投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

『一年の早や過ぎ行きて除夜の鐘』

あなたは

「忘れていたことを思い出すのはどうしていつも夜なんだろう…」

とか思ったりしたことはありませんか。

たとえば、家に帰ってから

「トイレットペーパーがなくなっていた」

とか、

「廊下の電球が切れていた」

とか…。

私たちは、どうしていつも忘れていたことを思い出すのは夜になってからなんでしょうか。

それはきっと、私たちが日常の雑多なことを夜しか思い出せないほど、余裕のない毎日を送っているからではないでしょうか。

振り返ってみますと、朝から夜まで、あれもしなくては、これもしなくては…と、いろんなことに追われているので、ついつい身の回りのことが後回しになってしまうようです。

そのため、夜になりそれらのことから解放されて、ようやく生活用品を補充しなければならなかったことや、昨日もらっていた友だちからのメールに返事をするんだった、といったようなことなどを思い出したりするのかもしれませんね。

このような一日の繰り返しが、いつの間にか週の繰り返しとなり、やがて月の繰り返しとなり、そして気がつけば一年もまた同様に

「早や過ぎ行きて…」

ということになるのだと思います。

さて…、今年はあなたにとってどのような一年でしたか。

政治の世界では自民党から民主党への

「政権交代」

があり、また司法の世界では民間人が職業裁判官と共に直接裁判に関わる

「裁判員制度」

が始まるなど、それぞれに

「歴史的な変革が行われた」

として、後世の歴史に刻まれるような出来事のあった一年でした。

個人的にも、それぞれにいろいろなことのあった…、それこそ人によっては

「激動の…」

という言葉を冠するような一年だったかもしれませんね。

周知の通り

「除夜の鐘」

は、12月31日の大晦日(おおみそか)に、各寺院で108回つかれる鐘のことで、昔から人々はこの鐘の音を聞きながら過ぎ去ってゆく一年を振り返って反省し、来るべき年を迎えて来ました。

思えば、あそこでこんなふうにしていれば…とか、悔やむことも多々あります。

けれども、私たちの人生は一度限りで、決してやり直すことは出来ません。

そのため、なかなか思うようには行かないのが現実なのですが、やり直すことの出来ないこの一年、そして今日の一日ではあっても、何度でも見直すことは出来ます。

日々の些事に追われ、いつの間にかいろいろなことを忘れ去ってしまう私たちですが、それでも忘れても、また忘れても、何度も何度も思い出して、見直しをして行く中で、私たちは少しずつ人間として成長していくことは出来るのではないでしょうか。

「念仏の教えと現代」12月(中期)

では、老と病と死は、科学が目指すように本当に明るくとらえることができるのでしょうか。

実際には、科学が発達している今日でも、やはり老病死は嫌なもので、怖くて寂しいものです。

人間にとって、一番みじめで痛ましいことは、若さが失われて老いさらばえていくことであり、どうしようもない病にかかり、そして最後に孤独な死という場面にひとり立たされることです。

そうだとすれば、バラ色のように見える人生において、依然として人間には言い表しようのないみじめさが残っているといわざるを得ません。

ただし、臨終のときの惨めさは、古代から最大の問題であったことは確かで、現代の人々同様、いつの時代でも人々は常にその怖さからいかに逃れるかということを必死に探し求めてきました。

では仏教においては、臨終の迎え方をどのように人々に教えてきたのでしょうか。

人間にとって、臨終が最も大切だということを教えました。

そして、その最も素晴らしい臨終というのは、まさに亡くなるその瞬間なのですが、その臨終の時に心が静かであって、しかもそこで仏さまに迎えられて浄土に往生していくことだとされたのです。

このような死が古代の人々の理想であったとしますと、現代の私たちの理想は、老いの中でも非常に楽しい生活が出来て、病にかかっても安らかで心地よい治療が受けられ、そして安らかな死を迎えることだということになります。

さてここで、親鸞聖人の臨終の見方はどうであったか、ということになります。

親鸞聖人の臨終観の大きな特徴は、臨終のやすらかさということを徹底的に否定されたことにあるといえます。

これは臨終における仏の来迎を否定した親鸞思想と重なることになります。

私たち、一人ひとりは誰もが最終的には臨終を迎えることになるのですが、それがどのような状態であるかは、実際は全く分からないことです。

その臨終を安らかに迎えることが出来るということは、人によってはあるかもしれませんが、これは非常に稀なことだといえるように思います。

したがって、私たち一般の者が、普通受けいれなければならない死は、そういう稀な状態ではなく、大半はみじめな死を迎えざるを得ないというのが、偽らざる人間の姿だということになります。

「限りなきいのち〜死を超えた慈悲〜」(中旬)僕は天国にはあまり行きたくない

そして三つめは、どんな人でもまた会いたいという気持ちになるということです。

浄土真宗では、お浄土でまた会えると説いてございますが、こういう気持ちではどんな人にもあると思います。

世間ではよく天国、天国と言いますが、僕は天国にはあまり行きたくないです。

天国は宮沢賢治の

『銀河鉄道の夜』

に書かれています。

タイタニック号の乗務員が銀河鉄道に乗ってきて、やがてサザンクロスという南十字星の駅が近づいた所でみんな降りて行くんです。

ところが、女の子と男の子は

「降りたくない」

と言います。

ジョバンニと仲良くなったからです。

そのときジョバンニが『銀河鉄道の夜』で

「天上へなんか行かなくたっていいじゃないか。

僕たちもっといいところを知っているよ」

と言ってます。

これが『銀河鉄道の夜』の本心なんです。

ほとんどの研究者には白鳥座からサザンクロスにかけて、十字架から十字架に行く物語として理解されています。

でも賢治はその天国というものを受け入れていても、天国をどこかに終着点があってもう会えない、バイバイと別れなくちゃいけない所として表現してるんです。

一方で、どこまでも一緒に行けるという世界を仏教の浄土の中に見出した訳です。

あなたは天国に行きたいでしょうか。

僕はそういう二度と会えず、離ればなれになる終着点のような所には行きたくないですね。

浄土は私たちの苦しみや悲しみをすべて海のように清らかにしてくれる世界、そしてまた会える世界です。

こういうことを亡くなった人は願っているのではないでしょうか。

僕の母のことを話させて頂きますが、母は最後の十年くらいはずっと寝たきりで、介護の毎日が続きました。

僕は母の介護もあり、神戸から京都まで二時間近くかけて通勤しています。

時には忙しさから、母の顔を見ずに出かけることもあります。

母はそんな僕に

「行ってらっしゃい。気をつけてね」

と言い、帰って来たらいつでも

「お帰り。大変やったね」

という言葉を届けてくれるんです。

そういう言葉の中に、どれだけ深い母親の愛情があるのか、四十歳になってようやく気がついたんです。

僕が母の部屋を訪ねて行くと、母はいつもニコッと笑って、学校で教えるのも大変やろと言って慰めてくれました。

大変なのは自分の方なのにね。

食べるのでさえ、食べさせてもらわないといかんような中で、いつも微笑んでいました。

僕だけではなく、家族全員が、その微笑む姿に本当に大きな勇気をもらいました。

「世間が見捨てても、仏さまがついている。

何があっても仏さまが護ってくれる」

と、そんな母でした。

そういう意味では

「行ってらっしゃい」とか

「お帰りなさい」

という言葉が、どれだけ深い愛情なのかということを、僕たちはもう一回考え直して見るべじゃないかと思います。

『「報恩講」はなぜつとめるのでしょうか?』

浄土真宗の教団では、親鸞聖人を宗祖と仰いでいます。

それは、親鸞聖人のみ教えに従って、お互いが仏になる道を歩んでいるからです。

その親鸞聖人のご命日に、報恩のために行う真宗寺院の最も重要な仏事が

「報恩講」

と呼ばれる法要です。

聖人は弘長二年(1262)の11月28日にご往生されました。

そこで、浄土真宗の各本山では、11月21日から28日までの8日間、報恩講の法要を勤修します。

なお、真宗教団は、今日、本願寺派(西)・大谷派(東)・高田派・仏光寺派・興正派など、十の派を数えていますが、西本願寺や高田派では、報恩講を1月9日から16日まで勤めています。

この違いは、旧暦と新暦の違いによります。

明治維新後、日本はそれまで使用していた大を改めて太陽暦にしました。

親鸞聖人のご命日弘長二年11月28日を太陽暦に置き換えると1月16日になります。

そこで、西本願寺などは、その1月16日を宗祖のご命日とし、東本願寺などは新暦になっても11月28日という期日を動かさないで、この日をご命日と定めています。

また、本山以外の各寺院では、本山の報恩講に参拝するため、それ以前に報恩講を勤修するところが大半です。

さて

「報恩講」

がなぜ、真宗者にとっても最も大事な仏事となるのでしょうか。

「報恩」

の心とは、自分がその方からいかに恩を受けているかを知って、はじめて自ずから生まれます。

恩を知るが故に、人は必然的にその恩に報いようとするのです。

ところで、真宗者のほとんどは、親鸞聖人から、どれほど尊い恩を受けているかを実はよく知っていません。

だからこそ、報恩講で親鸞聖人よって明らかにされた阿弥陀仏のみ教えを聴聞し、真に念仏を喜ぶ人生を歩ませていただかなくてはならないのです。

それは、自ら念仏を喜び、他の人々に念仏の真理を伝えることこそ、まことに

「報恩」

の道となるからです。

『信心』

神や仏の力を信じて、その加護を祈ることを信仰といいますが、浄土真宗では

「信心というは、すなわち本願力回向の信心なり(「教行信証」信巻)と言われるように、阿弥陀仏から与えられた信心です。

浄土真宗では、信心を

「まことのこころ」

と読み、仏の誓願によびさまされた真実の目覚めをいいます。

仏の本願を信じるということは、仏の願心によびさまされた、大いなる目覚めなのです。

仏の本願は大悲の智慧ですから、本願に開かれた信心もまた、智慧です。

仏の智慧に開かれた信心は、おのずから智慧のはたらきをもつのです。

中国浄土教の善導大師は、信心の自覚内容として二種を説かれ、一つには自身は積み深い凡夫であって、救いの縁なき身であること、二つには阿弥陀仏は、その身を必ず救ってくれることとされました。

親鸞聖人は、第一の信心は自身の智慧であり、第二は仏の本願のはたらきに乗託する信心であると了解されました。

真実の信心は、仏の本願によびさまされた目覚めですから、ただ単に神仏を崇めてその威徳に頼ろうとする信仰とは、本質的に違います。

信心は、自己自身と仏への明確な信智を度各内容とする深い目覚めであり、仏の智慧を生きる自覚だといえます。

立冬が過ぎて

立冬が過ぎて

「あっ!涼しくなってきたなぁ〜」

と思っていたら、いつのまにか、お鍋の恋しい季節になってきました!

お鍋といえば、何鍋が好きですか?

私は

第1位 もつ鍋(*^_^*)V

第2位 キムチ鍋

第3位 ちゃんこ鍋

いろんなお鍋はありますが、(今、トマト鍋というのがはやっているらしいですヨッ☆)親しい人々と楽しく囲めるというのが、お鍋の醍醐味であり、一番のおいしさではないでしょうか???

みなさんもこれから年末にかけて、忘年会が目白押しのことでしょう。

今年一年を振り返りながら、嬉しかった事、悔しかった事、悲しかった事などなど、日頃なかなか話せないことも素直にさらけだしてみて、ともに分かち合い、時には少しぶつかりあったりもして、わきあいあいと過ごしてみるのもいいかもしれませんね(^o^)ノ

きっと、普段は見えなかった、その人の

「思い」

「心」

「表情」

などを知る、いいきっかけになるのでは☆★☆★☆★☆

私は思います。

「一期一会」

どんな人とも、まず出遇えたことに感謝し、また仲良くなれたことを喜び、全力でこのひとつひとつの出遇いと向き合っていきたい。

・・・さて☆今夜は、何鍋にしましょうか〜(*^_^*)♪★☆★☆★☆