投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

『いっさいに対して私は初心でありたい』

物事に慣れると言うことはいい面もあれば悪い面もあります。

車の運転に慣れる、包丁の使い方に慣れる、自分が使うものに慣れ親しむということは大事です。

しかし、刃物は慣れたということでぞんざいに扱うとけがのもとだと思います。

また車の運転も慣れたということで慎重さを欠くと重大な結果を生むと思います。

私は車の免許を取ってから、三、四年のちに追突事故を起こしたことがあります。

その時の反省ですが、やはり車間距離をとると言う基本を忘れていたと思います。

車の運転は特に初心、基本を忘れると重大な事故につながると思います。

何年運転しても初心を忘れないベテラン運転手に成りたいものです。

うぬぼれが

木の上からポタンと落ちた

落ちたうぬぼれは

いつの間にか

また木の上に登っている

と詩っているのは念仏詩人の榎本栄一さんです。

いつでもうぬぼれて傲慢になってしまうのが私です。

「人は、あがりあがりて、おちばをしらぬなり。

ただ、つつしみて、不断、

そらおそろしきことと、毎事に付けて、心をもつべき」

の由、仰せられ候う。

と蓮如上人は戒めています。

自分は振込詐欺には騙されないと思っている人が、案外、振込詐欺に騙されやすいと言います。

騙されるかもしれないという注意が無いからです。

自分に自信を持つのもいいですが、傲慢になったり、有頂天になるのもわたしです。

そんな私を阿弥陀如来の光明は照らし続けます。

罪悪深重、煩悩熾盛の私ですと謙虚に生きていきたいものです。

親鸞聖人における「真俗二諦」1月(後期)

これによっても知られるように、凡夫には仏教が本来意味する真諦俗諦に順じるものは何も存在しません。

凡夫は、本来的に

「二諦」

なしという真実をここで示しておられるのだと受けとれます。

今ひとつの真諦・俗諦の語は

「化巻」

の三時思想を示す、今は末法であるということを明かす箇所に見出すことができます。

そこで親鸞聖人は、最澄の『末法燈明記』を引用して、真諦と俗諦について次のように述べておられます。

『末法燈明記』を見ると、

「一如に範衛して」

とある。

範衛とは、法を守るの意であるから、まず仏教が意味する唯一絶対の真実が明かされるのである。

真如法性の真理をよくまもり、その法に順じて、そのごとく一切衆生を教化し、仏果に導くのは、法王(仏)の行為である。

「光沢」

とは、天下を治めるの意であるから、この現実の世界において、東西南北その一切の天下を治め、そこに仏教の教えにのっとった社会・国家を築いていくのは仁王(仏法の徳によって育てられた、理想的な王)によってだとする。

仏の教法と、仏の教えを受けた国王によってこそ、人々はよき方向に導かれるのである。

真諦と俗諦がたがいによく関係しあって、仏法を世界に弘めるのである。

このようにして玄籍は宇内に満ち、嘉猷は天下をおおう。

深い道理をもった仏教の教えが、その国中にみちひろまって、その教化によるよき政治が、天下にゆきわたるのである。

ここに仏法の道理があると教えられているので、私たち愚僧は、朝廷によって宣布された僧尼令をつつしんでお受けし、その法を遵守したてまつっている。

何ひとつ反対の立場をとらず、ただひたすら、その酷しい法律をいただいている。

ところがどうしたことか、自分は一心に仏の教えを実践し、国が定める法を守っているのに、我が心は昼も夜も、全く安らかさを見出せない。

それは何故であるか。

思うに、如来の法には、正像末の三時があり、我ら人間の資質にも、また上中下の三種の区別がある。

したがって教化や制度のその趣旨は、その時々によって変化する。

まさに

「盛衰は時の流れによって異なる」

のである。

そしてその時々によってなされる、誹謗と称賛の声も、人それぞれによって種々の取捨選択があるのである。

中国における古代の移り変わりも一様でなかったし、仏滅後に見る、五百年ごとの機類の悟りの開き方も異なっているのではないか。

これが世の真相であれば、どうしてひとつの定まった形のみを押しつけて、人を救うことが出来るのであろうか。

またその一つの道理のみで、国家の全体を治めることが出来るのであろうか。

それ故に、自分は今、正像末の様子を詳細に示して、末法時における破持僧の様子を明らかにしたいと思う。

「三十三間堂棟木の由来」(下旬)5歳の幼児が柳の大木を動かす

節談というのは、そういった歴史があって、聞かせどころがところどころにあるものなんです。

誤解されている方がおられるかもしれませんが、節談説教といっても最初から最後まで節がある訳ではありません。

「ここだけは聞いてほしい」

という大事な部分に節が入っていくものなんです。

今回お話する節談説教は、京都の三十三間堂がどのような経緯で出来たということが骨子になる訳ですが、これは歌舞伎や文楽にもある狂言が土台になっています。

浄土真宗のお説教ではありますが、あまり念仏が強調されないので、浄土真宗のご門徒でなくとも聞きやすいのではないかと思います。

・節談説教

「三十三間堂棟木の由来」

〜三十三間堂の棟木となった柳の大木を巡る因縁の話。

前世から続く柳の木との因縁による後白河法皇の頭痛平癒のため、三十三間堂の棟木として柳の木が切り倒される。

その柳の化身であったお柳(りゅう)という女は死に瀕するが、夫の平太郎と5歳の息子緑丸(みどりまる)のため、最期に我が身をていして手柄を立てさせる。

柳は、二百人の男が牽いても全く動かなかったが、そこへ平太郎に連れられた幼い緑丸が柳の木を引っ張ると柳の大木は動き出す。

柳の大木はその後京都にて三十三間堂の棟木となり仏となった。

こどもに力があって柳が動いたのではなく、子どもに手柄を立てさせてやりたいという親の大願業力(だいがんごうりき)、増上縁(ぞうじょうえん)がはたらいたから、5歳の幼児が大木を動かすことが出来たということです。

そして、阿弥陀如来のお慈悲は私一人だけではありません。

「一切の衆生」

を必ず仏にするということが阿弥陀如来のご誓願なんです。

この柳の話では、山川草木(さんせんそうもく)全てが仏さまのお慈悲のお目当てであり、みんなことごとく救われると味わわせていだければ、阿弥陀如来のご苦労のほどがしみじみと感じられるのです。

「弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽ヘ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり」

と親鸞聖人は阿弥陀如来をこのようにご讃嘆しておられます。

阿弥陀如来のお慈悲というのは、この私にまかせてくれれば必ず仏にするぞとお誓い頂いたことを喜ばせていただき、お念仏申すのが何よりも肝要ということです。

全ての人を仏にするとお誓いいただいた、そのお慈悲のほどを、この

「三十三間堂棟木の由来」

というお話からお味わいいただきました。

寒くなってきましたね。

寒くなってきましたね。

いよいよ冬が到来ですね。

(少し遅い冬の訪れかな!?)

さて、突然ですが私フルマラソンに挑戦しようと思っております。

42.195km!考えただけで冷汗が出てきますが・・・

今から約4年前のことです。

10kmマラソンに挑戦しました。

本番まで練習なしで、完全にナメていました(笑)

ルンルン気分でスタートし、スタートからほぼダッシュで走っている私。

沿道の応援の人達に、満面の笑顔で応え・・・

長い下り坂を駆け抜け・・・・

係りのオジサンが大きく手を振っているのが見えて

「何だ余裕じゃん!」

っと、オジサンに向かってさらにダッシュ!

ドヤ顔でゴォォォォール!

っとアレッ!?ゴールテープは??

しばし立ち止まっていると、私に負けないくらいの満面の笑顔でオジサンが

“まだまだぁぁ今からよ〜”

っと言って、私の肩をポン!

まさかの折り返し地点!

(10kmという距離も分からない、ダメ×2ランナー)

すでに息は切れ切れ・・・

足はピクピク・・・

その後はご想像通り!

長い下り坂は一変!

長い上り坂に変わり・・・(当たり前っか!)沿道の応援はかすかに聞こえる程度(涙)

あの元気は、何処へぇぇぇぇ・・・・!!!!

やっとの思いで本物の!?ゴールに辿りついた時は、汗と涙でグシャグシャでした。

そんな経験を経て、今年フルマラソンに挑戦する私ですが、もう無謀なことは致しません。

ペース配分を考えて!

「…って出来るのかい!」

っと、自問自答していますが、練習はボチボチしています(汗)。

あの頃より、少し大人になった自分と向き合いながら走ってみます。

良い報告が出来るように・・・

頑張ってきます!!

『いっさいに対して私は初心でありたい』

「おどろかすかいこそなけれ村雀耳なれぬれば鳴子にぞのる」

初めて鳴子の音を聞いた時にはびっくりして一目散に逃げていた雀が、今ではすっかり鳴子の音に慣れてしまい、こともあろうに鳴子の上に乗って遊んでいるということを歌ったものですが、蓮如上人はこの歌を引用なさって

「ただ人は、みな、耳なれ雀なり」

と注意しておられたと伝えられています。

これは、初めて仏法を聞いたときには、感動し、歓喜したものも、聞き馴れるに連れて、やがて無意識の内に

「耳なれ雀」

になってしまうことを戒めておられたということです。

そこで蓮如上人は、仏法を聞く時には

「同じことを何度聞いても、いつもめずらしいことを初めて聞くような心持ちで聞くようにしなさい」

と諭しておられます。

省みれば、私達僧侶は日頃から絶え間なく仏法に親しみ、阿弥陀如来のはたらきを厚く被っておりながら、ご門徒の方々と一緒にお聴聞の場に座っていても、その内実においては

「既に何度も聞いて、自分はよく理解している」

と、つい聞き流してしまったり、教えと真摯に向き合うことに鈍感になってしまっている面が少なからずあるように思われます。

恥ずかしながら、これこそまさに蓮如上人のおっしゃる

「耳なれ雀」

の姿そのものだと言えます。

それに対して、仏法を聞けば聞くほどに、自分が仏法から遠く離れ背いていることを悲しむ心を持っている人は、たまたまの縁に遇えばその縁を大事に仏法を大切に聞かずにはおれないものです。

そうしますと、実は教えから遠く距たっていることを悲しむ人こそ、もっとも教えに近く生きている人であり、反対に自分こそもっとも仏法に近く生きているものだと自負している心こそ、もっとも仏法から遠く距たっている心なのだといえます。

ですから、蓮如上人は

「自分は、仏法のことはもう良く分かったと思っても、その時にはまだよく分かってはいないものだ。

自分には、仏法は分かりつくせないと思えたときが、実はよく分かったときなのだ。

だから、仏法を少し聞いたくらいで自分はもうよく分かったと思うべきではない」

と言われるのです。

このことから、仏法に対して馴れ馴れしくなってしまうということは、仏道の歩みにおいては致命傷であることが窺われます。

なぜなら、馴れ馴れしくなってしまった時には、阿弥陀如来や親鸞聖人、蓮如上人などの善知識を自分の背にして、他人を上から見下ろしてしまう愚を犯してしまうことになりがちだからです。

言い換えると、自分はもう仏法のことは分かったとして、

「阿弥陀如来の教えはこうだ。

親鸞聖人、蓮如上人はこのようにおっしゃっておられる。」

と、その教えに自分の姿を照らしたり、聞き返したりすることを放棄して、自分の思いを如来・善知識の言葉で権威付けて、周囲の人々を切り刻むようなあり方に陥ってしまうということです。

このような意味で、私たちは蓮如上人がお諭しくださるように、何度同じ話を聞いても、まるで初めてそのことを聞くかのような心持ちで、謙虚に教えに耳を傾けることに努めたいものです。

親鸞聖人における「真俗二諦」1月(中期)

では、親鸞聖人は

「真俗二諦」

という仏教思想をどのように見ておられたのでしょうか。

親鸞聖人がこのことに言及しておられる著述は

『教行信証』

のみで、この言葉はその他の著述には全く見られません。

『教行信証』

では、二箇所に真俗二諦の思想を見ることができますが、それはいずれも引文においてです。

したがって、親鸞聖人ご自身は、直接的には真俗二諦という言葉は使っておられないことになります。

ただし

『教行信証』

の全体が、親鸞聖人の言葉だと解釈すれば

「真俗二諦」

の思想を次のようにとらえられたということが窺い知られます。

第一は

「行巻」

大行釈・七祖引文中の、曇鸞引文

「真実功徳相」

釈に見られるもので、次のように述べておられます。

「真実功徳相」

とは何か。

この中、功徳に二種の相があるといわれる。

第一の功徳は、有漏の心より生じる功徳であって、この功徳は法性、すなわち仏教が意味する真実に順じていない。

そこでこの功徳を不実功徳と名づける。

いわゆる凡夫が行う行為の一切、すなわち人間界や天上界でなされる諸の善行のすべて、そしてその行為によって受ける果報のすべて。

換言すれば、因であろうが果であろうが、その一切はすべて皆、顛倒しており、虚偽なのである。

そこでここに受ける功徳の一切が、不実功徳と名づけられているのである。

では真実功徳とは何か。

第二の功徳がそれで、菩薩の智慧は清浄の業より起こっている。

そしてその業によって一切の仏事、自利・利他の行のすべてがなされる。

したがってその行業は必ず、法性によっているから、この行為によって起こるすべての相は清浄なのである。

清浄なるが故にここに生じる事柄の一切は、顛倒せず虚偽ではない。

そこでこのような功徳の相を、真実功徳相と名づける。

ではなぜ真実功徳の相は顛倒しないのか。

この相は法性によっており、二諦に順じているからである。

では、二諦に順じるとはどういうことか。

二諦とは、真諦と俗諦であることはいうまでもない。

この場合、真諦とは、法性法身である真如法性そのものを指しており、俗諦とは、真如より生じる清浄の相を意味していると言える。

したがってこの場合の俗諦は、方便法身としての、無阿弥陀仏の名号であり、三厳二十九種に見られる、浄土の荘厳の意だと受け取れる。

菩薩の業は、この法性法身と方便法身の二諦に順じてなされるが故に、その智慧は顛倒せず、慈悲の実践もまた虚偽ではないのである。

そこで菩薩は必ず、衆生を摂して清浄なる悟りに至ることができるのである。

では、この引文を通して、親鸞聖人は何を明らかにしておられるのでしょうか。

凡夫の行為の一切は不実功徳相であり、それ故に凡夫には二諦に順じる行為は存在しません。

それに対して菩薩の行為は、真実の智慧によって起こされるが故に、真実功徳相であり二諦に順じています。