投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

『泥沼の どろに染まらぬ 蓮の花』

私たちは、毎日鏡を見て自分の様子を確かめます。

目で見える姿は良く分かりますが、自分の心となると鏡に映すみたいに見ることはできません。

しかし、自分の心が山の中の泉のように、澄んでいないことは分かります。

また、他人には見えないので、自分の姿を鏡に映して整えるように、心を整えて出かけるというようなこともありません。

 私たちの心は、腹を立てる心や、必要以上にほしがる心や、思うようにならないことから、愚痴を言う心で満ちあふれていると言っても過言ではありません。

たとえれば、泥田のようなドロドロとしたものです。

 美しい花、蓮はそのような泥田の中に咲きます。

泥に染まらぬ美しい花です。

浄土真宗のご本尊、阿弥陀如来はあらゆる苦悩する人を救おうという願いを立てられ、その救いの方法を完成し、私たちに届けていて下さいます。

 まるで泥沼のような心を持ち、苦悩する私を救おうと、阿弥陀如来はいつもはたらきかけていて下さいます。

その仏さまの心が私の心に至り届いて、この仏さまこそ泥沼のような心をもち、苦悩する私を救ってくださる仏さまだという確かな心、いわゆる信心が生まれるのです。

 ドロドロとした私の心に、仏心を受け取った信心があります。

それは、まるで泥田の中に蓮の花が咲くように、私の濁った心に染まらない美しい心、信心が届けられたということです。

本当に、有り難いことだと思われます。

「親鸞聖人にみる十念と一念」6月(後期)

このときなぜ、

「十念」

「乃至」

の言葉がそえて誓われているのでしょうか。

阿弥陀仏が衆生に対して、

「もし一心に念仏を称えるものを救う」

と誓っていれば、衆生は必ずはからいの心を持ちます。

その念仏は何回称えればよいのか。

一声でよいのか、多声でなければならないのか。

十分に修行を積んだものが救われるのか。

それとも愚かなものが、ほんの少し念仏を称えるだけでも救われるのか。

さらには、いつ、どのような場所で、どのような心持ちで称えればよいかなどと、いろいろなことを迷い悩んでしまいます。

それ故に、

「乃至」

という阿弥陀仏の法が

「十念」

という名号にそえて誓われているのは、まさにそのような衆生のはからいの一切を否定するためだと、親鸞聖人はみられます。

そして善導大師によって説かれている第十八願の文を

『教行信証』

で、

「わが名字を称すること、下十声に至るまで、わが願力に乗じてはもし生まれずば正覚を取らじと。

これ即ちこれ往生を願ずる行人、命終わらむと欲する時、願力摂して往生を得しむ」

と読まれ、さらにその本願の意を

「弥陀の本弘誓は、名号を称すること、下至十声聞等に及ぶまで、定で往生を得しむ」

と解釈されます。

そしてこの

「称我名字」

については、

『尊号真像銘文』で、

「われ仏になれらむに、わがなをとなへられむとなり」

と説明されます。

これよりみれば第十八願の

「十念」

は、衆生が称える十声の称名でありながら、その南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏が衆生に

「称えよ」

と願われ、称えせしめ、称える衆生を願力に乗じて弥陀の浄土に往生せしめている、阿弥陀仏のはたらき、すなわち大願業力であり、大行であることは動かしえません。

この点を親鸞聖人は、『末灯鈔』で

「弥陀の本願とまふすは、名号をとなへんものをば極楽へむかへんとちかはせたまひたる」

と説かれます。

そうすると、大十八願の選択本願の意は

「ただ念仏せよ、あなたを救う」

という一言に集約されてしまいます。

この

「乃至十念」

が、法然聖人によって明らかにされた念仏往生の道です。

ところで大十八願には

「乃至十念」

のみが誓われているのではありません。

「至心信楽欲生」

の三心もまた本願の誓いです。

では、その三心と十念はどのように関係するのでしょうか。

親鸞聖人の思想において、

「十念」

は阿弥陀仏の言葉でした。

とすれば、

「三心」

もまた当然、阿弥陀仏の心だと解されます。

この十念については、すでに述べたように、

『教行信証』

では、親鸞聖人自身の言葉による解釈はみられません。

けれども、三心に関しては、親鸞聖人自身その心の根源を、非常に深く論述され、浄土真宗の信心の根本が明かされます。

「阿弥陀さまと私」(下旬) 生き方が変わる

 また、信を獲るということは、よく分かるということです。

例えば

「2+2=4」

であるというのは、皆さんよく分かると思います。

このことを信じているというのです。

たとえ東大の数学科の人が

「2+2=5」

であると言ったとしても、皆さんは問題にしないでしょう。

それは

「2+2=4」

であると分かって信じているからです。

「勝利を信じていた」

などと、強く思い込むことを世の中では信じるという場合がありますが、仏教でいうところの信じるとは、よく分かるということなのです。

何を分かるかと言えば、私と阿弥陀仏の関係です。

それが分かって、私の主人公は阿弥陀さまであると領解することを信を獲るというのです。

信を獲ると、私の我を主人公とする生き方から、阿弥陀仏を主人公とする生き方に必然的に変わります。

つまり、間違いが元に戻るわけです。

妄想から目が覚めるのです。

ただ、信を獲たところで現象は何も変わりません。

しかし、考え方は、ひっくり返るわけです。

つまり、生き方が変わるということなのです。

そして、浄土としての生き方に変わることを往生浄土というのです。

往生浄土というのは、生き方が変わるのであって、場所が変わるのではありません。

自分の在り方、生き方が変わることを言うのです。

そして、逆に信を獲ずして、往生浄土はあり得ないのです。

信を獲ることと往生浄土は同じことなのです。

信を獲ることによってのみ往生浄土は成り立つのです。

そして、往生浄土が成り立って、阿弥陀仏の操り人形に徹するのですが、操り人形にはいのちがありません。

私が阿弥陀仏の操り人形だと分かったところでは、私には私の本当のいのちがなかったと分かる、私の本当のいのちは阿弥陀仏であったと分かるのです。

これを

「前念命終、後念即生彼国」

といいます。

独立した私ではなくて、大きな生命体の表れであったと気付くわけです。

死んで浄土に行くというのは、このことをいうのです。

気がついてみたら、私の命というものはなかった、本当のいのちは向こうにあった。

これに気付くことで、命が終わるのです。

命が終わって浄土に行くというのは、何も心臓が止まること、生物学的な命の終わりを言うのではないのです。

逆に言えば、信を獲ていない人が死んでしまっても、輪廻を繰り返すだけで浄土に往くことはできません。

心臓が動いている間に信を獲ないと、浄土には永遠に行けないのです。

南無阿弥陀仏と称える念仏は、私の思うこと、しゃべること、願うこと、全て浄土の営みのあらわれであって、阿弥陀さまのなせることなのだと目覚めて、阿弥陀さまの右手に徹しようということなのです。

そのことに忠実になることが、南無阿弥陀仏なのです。

生きて、老いて、病んで、死んでしまうこと全てが、阿弥陀さまのなすことだと目覚めることを南無阿弥陀仏というのです。

衣食住全てが南無阿弥陀仏です。

「正信偈」

の最初に

「帰命無量寿如来」

とあります。

帰命=南無、無量寿如来は阿弥陀仏のことですから、南無阿弥陀仏のことなのですが、帰命とは

「命に帰する」

と書きます。

これは、阿弥陀さまのいわれる通りにしますということではなくて、私はすでに阿弥陀さまのなすがままだったと目覚めることなのです。

信の世界こそが、南無阿弥陀仏です。

また、信のない南無阿弥陀仏はないのです。

「浄土真宗では『般若心経』はよまないのですか」

これは、よく聞かれることの多い質問の一つです。

「般若心経」

というと、よく知られているお経の一つですが、それがどのようなお経かというと、文字数は266字と短く、正式名称は

「般若波羅蜜多心経」

といいます。

「般若」

というのは真実を正しく見抜く智慧という意味であり、

「波羅蜜」

というのは悟りに到達する菩薩の実践行のことです。

お経の中で観音菩薩が、

『執着する心を捨て、こだわらない心をもてば「空」の境地が開ける。

これこそが真理であり、一切の苦しみを取り除く道である』

と説いておられます。

しかし、浄土真宗では、

『迷いに染まった私は、真実を正しく見抜くことも、執着する心を捨てて厳しい行を成し遂げて煩悩を消し去ることは不可能である』

と説いています。

自ら執着する心を捨てられるのであれば、誰もが悟りの道に至ることが出来ますが、果たして私たちに、無意識の内に起こる執着を捨て去ることが出来るでしょうか。

全ての人々を救いの対象とされている経典(「仏説無量寿経」)があるにも関わらず、それでも未だに救われることの出来ない凡夫にとっては、

「般若心経」

の教えでは自らの力では迷いを消し去ることが出来ないことは知り得ても、真の救いそのものを得ることは出来難いのです。

したがって、執着を捨て去ることの出来ない凡夫の救われる道は、ただ

「念仏せよ、救う」

と誓われた阿弥陀仏の本願念仏の一道以外にはないというのが浄土真宗の立場です。

浄土真宗では、親鸞聖人が『教行信証』に著された

「正信偈」

を日常の勤行として読んでいます。

朝夕「正信偈」

をお勤めすることにより、阿弥陀様の功徳と願い、その働きを讃えさせて頂きましょう。

熊本県出身のシンガーソングライター、樋口了一さんが歌う

熊本県出身のシンガーソングライター、樋口了一さんが歌う

『手紙〜親愛なる子供たちへ〜』

が話題になっています。

この歌は、一部では第2の

『千の風になって』

になるのでは…、という声もあるほどです。

この歌は、題名の通り親から子供へのメッセージとなっているのですが、その内容があまりにも具体的すぎて、涙なしには聞けないのです。

特に心を打たれたのが

「あなたの人生の始まりに 私がしっかり付き添ったように 私の人生の終わりに少しだけ付き添ってほしい」

というところです。

昨年、娘を授かった私には他人事とは思えない、そして決して押しつけではない親の切実な願いが伝わってきました。

実は、この歌詞は作者不詳で、一通のメールで送られてきたらしいのですが、ポルトガル語で書かれていたそのメールを受けた人物と、たまたま知り合いだった樋口さんがその詞に感銘を受け、日本語訳したものにメロディーをつけて歌われたのだそうです。

中には、この歌が辛く聴こえる方もいらっしゃるかもしれません。

けれど、本来あるべき家族の姿とは、お互いが支え合っていくものだったはずです。

樋口さんの優しい歌声が、そのことを思い出させてくれるような気がします。

高齢化社会となりつつある日本においても、避けて通ることのできない介護問題。

介護される側も、する側も何かしらの精神的ストレスや身体的ストレスを抱えています。

この歌を必要としている方に向けて、万感の思いをもって歌われている樋口さんの姿に共感すると共に、これから老いていく両親の気持ちをくみとれる子供でありたいと思うことでした。

『自我』

 自我という言葉は、一般的には自己自身、あるいは思考、感情、行為など、心理機能を司る人格の中枢機能のことを意味します。

例えば、

「子どもが自我に目覚める」

というように、人間の成長にとって必要不可欠なものであるとされます。

このように、いわゆる西欧流人間関係諸学科においては、自我の確立という考え方が学問や実務の上で大きな比重を占めます。

自我が意識の中心であるのに対して、自己は意識と無意識とを含んだ心の全体性であるとする考え方があります。

このような自己を経験する過程を

「自己実現の過程」

とするユング心理学の立場から、近年

「自我」

とい言葉が盛んに用いられるようになりました。

仏教以前のインド思想においても、

「自我(我=サンスクリット語でア−トマン)」

は人間の中心になり、最も基本的な常住なるものであると考えられました。

そして、古来この自我の意義が力説され、

「宇宙的原理即自我である(梵我一如)」

という神秘的体験を最高の境地とする思想が主流を占めてきました。

釈尊はこれを批判され、自我には実体はないとする無我の思想を打ち立てられました。

仏教によると、私たちが心身の統一体としてとらえている自己は、さまざまな要素の複合体に過ぎないものとされます。

すなわち、その複合体を固定的なものとみなす抽象概念を否定されたのです。

自己のみならず、人生、社会、宇宙はすべて、固定性のない無我ですから、それは実体がなく、どうにでも変容しうるものです。

人間の心にも自由意思が存在し、これによって、修養や努力による人間向上の可能性も認められることになります。

それでは、その複合体である自我を成立させるものとは何でしょうか。

釈尊は、自我は実在するのではなく、縁(条件)によってあるのであり、そういう関係性の上にすべてが成り立っていると説かれます。

したがって、私たちは、日常の人間関係においても、自我のみを重要視するのではなく、自己も他者も環境や社会も縁によって成り立っているという、東洋的な着想に立つことも必要になるのではないでしょうか。