投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

『平等』

 平等の逆は差別であり、差別がないことを平等といいます。

このような表現は、元来仏教経典に頻繁に見られます。

お釈迦様は古代インド社会の階級制度としての四姓の平等を説かれましたが、階層の固定化に依存して社会秩序の維持を図っていた時代にあって、その主張は甚だ先鋭、かつ危険であったに違いありません。

しかし実際のお釈迦さまの僧団は、俗権力とは一歩距離をおくことに成功し、その平等の主張も後世に守り伝えられていきました。

そして中国伝来の後、この仏教特有の無差別の思想には、漢訳されて平等の語が与えられました。

涅槃経にも

「一切の衆生は悉く平等である」

と説かれるように、より深化された表現で、しかも普遍的に多くの経典の中で主張されるようになりました。

「平等」

は本来、漢語にはなかった言葉です。

その言葉、その意味は仏教が用意し、そして中国で漢字化され、日本に伝えられました。

日常生活や、あるいは政治・経済・法律などのさまざまな場面で、お互いに同等であることを確認する行為は、現代の私たちにとっては自明のことであるように思われます。

それは、日本国憲法の第14条に

「すべての国民は、法の下に平等であって、人種、信条、姓別、社会的身分又は門地により、政治的、経済又は社会的関係において、差別されない」

と明記されていることによります。

しかし、わずか60年以前の日本に差別が普通に行われていたこと、そして現代に至ってもそれらが決して解消されていなことを思えば、同等の平等から絶対無差別の平等への歩を進めることを本意とする仏教が追うべき責任は、言葉の背景をなしたことと共に、今も決して小さくはないといえます。

(インドコルカタ編つづく〜2009.1月掲載の続き)

(インドコルカタ編つづく〜2009.1月掲載の続き)

 夜中2時。

我々5人の旅行者を乗せた明らかに定員オーバーのタクシーは、まるでインドの底力を見せつけるかのように、車体がどんなに大きく浮き沈みしようとも、それに怯むことなく、真夜中のコルカタを市内に向けて轟々と走っていました。

内心、カーブにさしかかる度にドアが外れて外に放り出されないか、気が気ではなかったのですが、それさえ忘れさせてしまうほどの光景がそこにはありました。

 窓から入る夜風が、密着した5人の男たちの間を心地よくすり抜けていきます。

 比較的大きな道路を走行していたときのことです。

道路脇に大きな丸太のようなものが一定の間隔で置かれているのが、ぼんやりと灯る街灯の明かりの中にうっすらと見えていました。

もうどれぐらい走行したでしょう。

この丸太の列が途切れることはありません。

明るくなってきたこともあり、改めて何だろうと思いながら目をこらして見てみると…、何とそれまで丸太だと思い込んでいたのは、人なのでした。

 人が、道路に寝ているのです。

それもおびただしい数の人が。

中には、子どもの姿もあるようです。

暑く蒸されたアスファルトの上や、車のボンネットの上、積み上げられたゴミ置き場の周り。

至る所に人が横たわり、すやすやと寝ています。

まるで、大きなマグロが市場に並べられているかのように。

インドの強烈な実情を目の当たりにして、すぐには言葉が出ません。

ただ、

「見よ!」

とインドに言われているかのようでした。

 私は日本人。

ここはインド。

 日本で生まれ育った私の根底に流れる日本の風習、物事の捉え方、生活環境など、私を形成している常識の全てが大きく揺らぎました。

そして、凝り固まった私の浅はかな常識など、ここではまるで通用する術がないことを思い知らされました。

 更に驚かされたのは、寝ているのは人だけではないということです。

牛も至る場所で横になっています。

 ヒンドゥー教徒が国民の多数を占めるインドでは、牛はヒンドゥー教の最高神であるシヴァ神の乗り物とされています。

したがって

「聖なる生きもの」

として、傷つけたりすることはもちろん、食べることしません。

都会の街中でも、人や車に混じって、牛も堂々とその一員として生活をしています。

人々は、道路の真ん中に牛が横たわっていても邪魔者として扱うことはせず、丁寧にその牛をよけて通行し、また線路に牛がいれば列車も徐行運転をするなど、インドは牛優先といった感じです。

 人、牛、そして野生の犬たちも含め、あらゆる生き物が一緒に寝ているコルカタの夜。

私には、この光景をカメラに収める必要などありませんでした。

 

なぜなら、実際の画像以上に、私のまぶたのシャッターが、この光景を鮮烈に脳裏の奥深くに焼き付けてしまったからです。

『やさしさとは 他人の痛みを 思いやる感性』

私達は、子どもの頃から誰もが

「やさしい心を持ちなさい」

と、言われて育って来たのではないでしょうか。

今でも、この言葉はよく言われていますが、この

「やさしさ」

というのは、人の気持ちが分かること、相手の立場にたって考えられること。

あるいは、相手のことを心配して厳しいことをいうこと。

それらのどれもが、相手のことを考えているからこそ、表現は違うようでもその内実は

「やさしさ」

について語っているといえるようです。

ただ、私達はともすれば、他人に対して

「親切にしてあげたのに、何もしてくれない」

とか、

「そんなことなら、言わなければよかった」

と、したことや言ったことしたことに対して、相手が期待していたような反応を示さなかった場合、機嫌をそこねてしまうことがあります。

けれども、

そのようなことに陥ってしまうのは、その言動が本来の

「やさしさ」

から出たものではなかったからだといわざるを得ません。

仏教では

「慈悲」

という言葉があります。

「慈」

というのは、純粋な友愛という意味です。

ここで言われる

「純粋」

とは、見返りをもとめないということです。

また

「悲」

は相手の痛み、苦しみを自分のこととして共感することです。

これが、

「やさしさ」

とも重なります、

仏さまは私の苦しみ、痛みをまるで自分のことのように感じられ、少しでもその苦しみ痛みから私たちを解放し、本当の幸せになってほしいと願う心を持ち、はたらいておられます。

その仏さまの慈悲に、私達はすでに包まれているのです。

したがって、その慈悲の心に気付かされたとき、私達は本当の

「やさしさ」

を知ることが出来るのだと言えます。

このような意味で、

「やさしさ」

とは相手に見返りを求めず、相手の苦しみや痛みを自分の苦しみや痛みとして分かち合うことの出来る感性だと言えるようです。

私たちも、そのような感性を持ち、慈悲の心に少しでも近づくことができたらいいですね。

「親鸞聖人にみる十念と一念」7月(前期)

 至心・信楽・欲生とはどのような心でしょうか。

字の意味から窺えば、至心は真実誠種の心、信楽はその真実なるさとりの喜びの心、欲生はその覚知の心が衆生に向かう大悲廻向の心です。

したがって、この真実清浄な一心は、衆生のどのような煩悩に満ちた疑蓋(ぎがい/うたがってなかなか信じないこと)にも雑わることがありません。

では衆生はなぜ迷うのでしょうか。

無始より今日まで、その心は穢悪汚染、虚仮諂偽であって、一片の真実清浄な心もなかったからです。

そのため、法の道理として、如来の真実清浄な信楽を知ることができず、仏になろうと欲する心がまったく生じなかったのです。

だからこそ、衆生はこれまでにずっと迷い続けてきたのだといえます。

ではなぜ阿弥陀如来は、至心・信楽・欲生の三心を成就されたのでしょうか。

衆生には真実心がありません。

そこで、弥陀は至心を成就され、その真実なる誠の心の種を衆生に施されたのです。

同様に衆生はさとりの喜びを知り得ません。

それ故に弥陀は、如来のさとりの喜び、信楽を成就し衆生に廻施されるのです。

さらに衆生には、仏に成ろうとする心がありません。

だからこそ弥陀は、大悲廻向の欲生心を成就し、衆生の心に徹入して、浄土に来れと招喚され、衆生の心を浄土に向かわしめています。

そのためには、どうしても三心が成就されなければならなかったのです。

この衆生を摂取するために成就された弥陀の三心は、本来的に阿弥陀仏の悟りの心、信楽いう一心にほかなりません。

この疑蓋無雑の一心が衆生の心に廻施されているのです。

ところが、すでにその如来の信楽が、いかに衆生の心に廻施されているとしても、煩悩に満ち疑蓋のみの衆生の心では、その信楽を知ることは、絶対にあり得ません。

知り得ないから迷い続けているのです。

では一体、阿弥陀仏のこの衆生を救おうとする利他真実の一心は、どのようにして衆生の心に顕彰するのでしょうか。

この点について親鸞聖人は

「至心は即ち是れ至徳の尊号をその体とするなり。

利他廻向の至心をもって信楽の体とするなり。

真実の信楽をもって欲生の体とするなり」

と述べられます。

すなわち、衆生を摂取する阿弥陀仏の至心信楽欲生の三心は、そのま南無阿弥陀仏という大悲心となって、衆生の心に廻施されていると見られるのです。

「師 柳家小さんと信心」(上旬)「俺が助かったのは“お材木”のおかげ」

======ご講師紹介======

柳家さん八さん(社団法人落語協会会員)

☆ 演題「師 柳家小さんと信心」

昭和19年、東京都江戸川区に生まれ。

東京大空襲を罹災するも九死に一生を得る。

都立の工業高校機械科を卒業し、印刷会社に勤めるが3年後に退社。

親の反対を押し切り、噺家の道に入る。

昭和41年に5代目柳家小さんに入門し、見習いとして修行を積む。

昭和46年に2代目柳家さん八を名乗り、昭和56年に真打ちに昇進。

古典落語の中でも

「こっけい話」

を主に演じ、都内はもとより、学校寄席・地域寄席で全国を巡回しておられます。

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私の師匠・柳家小さんは人間国宝に認定された落語家ですが、実は昭和11年2月26日、世に言うと2・26事件に、麻布3連隊に配属されたばかりの少年兵として参加していたんです。

クーデターそのものは天皇のお怒りをかって鎮圧されましたが、そのことがあって師匠は他の兵隊と一緒に戦場で死んでこいと言われて、日中戦争の最前線に送られてしまったんです。

それでも2年後、なんとか元気に帰ってこれました。

内地で奥さんと無事を喜びあって、落語家の修行にもどったんですが、その後にまた戦地に送られてしまいます。

今度は当時のフランス領インドシナ、ベトナムです。

そして親友が死んで行く中を生き残って、昭和20年にベトナムで終戦を迎えたそうです。

私も師匠に戦争の話をいろいろ聞きましたが

「日本も戦後60年経って平和ボケでしょうがねえや」

と言う一方で

「何はさておき、戦争ほど惨めで辛いものはない」

「あんな戦争なんて、勝っても負けても二度とするもんじゃねえ。

結局泣くのは女子どもだ」

「男は映画や芝居を見ると、兵隊になるんだなんて勇ましく言うけどよ、あんなのは汚くて臭くて全然かっこいいもんじゃねえんだ」

と言ってましたよ。

戦争が終わって師匠は輸送船で横須賀の港に帰ってきました。

その船の中には、中国の兵隊が警備で同乗していて、ときどき威嚇射撃をしていたんだそうです。

それで炊事当番の日本兵が昼飯の準備をしていたら、どこからか怒声が上がって、中国兵が発砲しました。

その弾が師匠のすぐ隣の当番兵の胸を貫通しちゃったんです。

パッと血が噴き出して、その兵隊さん即死ですって。

そのとき私の師匠は、たまたま所持品を調べていて、お母さんが縫い上げたお題目が書かれたお守りをしまって、ごろっと材木のかげで横になったんです。

ちょどそのときに、威嚇射撃の弾が隣の兵隊に当ったんですって。

もしこのとき横にならなかったら師匠も死んでいた訳ですよ。

師匠は後で

「俺が助かったのはお材木(題目)のおかげだ」

なんて言ってました。

それが落語にもなっています。

それで無事に帰ってきて、奥さんと再会した後、落語協会に復帰して、一生懸命芸道と剣道の修行に励んだおかげで、いろんな賞を受けて、人間国宝として天皇陛下にお目見えすることもできました。

そうして噺家の道を邁進し、87歳の生涯を閉じたという訳です。

『無我』

仏教の教えの四つの旗印(四法印)の一つに

「諸法(すべての存在)」

は無我である」

と説かれているように、この言葉は仏教において非常に重要な用語です。

私たちの日常語で

「無我」

と言えば、無我夢中とか、無我の境地などという言い方で用いられているのが普通です。

無我夢中いえば、例えば、我を忘れて夢中になって勝負事に没頭する様子などを表しています。

無我の境地といえば、私心なく執着を離れた無心な心の状態を表しています。

このように、無我という言葉は、忘我とか無心という意味で使われているのが普通です。

しかし、仏教で説かれる無我という教えの本来の意味ではありません。

確かに仏教は執着こそが苦悩の原因であるとして、それを離れることを説く教えです。

その場合には、我執(自身に対する執着)・我所執(所有欲)の否定という全く別の用語が用いられます。

どちらにも

「我」

という語があるため混同しやすいのですが、

「無我」

という言葉によって、執着の否定を意味する忘我とか無心が説かれているわけではありません。

それでは、仏教で説く

「無我」

とはどのような意味でしょうか。

インドの宗教では、自らの善悪の業(行為)の報いを受けて生まれ変わり死に変わりを繰り返すという業報輪廻転生が説かれます。

その場合、過去世から現在世へ、現在世から未来世への転生を可能にするためには、身体が死滅しても、消滅することなく存続する霊的実在が必要であり、それがサンスクリット語で

「アートマン」

と名付けられました。

私たち一人ひとりと不可分に存在する常一主宰の実在とされ、そのアートマンが

「我」

と翻訳されたのです。

仏教の出発点は、そのアートマンの実在を縁起の道理によって否定し、輪廻転生の世界から私たちを解放する解脱の道を明らかにしました。

したがって、無我とはそのような霊的実在としてのアートマンの存在を否定いる仏教の根本思想を示している重要な用語です。