりするんですね。

頭の中では、私はいつも若いと思っているんですよ。

でもこれは虚妄、妄想なんですね。

鏡に映っているは事実、如実なんです。

ありのままなんです。

「誕生の瞬間から着々と老いていく身だ。

50歳になれば白髪やシワが出来て当たり前だ」

と鏡を見てやっとわかるんです。

常ではない、無常ですよ。

鏡を見つめたときに初めて、老いて当たり前だったなと気が付けるんですよ。

そうすると、その老いが引き受けられる。

そこで若いのがプラスで老いがマイナスという価値観が破れるわけです。

病もいっしょです。

私の頭の中ではいつまでも健康だと思っていても、ちょっと入院すると

「健康な私がどうして入院しないといけないんだ」

となるんですね。