投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

「日本人の心とお念仏」(下旬) よく咲いたわね

 刧濁とは、濁った時代ということで、人々から澄んだ清らかな心がなくなり、互いに憎しみあって生きる時代のことです。

見濁とは人間の思想の濁り。

煩悩濁とは、みんなが煩悩止まることを知らず煩悩に縛られて生きることです。

衆生濁とは人よりも偉くなりたい。

人よりも有名になりたい。

人をかき分けてでも前に出たいという自己顕示欲がはびこることです。

命濁とは、いのちの濁り。

人々が慈悲の心ではなく、愛を大事にする。

誰もが見返りを求めて生きるということです。

この五濁悪世をきちんと見つめる目を持って生きるということは、全てのものに対して思いやりといたわりの心を持って生きていくということです。

そして、俺が俺がと人をかき分けて前に出て行くのではなく、自らの行為に慎みのある思慮深い心を持ったのがかつての日本人であったと、ハ−ンさんは言っているのです。

三つ目の

「はなはだ情感的な心」

というのが、私は長い間、何をさしてそう言っているのかわかりませんでした。

以前、石川県に旅行して、加賀の千代さんという方の菩提寺のお墓にお参りしました。

千代さんは江戸に奉公に出て、そこの主人に俳句を教えられてとても素晴しい俳句を詠まれた方で、また大変な念仏の信者であり、昔の典型的な日本女性であります。

その千代さんの詠んだ句に

「朝顔に つるべとられて もらい水」

という句があります。

ある日、千代さんが朝起きて水をくみに桶を持って井戸へ行ったら、昨日まで何もなかった井戸のつるべに朝顔のつるが巻いて先にきれいな花が咲いていたんです。

「ああ、きれいな花が咲いたわね」

と、隣のうちに桶を持って行って、

「すみませんが、ちょっと井戸を貸して下さい」と。

隣の奥さんも、

「どうぞ、どうぞ」

とあたたかく勧める。

お隣さんからお水を貰って帰ってきて、我が家の井戸の朝顔の花を改めて見て、

「あぁ、きれいに咲いたわね、よく咲いたわね」

と、そのような情感的な中から千代さんの頭の中に、

「朝顔に つるべとられて もらい水」

という名句が生まれてきたのです。

私は、千代さんにお墓にお参りしてこの句を詠んだときに

「あぁ、ラフカディオ・ハーンさんのはなはだ情感的というのはこのことなのか」

と気付かされました。

今日はお集まりのみなさん、お寺に参ってみ仏さまを拝んで

「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」

と称える生活の中で、我が子を育てようではありませんか。

そして、我が家のお仏壇で朝夕み仏さまに手を合わせて

「有り難うございます」

「もったいのうございます」

「申し訳ございません」

の心を子や孫にお伝えください。

念仏ほど人生の活力になり、エネルギーになる宝物は世界のどこを探してもないからです。

「“院号”をつけると“位”があがるのですか」

「院号」

は、仏法を弘める上で宗門の護持発展に大きな功績を残された人を讃える意味で本願寺から贈られるもので法名の上につけられます。

特にご門徒の場合は、財政的な形で、仏法を弘めるための教団の維持にご尽力いただいたという意味合いから、ご本山に一定額以上を納められた方に贈られるようになったものです。

さらに付け加えるならば故人の念仏繁昌(念仏の声が世界に子や孫へと伝わるように)への思い、そして宗門の発展を願って納められたご懇志の気持ちに対して贈られるものが

「院号」

であります。

しかしながら、

「文字数が多いほどありがたい」、

「文字数が多いほどあの世での位が上がるのではなかろうか」、

あるいは

「個人の社会的地位に見合うように」

等々、様々な思いで院号を求めている現実があります。

そして

「これだけの金額で院号を買った」

というような使われ方もされています。

先にも申し上げておりますように念仏繁昌そして宗門の発展を願う気持ちを大切にしながらご懇志をお納めいただき、そのことをご縁としてご遺族の方がお念仏のみ教えを慶ぶ身とさせて頂くことが肝要であります。

この心を失ってしまうと

「院号はお金で買うもの」

というような感覚に陥ってしまうのです。

「院号」

は、お金で買うものではないということ、そして“院号”をつけると“位”が上がるということではないということをご理解いただきたいと思うことです。

ダイエット・・・

ダイエット・・・

「この言葉を耳にしない日はないのでは!?っ」

と、思います。

何を隠そう私もダイエット中です。

なぜ、痩せたいのだろう・・

「美しくなりたいから??っ」

と、自問自答しています。

一口にダイエットといっても色々な形がありますよね。。

大半は

「食べ物を我慢して、食事の量を減らす」

というパターンみたいです。

「食事の3分の1を残しましょう!!」

なんてダイエットの鉄則まであったりして・・・

今、目の前にある食べ物を我慢するのは

「とてもしのびない!?!?!?」

ものです。

最近、旅行をする機会がありカンボジアへ行きました。

初めての海外旅行です。

テレビでよくみる黄茶色の土、すさまじいバイクの数、子供たちは裸足で走り回っていました。

私も完全に浮かれて、心はウキウキ★ワクワク☆

見るもの全てが輝いていました。

観光地へ見学へ行った時です。

バスから降りた瞬間、子供たちに囲まれ

¨オネエサン、1ドル¨¨1ドル¨1ドル¨オネエサン¨1ドル¨1ドル¨1ドル¨1ドル¨・・・・

私は一瞬パニックになり、その場から走り出してしまいました。

物ごいをする子供たちです。

お腹が空いているのでしょう。。

または家族の生活の為。。。

観光客に必死で訴えています。

日本に物ごいをする子供がいますか?

もしいたら、きっと社会問題になりますよね・・・

私は日本ではない、¨世界¨を感じました。

必死でお金や食べ物を欲しがる子供を見ていたら、正直、

「可哀想だなっ」

と思ってしまいました。

けれど、私にはあのキレイな瞳の子供たちを満足させる事は出来ません。

「少しでも・・・っ」

と、小銭を募金箱に入れることくらいでした。

日本に帰国し、いつもの生活に戻りました。

日々の生活に追われながらも、自分で選択し、自分のペースで生活しています。

もちろん食べ物にも困らず・・・

自分である程度選択出来る今の環境の中で、ダイエットの為に食事を残したり、食べ

物を粗末に扱うのは、人間として決してゆるされない事だと思います。

(当たり前の話なんですが・・・)

その当たり前の事が出来ない!! 

ん!? 出来ますよね!!

食事を最後まで楽しく食べれば良いんですものね・・!!

カロリーは気にしつつ、今日も美味しく残さずいただきます^^^

『四苦八苦』

 仏教の人間観では

「人生は苦である」

と受け止める見方が基本的な姿勢としてあります。

仏教の根本思想である四つの旗印(「四法印」)の一つが

「一切皆苦(すべてのものは苦である)」

ということによってもそれは理解できます。

この

「苦」

は、サンスクリット語では

「ドゥッカ」

といい、さまざまな経典に種々の概念をもって分類されています。

例えば、

二苦

(内苦=自己の心身より起こる苦、

外苦=外的作用により起こる苦)、

三苦

(苦苦=不快なものから感じる苦、

壊苦=好きなものが壊れることから感じる苦、

行苦=ものごとが移り変わることを見て感じる苦)

などがあります。

この

「四苦八苦」

もその概念による苦の分類によるものです。

仏伝によれば、お釈迦さまは

「生・老・病・死」

する人の在り方に深く悩まれ、この

「生老病死」

を四苦として大きく問題とされ、その解決のために29歳の時に出家されたと伝えられています。

さらにこの四苦に

「愛別離苦

(あいべつりく/愛する者と別れる苦しみ)」

「怨憎会苦

(おんぞうえく/憎んでいる人と会わなければならない苦しみ)」

「求不得苦

(ぐふとっく/求めたものが得られない苦しみ)」

「五蘊盛苦

(ごうんじょうく/すべての苦しみ)」

の四苦を加えたものを

「八苦」

といいます。

つまり前の四苦は、人間の生き物として起こる苦しみであり、後の四苦は、人間が人間であるために味わう苦しみを述べたものと言えます。

このよう四苦八苦には、すべての苦しみが凝縮されています。

この

「苦」

とは、ひとことで言うと

「私の思い通りにはならない」

ということですが、まさに

「苦」

に満ちているこの人生において、

「苦」

の根源に深く思いを寄せていくときに、私たちはかけがえのないこの世の生き方を見出すことができるのではないでしょうか。

『迷うことも 悩むことも 生きている証』

 お釈迦さまの多くのお弟子方の中で、特に優れたお弟子として知られているのが舎利弗(しゃりほつ)と言われる方です。

よくご法事で読まれる『阿弥陀経』では、この舎利弗にお釈迦さまが繰り返し

「舎利弗よ、舎利弗よ」

と語りかけながら法を説いておられます。

この舎利弗がお釈迦さまの弟子になった時の模様について、大変興味深いことが伝えられています。

舎利弗は始め親友の目蓮と共にサンジャヤという人に学んでいたのですが、すぐにその説くところを理解し尽くしてしまいました。

やがて、お釈迦さまのお弟子と出会い、その教えの素晴しさにふれて、目蓮とサンジャヤの他の弟子二百五十人と共に弟子入りをしました。

初めて説法を聞いたとき、二人のあとからついて来た二百五十人の弟子たちは、お釈迦さまの説法に聞きほれて、ただちに聖者の最高の境地である阿羅漢(あらかん)の位にまで到達しました。

聖者の境地、さとりには四つの段階が説かれています。

第一は予流果(よるか)で、はじめてさとりに向かう流れに乗り、聖者の位に加わった位です。

次は、一生、迷いの生涯を送れば聖者になれる一来果。

その次は、もう二度と迷いの生死に還ることなくさとれる不還果(ふげんか)。

そして最後は、苦悩からの完全な解脱を成就した聖者の最高位、阿羅漢果です。

ところが、肝心の舎利弗は最低の予流果の境地にとどまって、すぐには阿羅漢に至ることができなかったのです。

舎利弗が、他の弟子たちと同じように阿羅漢果に達することが出来たのは、僧団に入って実に十四日目であったと伝えられています。

舎利弗は、後に智慧第一の人と尊ばれた方ですが、その舎利弗が阿羅漢の位に達するのが一番遅かったというのは、まことに興味深いことです。

ところで、なぜそのように時間がかかったのでしょうか。

それは、おそらく舎利弗がいろいろな疑問を持ったからだと思われます。

他のお弟子方には少しも疑問にならないことにも、ひとつひとつぶつかり、思いまどい、問い詰めてゆかれたのです。

真理は、それを問う、問いの深さに応じてあらわになってくると言われます。

聞いてすぐに納得する素直さも、それはそれで尊いことですが、そういう人たちばかりの時には、仏法は聞いてすぐに分かる人たちだけにしか伝わらなくなってしまいます。

けれども、なかなか納得せず、どこまでも問い続け、ひたすら考え、そのようにして初めてうなずけた人は、それだけに頷けた教えをどんな人にも伝えることのできる言葉を身につけることができます。

現代は、いかに早く答えを出すかということで学力を評価しています。

いつまでもぐずぐず問い続け、考えるような者は、頭の悪いヤツとして切り捨てさえします。

その結果、人間はいよいよ考える力を失ってロボット化していくことに陥って行くようです。

しかし、問いが人間を育て、道をひろく明らかにしていくのです。

一般に、人は楽しみの中では我を忘れ、その境遇に耽溺して、人生を問い返すことなどしないものです。

一方、苦しんだり悩んだりすることにおいて、なぜこんな苦しみを受けなればならないのか、こんな苦しい生活に何の意味があるのかともがきます。

けれども、それがより深い人生を求めさせる糸口となってゆくのです。

まさに、迷うから、悩むからこそ、私たちの人生は深まっていくのです。

そのことの大切さを、舎利弗のエピソードが証してくれているように窺えます。

「親鸞聖人の他力思想」5月(中期)

面白いことに、他力本願とか阿弥陀仏の救いは、

「何もしなくていい」

「何もしなくてもあなたを救う」

という教えです。

これを

『無条件の救い』

とも呼びますが、私たちには何もいらないと言われているのです。

「何もいらない」

と言われるのですから、何かをする必要はないのです。

極端な言い方をすると、遊んでいても救ってもらえるということです。

 けれども

「何しなくても救う」

と言われて、そのまま遊ぶことの出来る人は、元気で幸せな人であって、遊んでいても何も苦労のない人だといえます。

 ところが、そのような人がある日、自分は必ず死に至るというような重い病気に罹るといった、とんでもない不幸な状態に陥ったとします。

そうしますと、

「無条件で救ってもらえるのですね。

ともて素晴らしいことです」

というような心はどこかに吹き飛んでしまいます。

そして、必死になって神さまとか仏さまに助けを求め、

「救ってください」

と祈ることになります。

 無条件の救いを聞いているのであれば、このいちばん悲惨に時にこそ、

「ああ既に、自分は救われている」

と喜んでいればいいはずなのです。

しかしながら、そのような心は絶対に起りません。

なぜなら、自分の今までの楽しみが消え去って、苦悩のどん底に落ち込んでしまうからです。

苦悩のどん底に落ち込んだ者は、平気で楽しく遊んでいることなど出来ません。

そのときこそ、必死になって、あらゆる手段を使って、まさに死にもの狂いになって何かにすがりつこうとするのです。

これが、楽しく遊んでいる人の姿です。

 この人にとっては、ただ空しくしがみついて、やがて死んでしまうしかないのです。

けれどもその時に

「何もいらない。

あなたを救っている」

という教えに既に出遇っている人には、そのような祈りは不要です。

 阿弥陀仏の本願力、他力とは、信じる者を救うという教えです。

そうであれば、信じなければ救われないということになります。

 そこで、阿弥陀仏を信じるとは、どのようなことなのかということが問題になります。

そうなりますと、実は浄土真宗の教えは、何もしなくてもよいという教えではありえなくなります。

私たちの本質は愚かな凡夫であって、自力であれこれはからうしか能がありません。

そのような自力で迷いに満ちた心しか持ち合わせていない者が、どれほど必死になって阿弥陀仏を拝んだところで、さらに迷いを重ねるばかりです。

したがって、そのような者が、そのまま救われることはありません。

だからこそ、なぜ自分は阿弥陀仏に手を合わせているのか、なぜ念仏なのか、なぜ浄土なのか、このような問いを先に真剣に持たなければ、自分にとっての宗教的行為は、結局、何の意味も持ち得ないことになります。

自分の行為が自力とか他力とか、祈る必要があるのかないのか、そのような人間のはからいの心は、とりあえず全部捨ててしまえばよいのです。

所詮、私たちは迷い満ちた心しか持ち合わせていないからです。

そうであれば、そのような心のままでよいのだといえます。