投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

「鉛筆を杖として」(下旬) 恥と傷こそが人生の醍醐味

 そこで、小説を書くことになりました。

『白い花』という作品を描いたのですが、これがとても評判がよくて、半年に1回本を出すたびに小説を載せていいということになりました。

でも、それからが大変でした。

当時の私は主婦で、子どもも3人いました。

家事がありましたから、本当に時間がありませんでした。

 しかも小説というのは、机に向かっていれば出来るというものではありません。

書いては消し、消しては書き、全身消しゴムの粉だらけになって、1行も書けないという日もあります。

家族のために使えば、本当に使いでのある時間を破り捨てるようなものです。

もちろん悩みましたが、それでも私は書くことを止めませんでした。

 書くとき一番悩むのは題材です。

題材というのは、そうそう転がっていません。

それでも、原稿の締め切りは近付いてきますから、どうしようかと考えた結果が、自分のことを題材にするしかないということでした。

そして、私は灰色の自分をいっぱい書きました。

旧満州で弟を失いかけたことは『遠い町』、引き揚げのときに船を乗り違えて、子どもが1人いなくなった事件は『光景』という作品に書きました。

 そうやって私は、何か書くものはないかと探して、自分の恥と傷をいっぱい書きました。

自慢なんか書いたら、小説にならないんです。

恥と傷こそが小説の一番の題材なんです。

 それで書いているうちに、思いがけないことに気がつきました。

それまでひた隠しにしてきたこと、本当の自分というものを小説の所々に忍ばせ、1人の親友に打ち明けるのではなくて

「世の中の読者みんなに打ち明ける」

ことによって、私はだんだん心が救われていくような気がしたんです。

 他にも、私の小説に共感した、感動したというお便りをもらうことがあります。

きれいごとは全く書いてないんですが、その痛みが分かる、私も同じだというお便りをもらうと本当に嬉しいです。

私がかつて、自分の灰色の心に苦しんでいた時、兄の本棚の本からもらった優しい贈り物を受け取って救われたように、今度は私か同じように贈り物をあげることが出来た、その喜びがものすごく大きかったですね。

 私は今も書き続けていますが、恥と傷というのは、毎日生産し続けていますので、題材に困ることはありません。

小説というのは、人生の深い味わいを書き綴ることなんです。

恥と傷が深い小説を作るのだとすれば、それこそが人生の醍醐味ではないかと私は思います。

「『地獄』というのは、どんな世界なのですか」

よく、昔は

「悪いことをすると地獄へいくぞ」

と聞かされました。

積み重ねてきた様々な罪の報いを受ける場所。

それを地獄と呼んだのです。

地獄というとまっさきに思い浮かべるのは、地獄絵図です。

そこには、鬼によって刃物で肉体を切り刻まれたり、火に焼かれたりして死ぬほどの苦しみを受ける姿が描かれています。

言語を絶する苦しみの世界が想像できます。

人間としての苦痛は、死んだらおしまいであるのに対して、地獄では、悶絶(もんぜつ)すると再び生き返ってさらに死に至る苦しみを受ける、という運動が繰り返されるのです。

そういう苦痛を受けねばならないのは、

「心はそれ第一の怨(あだ)なり。

此(こ)の怨(あだ)、最も悪と為(な)す。

此の怨、能(よ)く人を縛(しば)って閻羅(えんら)の処(ところ)に送り到(いた)らす」

と、罪人を責めながら地獄の獄卒(ごくそつ:鬼)は叫(さけ)び続けると源信僧都(げんしんそうず)の

『往生要集(おうじょうようしゅう)』

にあります。

殺人事件等の悲惨なニュースが取り上げられると、私達は

「あんな悪人はいない」

と他人事としてそのニュースを見ます。

それは、自分が刑法に触れるような殺人等をしていないのであんな悪人はいないと他人事としてみることができるのです。

確かに刑法上は犯罪を犯さなければ罪には問われないのです。

しかし、地獄では

「心は怨(あだ)」

であり

「最も悪」

なのです。

例えば、実際に人を殺していなくても、その言葉によって相手を傷つけてみたり、或いは

「自分の幸せを邪魔するあんな人なんかこの世にいなければいいのに」

と時に心の中で人を排除することさえあるのです。

それはまさに殺人へと繋(つな)がるのです。

無意識のうちにたくさんの人々を心の中で排除している私の姿・有り様が受け取れます。

つまりこうしてみていけばすべての人々に地獄行きの資格が備わっているといっても過言ではないのです。

PTAバザーが近づいてきました。

PTAバザーが近づいてきました。

バザー部長としてテンヤワンヤの日々です。

PTA会員さんに配る資料を作ったり

学校の先生たちに連絡したり

役員のお母さんたちに電話したりメールしたり

今月のケータイ代どーなるんだ!!?って感じです。

でも、部の役員さんたちとは結構うちとけました。

とても優しい人たちです。

こないだ、副部長さんのお宅でバザー委員会の打ち合わせをしたときは

うどんを作って食べさせてくださいました。

食後の加治木まんじゅうも、とてもおいしかったです。

先生たちもいい方たちです。

特に教頭先生。

すごくお世話になってます。

学校には頻繁に出入りするため、すっかりわたしの顔も有名になり?

気軽に声をかけてくださいます。

フルタイムで仕事もしてるし、

部長には荷が重すぎると今でも思っていますが、

たくさんの方々に支えられ、少しずつ任務を果たせているような状態です。

最初はどーしよーーーー!!!って、すっごく気がめいってたけど、

いろんなことを経験して、学べる1年も

まぁまぁいいのかなって思えるようになりました。

「じゃぁ、来年も…」

と言われても、

絶対断るけどね。

「権化(ごんげ)」

「悪の権化」

とは言いますが

「善の権化」

とはあまり言わないようです。

しかし、元来は同じ語から出た

「権現(ごんげん)」

の方は、神仏を指す語として善い方の意味で使っています。

「権現さま」

と言えば、江戸時代以来、神格化された徳川家康を指すのが通り相場です。

このように、権化と権現とが何となく善悪の二方に分かれて使われるのは、権化の

「化」

が魑魅魍魎(ちみもうりょう)といった化け物のたぐいを連想せしめるからなのでしょうか。

権化という言葉は、元は仏教の用語です。

「権」

「権実(ごんじつ)の権」、

すなわち仮のもの、一時的に説く仮の教え(方便)を意味します。

これに対する

「実」

は本当のもの、永久に変わらぬ真実の教えを意味します。

したがって

「権化」

というのは、真実である仏や菩薩がその通力によって仮の姿で化現することであって、特に悪い方面に傾いた言葉ではなく、むしろ元来は善い方面の言葉です。

「悪の権化」

といった使い方も、目に見えず形のない悪というものが、人の姿をとって化現したという意味では、元来の意味に適合していると言えますが、化現する実が仏ではなくて悪だということは大いに考えなくてはならないようです。

権現も権化と同じ意味ですが、この語は、時に衆生済度(生命あるもの一切の救済)の思想に結びついています。

真実の法身(ほっしん)が仏の姿や菩薩の姿、その他種々の姿に化身して衆生を救済するために現れること、また現れたその姿を意味します。

明治の神仏分離政策までは日本の各地に鎮座していた

「権現」

も、法身という目に見えない実が、仏とか菩薩という目に見える姿をとって現れるという語の本来の意味を拡大解釈して使用したものです。

日本の古来の神々も、仏さ菩薩が日本の衆生を救うために化身して現れたものであるという解釈(いわゆる本地垂迹説)に基づいています。

徳川家康を

「権現さま」

と呼ぶのは、こういう拡大解釈をさらに拡大して人間に使用したものと言えます。

『周りの人に 許されて生きる私』

無意識の内になのですが、私たちは常に

「裁きの心」

をもって周囲の人とふれあい、同時に他の人を

「裁きの眼」

を持って切り刻んでいるといわれます。

では、それはいったいどのようなことなのでしょうか。

相手を自分の思いで切り刻みながら出会うというのは、決してその人の心をあるがままにとらえようとするのではなく、自分の一方的な思いで見ようとしたり、自分の都合に合わせて評価しようとしたりすることです。

確かに、振り返ってみますと、私たちはしばしば周囲の人と

「出会っている」

とか

「つき合っている」

とかいうことを口にしますが、実はいつもその出会いや付き合いの根底には、裁きの心が潜んでいるように思われます。

具体的には、その人の性格や能力であったり、あるいは経済的な面であったり、社会的地位であったり、また自分にとって都合の良し悪しでその人のことを評価してしまうといった在り方のことです。

 したがって、私たちの一生というものは、常に自分の思いを通して他の人と出会うばかりで、また事実をみる見方においても、いつも自分の思いを中心において見ようとすることにとらわれています。

つまり自分の思いだけで周囲の人と出会い、自分中心に世の中をとらえることに終始しているのです。

 けれども、自分の家族とかより近い人のことだけは誰よりもよく分かっているような気がするのですが、経典には

「近いからといって、必ずしもよく見える訳ではない」

ということが説かれています。

一般には、遠くにあるものよりも近くにあるものはよく見えるものですが、ただし近すぎると今度はピントが合わなくてかえってよく見えません。

私たちは、父母、兄弟、姉妹に囲まれて生きていると言いますが、しかし本当は一度も父母、兄弟、姉妹というものと出会ってはいないのです。

なぜなら、いつも自分の思いでしか父母、兄弟、姉妹に出会っていませんし、まさしく自分の思いを持って父母、兄弟、姉妹を切り刻んでいるばかりだからです。

例えば、私たちはよその家庭の良いさまを目にすると、親なら親に対して、妻やあるいは兄弟姉妹、子どもに対しても

「こうでなくてはならない」

という自分勝手な枠をはめながら見ています。

しかも家族が自分の意に添わないと、おそらく他人であれば絶交、あるいは修復不能というような内容の言葉を平気で投げつけてしまうことがあります。

まさに、お互いに自分の思いをぶつけ合いながら生きているのです。

ところが、そういう自分の在り方が分かるのは、多くの場合その人に死なれた時です。

その人に死なれてみて、自分の身勝手な思いが砕け散り、初めてその人のことを枠にはめて見ようとしていたことに気付かされるのです。

それは、いかに自分がその人に本当に出会ってはいなかったかということの証に他なりません。

このように、私たちはいつもその人の気持ちよりも、自分の思いをもってその人を測ろうとしています。

「親ならばこうしてくれて当たり前ではないか」

という思いが先に立って親に会う。

けれども、そこには不平不満というような思いしか出てこないのが私たちの常です。

ですから、私たちの裁きの心が捨てられたとき、はじめて父母を父母として出会う、兄弟を兄弟として出会うということがあるのです。

したがって、私の身勝手な思いというものが捨てられなければ、いつも会い詰めに会いながら一度も会わない、毎日その人と顔をつき合わせながら、結局その人と一度も出会わなかったということになってしまうのです。

そういう意味において、私たちが他人と出会う在り方の、いつもその根底に貫かれているのは、自分の身勝手な思いだということに気付かされるとき、そうであるにもかかわらずそのような私が今ここにこうしてあるということは、まさに

「周りの人に許されて」

のことであるということが深々と頷かれるのではないでしょうか。

「念仏の教えと現代」11月(中期)

 今まで苦心惨憺して、これで完全だと自分の準備したことが、ある瞬間にいとも簡単にそのすべてが一瞬にして砕け散ってしまうことがあります。

あるいは、自分が一心に調整して、これでよしと思っている自分の姿が、ある瞬間に不慮の事故で、とんでもない状態になってしまうこともあります。

そして、このようなことは、現代社会のいたるところで起こっています。

 いま、何が起こるかわからない。

情報化の時代と呼ばれているこの現代社会においても、やはり未来に対する不確かさは、同じ状態であるといえるのです。

結局、私たちはいかにいろいろなことに備えても、その準備した事柄が、どのような不幸に見舞われてダメになってしまうか、実のところそのようなことは誰にも分からないのです。

 結局、人間というのは、現在この瞬間においては、空間的に何が起こるのか、また未来という時間に何が起こるのか、全く分からない状態で、今ここに立っているとしか言いようがないのです。

 そうしますと、現代人の怖さ、現代人にとっての最大の弱点は何かということになるのですが、その前に強さは既に述べたように、国際的な舞台で活躍し、豊かで快適で楽しい生活を作り出して行くことです。

国際化と情報化と技術化を可能にして、より多くの正しい資料をより早く集めて、まっすぐに進んでいくことはとても得意なのです。

計画通りに事が運んでいくということにおいて、そこでは無類の強さを発揮できるのです。

けれどもその逆に、綿密にたてた計画が一瞬にして根底から駄目になった時、あるいは思いもかけない不慮の出来事が起こった時など、そのような事態の中では、非常に弱い面を見せてしまうことになるのではないかと思われます。