投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

「三十三間堂棟木の由来」(中旬)それまでの説教が何の役にも立っていなかった

平成7年1月17日、阪神淡路大震災がありました。

被災された人たちの中には、ずいぶんお世話になったご門徒の方がおられたので、私はお見舞いに上がりました。

現地で普段お世話になっているご婦人をお見かけしたので、

「奥さん、ご無事でしたか」

と声をかけました。

そうすると

「神も仏もあるもんかい。

わしらがいったい何したっていうんや」

と言うんです。

私は言葉を失いました。

いつもお寺にお参りされていて、お念仏は災いよけのまじないではないということは重々ご承知の人だったはずなんです。

それでも、家が地震で潰れ、その下敷きになってご主人が亡くなり、その家も火災でなくなってしまった。

そんな不幸が一度に来ては

「神も仏もあるもんか」

となっても仕方がないのかもしれません。

私はそれまで

「南無阿弥陀仏」

とはどういうことかを説教してきましたが、それが何の役にも立っていなかったことを知らされました。

もう布教使をやめようかとも思いましたが、そのとき、蓮如上人の

「後生の一大事を知ることが大事だ」

というお示しが理屈ではないんだと思い、それで節談説教というものに正面から取り組むようになりました。

平成19年7月3日、東京の築地別院で第一回目の全国節談説教布教使大会が開かれました。

二千五百人もの人が集まり、しかも浄土真宗本願寺派のご門主がその一番前の席に座っておられて、最後までお聴聞して下さったんです。

そして、これを契機に、次の世代にも節談説教を伝えて行くため、節談説教研究会を作ることになりました。

また、今年の五月には四国の高松で、み教えを通じて刑務所の受刑者に更正を促す教誨師の全国大会が開かれました。

全国教誨師連盟の総裁を務めておられるご門主様も大会のため高松にお越しになりました。

ご門主様の随行が私と同じ兵庫県の方でしたので、私はご挨拶に伺いました。

そのとき、ご門主様から

「節談をなさった方ですね」

と声をかけて頂きました。

そして続けて

「よいご縁に遇わせて頂きました。

実は、私も前から思っていたのですが、理屈より情念に訴える話、節談というものを、これからしっかりとみなさんにお聴聞していただけるよう努力していきたいと思います」

と直におっしゃって下さったんです。

とても感激いたしました。

以前、ご門主様が節談についてお書きになった文章を見たことがあります。

それは、一読しただけだったので、正確でないかもしれませんが、大意としては

「落語というものは何百年も同じ話が続いているではないか。

何百年話をしていても、聞き飽きない何かがあるはずである。

浄土真宗にもお説教というものがあるのだから、それを法話ではなく、お説教としてもう一度見直す時期ではないか」

という内容でした。

それでより一層、節談への思いを強くしたことです。

私のいるお寺では、ご門徒の方が法要の依頼をされる時によくこのように言われます。

私のいるお寺では、ご門徒の方が法要の依頼をされる時によくこのように言われます。

『先生、○月○日に○○のおとむらいをお願いします』

ここで出てくる

「おとむらい」

とは、通常

「お弔い」

という漢字をあてることが多く、意味も

「亡き方の追善回向をする」、

すなわち亡くなられた方の心配をして偲んでいく一方で、自分が嫌な目にあったり、祟られたりしないように、という気持ちがこめられていたりします。

浄土真宗においても、

「おとむらい」

という言葉を用いることがありますが、その場合は

「お弔い」

という字はつかいません。

ではどのような字を用いるかといいますと、浄土真宗では

「訪(たず)ねる」

という字をつかって、

「お訪(とむら)い」

と書きます。

では、なぜこのような字を用いるかといいますと、

「訪う」

とは、

「案じ、訪ねていくこと」

という意味があります。

つまり、亡き方の

「いのち」

をとおして、わたしの今の

「いのち」、

そしてこれから

「いのち」

「訪ねる」

のです。

亡き方の心配をしていくのではなく、逆に亡き方々に心配をかけてしまうような生き方をしてしまってはいないか?と、自らの

「いのち」

を省みてみるのです。

2010年を終え、2011年という新たな年をむかえる中で、日々忙しい生活になることがなにかと多い私たち。

「生かされている」

という大切なことを忘れ、いろんなことをあとまわしにしてしまっているような気がします。

亡き方が

「いのちがけ」

で私たちを心配してくださっていることを味合わせていただきながら、

「訪い」

の一年を心豊かにおくっていきたいものですね。

『いっさいに対して私は初心でありたい』

新しい1年が始まりました。

本年は、4月より翌年1月にかけて親鸞聖人750回大遠忌法要が京都の本願寺で厳修されます。

この法要を機縁といたしまして本願寺では様々な記念事業が行われています。

その中でも特に大きな事業は、親鸞聖人の御真影をご安置している御影堂の平成大修復です。

10年という歳月をかけてたくさんの方々のご協力により無事、完成いたしました。

その修復された御影堂で、国内外の僧侶・門信徒が集い、法要が厳修されます。

薩摩藩の治世下では、自由にお念仏を申すことのできない念仏禁制の時代が室町時代末期より明治初期までの約300年続きました。

その念仏禁制が始まった頃、織田信長との石山合戦を経て、豊臣秀吉の時代に寺

基を大阪から京都現在地堀川六条に移した本願寺では、御影堂の建立が着々と進められていました。

この話を聞いた薩摩のご門徒方は、是非とも自分たちもお手伝いをさせていただかなければという思いから、命がけで本願寺前の堀川に石垣を築くことを決めました。

その1つ1つに薩摩藩の紋どころである

「丸に十の字の紋」

を刻みました。

しかし、当時は既に念仏禁制の時代です。

このことが知られて、弾圧がさらに厳しくなることを心配したご門徒方は、結局すべてを消すことにしました。

しかし、1つだけあの丸に十の字の紋どころが残されていました。

これが、今でも本願寺に伝わる

「見残しの石」

です。

本願寺にお参りして、この

「見残しの石」

を拝見させていただく度に、当時の先達の方々の命がけのご苦労が偲ばれて、自然と頭が下がります。

今鹿児島では、当たり前のように自由にお念仏を称えることができますが、私たちが今こうしてお念仏を声高らかに称えることが出来るのは、過酷な念仏禁制の中にあって、厳しい弾圧に耐えながら、いのちがけでお念仏の灯火を守り抜いて下さった方々がおられたからです。

改めて、今こうしてお念仏を申す身とさせていただいておりますことに感謝申し上げながら、そのお念仏のみ教えをお伝え下さった親鸞聖人、そしてそのみ教えを喜ばれた先達の方々に深く感謝しつつ、親鸞聖人750回大遠忌法要をお迎えすることです。

親鸞聖人における「真俗二諦」1月(前期)

親鸞聖人の根本的立場は

『教行信証』の

「教巻」

に明らかなように、浄土真宗を唯一の真実の仏教と見ておられる点にあります。

そして、この浄土真宗という教えの最大の特徴は、

「往相(おうそう)・還相(げんそう)」

という二種の廻向から成り立っていることだといえます。

ところで、親鸞聖人は、往相・還相の廻向と呼ばれる場合、

「往相・還相」

という言葉が重要なのではなくて、迷える衆生を浄土に往生せしめ、その浄土の衆生を再び穢土に還来せしめる、阿弥陀仏の

「廻向」

が浄土真宗のすべてであると見ておられます。

したがって、私達凡愚の仏果への道は、阿弥陀仏の廻向によってのみ可能なのであって、もしこの立場をほんの少しでも動かしたとすると、親鸞聖人の思想は根底より崩れてしまうことになるといえます。

では、なぜこのような見方が親鸞聖人に成り立ったのでしょうか。

親鸞聖人は、自分の生きる世界が末法の世であることを強く意識しておられます。

末法とは釈尊の教のみが残り、行も証も廃れた時代ですが、そのため末法の世を生きる凡夫はただ不実のみであって、仏道に値する善行は何一つなし得ないことを見据えられます。

このことから、親鸞聖人の人間観の特徴は、凡夫における真実性の全面否定にあると言えます。

したがって、そのことにおいては、一つの例外も認めておられません。

いま親鸞聖人の著述から、それられの言葉をいくつか拾ってみると次の通りです。

・一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染(えあくおぜん)にして清浄の心なし。

虚仮諂偽(こけてんぎ)にして真実の心なし。

・無始よりこのかた一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし。

法爾として真実の信楽なし。

・微塵界の有情、煩悩海に流転し、生死海に漂没して真実の回向心なし。

清浄の回向心なし。

・浄土真宗に帰すれども真実の心はありがたし虚仮不実のわが身にて清浄の心もさらになし。

・凡夫といふは無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおほく、いかりはらだち、そねみねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえずたえず。

このように、親鸞聖人は徹底して私たちには清浄なる真実心はひとかけらもないことを明らかにしておられます。

「三十三間堂棟木の由来」(上旬)落語ではなく説教のために作られたネタ本

======ご講師紹介======

松島法城さん(節談説教研究会講師・兵庫県専福寺住職)

☆演題節談(ふしだん)説教「三十三間堂棟木の由来」

ご講師は、松島法城さんです。

昭和2年、大阪市生まれ。

昭和34年に兵庫県篠山市にある専福寺住職を継職。

昭和53年に本願寺派布教使。

そのころ、関山和夫博士の「説教の歴史」や小沢昭一氏のレコードに出会い、節談説教に興味を持ち始める。

昭和59年、当時勤めていた篠山町役場を退職し、現代にあった節談説教を目指し活動を始める。

現在は、節談説教研究会に所属。

==================

節談(ふしだん)説教というものをお聞きになった方は、ほとんどいないのではないかと思います。

お経は中国を通じて日本に伝わりましたから漢文で書かれています。

漢文を読みくだせるという人はごく少数でした。

それで、お経には何かが説かれているのか、どういうお経をあげたのか。

そしてその心は何なのかをお話してご理解いただくんです。

それが、お説教です。

特に浄土真宗は、お経をお勤めした後、必ずお説教を勤めることになっています。

しかし、普通の口調ではなかなかご理解いただけないし、非常に退屈だということで、先輩たちがそれこそ、地べたをはうようなご苦労をなさって、聞かせどころで節をつけるやり方を作られました。

これが節談説教になっていくんです。

心から三百年ほど前のことになります。

現在では、京都に新京極という繁華街がございますが、その新京極のちょうど真ん中あたりに、浄土宗の誓願寺というお寺がございまして、そこのご住職である安楽庵策伝(あんらくあんさくでん)というお方が、今でいうお説教のネタ本を作られたんですね。

これが非常に評判で、古典落語の基礎にもなっているくらいです。

岩波文庫から『醒睡笑(せいすいしょう)』という上下二巻の本で販売されており、今でも手軽に手に入ります。

これをご覧頂ければ、今後落語を聞かれたときに、どういう話がもとになっているのかが分かって頂けると思います。

これはもともと落語のネタをこしらえたのではなく、私たちの説教のネタとして作られた本なんですね。

それがずっと節談説教として引き継がれてきたんです。

ところが戦後、高座の上に座って節談説教をするというのは、どうも品格に欠けるのではないかという意見が出て参りました。

それで、大学の先生のように演台でお説教をする方がいいんじゃないかということで、一時この節談説教は自重されることになり、結果かつての勢いが全くなくなってしまったんです。

昭和34年、私は初めて一カ寺を預かることになりました。

ご門徒さんは二十戸ばかりの小さなお寺ですから、町役場に勤めながら、お寺の住職としてのお勤めをさせて頂いていました。

そしてあるとき、先輩から

「お前、その口調なら布教使になれるぞ」

と勧められました。

最初は、人前で話すなんてとても出来ないと言って返事していたんですが、あまりにも多くの先輩から勧められたものですから、布教使に資格だけ取りましょうということで、布教使資格を取りました。

町役場の方は、昭和59年までは引き続き働かせてもらいました。

その後、布教活動に専念するようになるんですが、そのころは関山和夫先生の

「説教の歴史」

という岩波新書の本に出会いました。

その本を読み、私は節談説教に非常に大きな興味を持つようになったんです。

それから、小沢昭一さんの

「日本の放浪芸節談説教」

という10枚組のレコードが販売されまして、それも買い入れて聞きました。

しかし、そのレコードでは、今は不適当と思われる言葉がどんどん出てきてますし、題材も古いものでしたから、その通りにやれるような話でないものも若干あったんです。

ですから、今の世に合うような節談説教にこしらえ直さないといけませんでした。

当時素人だった私にはなかなか難しいことでしたが、それでも少しずつお話を作っていきました。

『報恩おかげさまありがとう』

今年の夏は、例年になく大変暑い夏でした。

なにか、つい最近まで口を開けば暑い暑いと言っていたように思いますが、気がつけばもう師走。

季節はあっという間に冬を迎え、温かい料理などが恋しくなる時節です。

聞くところによると、夏の暑さの影響で野菜の価格が高騰し、それが家計を圧迫して、容易に

「今夜はお鍋」

とはいかないとのことです。

夏の気候が、今の時期にまで影響を与えて、台所の内容にまで関係しているとは…。

仏教のことば(仏語)に

「重々無尽」

という言葉があります。

これは、あらゆるものが幾重にも重なり合い、網の目のように繋がって、どこまでも、どこまでも広がり存在し合っているということです。

私が、この世界のあらゆるもの(私、他者、様々な命あるもの、自然界のあらゆる事象)と、微妙に関係し合い、繋がっているということを改めて考えさせられます。

野菜を育てる農家の方々の苦労も大変なものだったことと思われます。

けれども、果たして、私たちはそのご苦労をどれだけ知っているでしょうか。

さて

「報恩」

という今月のことば。

「恩に報いる」

という意味ですが、これを平たく言えば

「おかげさまと頂き、ありがとうと生きぬかせて頂く」

ということになります。

前に述べましたように、お釈迦さまは、

「私たちはお互いに関係し合い存在している」

と言われました。

もちろん、その中で私たちは恩を受け、また与えていす。

しかし、人間は与えたものはいつまでも覚えているものですが、ともすれば自分にかけて頂いたご恩は忘れてしまいがちです。

そのため、時として

「あんなにしてやったのに…」

と、他人を謗(そし)ることもあったりします。

形に残るものであればまだ気づけますが、形として残らないものにはなかなか心が向かず、見過ごしてしまったりすることもあるようです。

一年の終わりに気付くのは、改めて様々なご恩の中に生かされてきた私の一年であったということです。

間もなく迎える新たな年を、

「おかげさま」

「ありがとう」

と味わいながら、一歩一歩、人生の歩みを進めて行たいものですね。