投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

『泥沼の どろに染まらぬ 蓮の花』

「阿弥陀経」

という

「経典」

には、

「阿弥陀如来の浄土の池の中に咲く蓮華は、車の輪のように大きく、

青色の蓮華には青い光、

黄色の蓮華には黄色い光、

赤色の蓮華には赤い光、

白色の蓮華には白い光があり、

それぞれ清らかな香りを放っている」

と説かれています。

仏教において蓮の花が重視されるのは、蓮という植物がきたない泥の中に根を置き、しかもきたない泥水の中を通って生長し、やがて水面に出て咲く花が、まったく汚れなく美しいからです。

 それはちょうど、お釈迦さまが四苦八苦で象徴される、この世のあらゆる汚れの苦しみの中で、さとりという清らかな花を咲かせたという事実に適合すると考えられたことにもよります。

 また、さまざまな色の蓮の中でも、特に尊重されているのが白蓮華です。

白という色は、あらゆる色の原点であって、どんな色にも変わり得るもとの色であることに基づいて、そのように受けとめられているのだと思われます。

 ところで、仏教は

「もろもろの悪いことをするな、もろもろの善いことをせよ。

そして、自らその心を浄らかにせよ」

ということを教えています。

まさにそのことを成し得た者が

「仏と成る」

ことが出来ると説く訳ですが、いざそのことと真剣に向き合い実践を試みると、そこに明らかになるのは、清らかな心を欠片さえも持ちあわせていない自身の身の事実です。

 それは、朝早く蓮池の中の一輪の蓮がパッと咲いた姿を眺めた時に、私自身の心の汚れに気づき、いくら頑張ってみても、自分はとうていこんな汚れなき蓮華になれそうもない、ということに思いが至る在り方と重なります。

 けれども、そのときこそ、

「念仏せよ! あなたを救う」

とよびかけて下さる、阿弥陀如来の教えに全てをまかせきる信心が生まれ、さらにその信心の生活を続ける中から、それまでは自分の力で生きているんだと考えていたものが、

「生かさせてもらっている」

という生き方に変わっていくのだといえます。

 迷いに満ちたこの世界を、尊いみ教えに導かれながら生き抜き、やがて美しいさとりを開かせるという生き方を、泥の中から見事な花を咲かせる蓮の花に重ねて学びたいものです。

「親鸞聖人にみる十念と一念」6月(前期)

 親鸞聖人の思想の中心は、念仏と信心にあります。

それは、念仏と信心を論じれば、親鸞聖人の浄土往生の道はほぼ語れるのですが、もし念仏と信心の思想を論じなければ、親鸞聖人における仏道は何も明らかにならないからです。

この往因思想において、親鸞聖人がことに重視されたのが

『無量寿経』

の十念と一念です。

この語は

『無量寿経』

の中では、本願の第十八願文、本願成就文、下輩段、それに弥勒付属の文に出てきます。

ただしこの中、下輩段の十念と一念には親鸞聖人は関心を示されません。

そこでここでは、本願文の十念、成就文の一念、それに弥勒付属の文の一念についての親鸞聖人の思想を問題にしていくことにします。

 いうまでもなく、この十念と一念は、

『無量寿経』

においても、特に重要な思想です。

『無量寿経』

の中心は阿弥陀仏の本願にあり、なかでも阿弥陀仏が一切の衆生をわが浄土に往生せしめようと誓う、往因思想にありますが、その本願こそ、王本願と呼ばれる第十八願であり、そこに誓われている衆生の往因が

「十念」

だからです。

しかもこの本願の成就が、釈尊によって明かされる本願成就の文において、衆生はその

「一念」

の発起によって往生すると説かれます。

そしてさらに、この経の結びにおいて、この経典の中心思想が、釈尊から弥勒菩薩に付属されますが、その付属された教法こそ

「一念」

にほかなりません。

このように第十八願の十念、成就文と付属の文の一念は、

『無量寿経』

において衆生往因の根本思想となっています。

それであれば、この三カ所にみられる十念と一念は、当然のこととして、すべて同一思想でなければなりません。

なぜなら、阿弥陀仏が本願に誓っている

「十念」

によって、衆生は往生します。

ところで釈尊は、この本願の十念の意を受けて、衆生に

「一念」

を発起すれば往生すると説かれます。

そしてこの

「一念」

を弥勒に付属しておられるからです。

この場合、数字の十と一の相違は、それほど大きな問題にはなりません。

本願に

「乃至十念」

と、少なくとも十念を相続せよと誓われてはいますが、釈尊によって、最少一念でもよいとされているからで、要はその

「念」

とは何かが問題となります。

『無量寿経』

においては、この念の言語は梵語のcitta で、三カ所とも阿弥陀仏の名号を聞いて、弥陀の浄土に生まれたいとの願いを発起する心の意です。

漢訳経典では、この

「念」

の意味が非常に不明瞭で、古来この解釈をめぐって、種々の論議をよんできましたが、善導大師によってこの念が

「称名」

と解釈され、ここに一つの結論を得ました。

法然聖人はこの善導大師の意を受けておられます。

したがって、十念と一念は、

『無量寿経』

ではすべて

「願生心」

であり、善導・法然浄土教では

「称名」

の意で統一されていますので、ここには何ら問題は生じていません。

ところが、親鸞聖人はそうではありません。

第十八願の十念を十声の

「称名」

と解されながら、成就文の一念を

「願生心」

の意で、信心が決定する瞬間と解され、しかも付属の一念については、また一声の

「称名」

と解釈しておられます。

法然聖人の教えを受けながら、なぜ親鸞聖人においてこのような思想が成り立ったのでしょうか。

はたして、親鸞聖人の思想は、

『無量寿経』

や善導大師・法然聖人の教えに矛盾していないといえるでしょうか。

「阿弥陀さまと私」(上旬) この世の全ては

======ご講師紹介======

駒沢勝さん(こまざわ小児科医院院長)

☆ 演題 「阿弥陀さまと私」

6月のご講師は、こまざわ小児科医院院長の駒沢勝さんです。

 

昭和十七年広島県三次市生まれ。

岡山大学医学部卒業後、国立岡山病院小児科に勤務。

昭和四十八年から一年間、科学技術庁長期在外研究員としてニューヨーク州立大学アップステイトメディカルセンタ−小児科に留学。

昭和五十八年には、国立岡山病院小児医療センタ−第一小児科医長になられ、平成三年に

「こまざわ小児科医院」

を開設されました。

著書に『健康の子どもも日本一』などがあります。

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 私と阿弥陀さまとの関係は、海と波にたとえることができます。

海の表面には、いろいろな波があります。

大きな波もあれば、小さな波もあります。

荒々しい波もあれば、細かい波もあります。

さまざまにできたり、動いたり、止まったり、消えたりしています。

波がいろいろなことをしているその奥には、大きな海の動きがあります。

この海の奥の動きが、表面に波となって出てきているのです。

この波と海は、決して別々ではなく一体です。

波=海であり、海=波です。

そして、この例えでは、小さな波が私で、別の小さな波があなたで、大きい波が牛で、もっと大きいのが象で、もっと小さいのが犬でという具合ですが、このような様々な波が動くその奥に怒濤のごとく動く海の動きがあるように、この世の中のいろんなことが動くその奥で浄土の動き、阿弥陀さまのはたらきがあるのです。

この例えでは、海が涅槃(ねはん)、法性法身(ほっしょうほっしん)にあたります。

そして、海の動きが浄土なのです。

また、その海の動きの主が阿弥陀仏なのです。

波が出来るのも、動くのも消えるのも、みんな海の動きの表れであるように、この世の全ての動きというのは阿弥陀仏が動かす浄土の動きの表れなのです。

私の動き、私の存在の奥には、阿弥陀仏のはたらきがあります。

それは、地震という大きな波となって現れたり、火山という大きな波となって現れたり、台風のような荒々しいものとして現れたりいたします。

これらは全て波で、海の動きの表れであり、海の動きを浄土といい、その主を阿弥陀仏というのです。

地球がここにあるのも、自転公転をしているのも、太陽がずっと存在しているのも、北極星がずっと動かないのも、全て阿弥陀仏の操りの中にあるのです。

この世の一切のものが、浄土のはたらきの表れです。

私と阿弥陀仏というのは、決して別々ではないのです。

しかし、たいていの人は自分と阿弥陀さまとの関係を知らずに生きています。

むしろ自分は、自主独立の一つのまとまった生命体であると思っております。

自分で考え、自分をコントロールしていると思っています。

しかも無意識の中で、そう思っています。

けれども、これは事実に反しているのです。

海の動きの表れである波のようなものなのに、自分で動いていると思っているのです。

真実を知らないのです。

これを明かりがない、無明というのです。

無明とは、この根本的な真理を知らないことをいうのです。

『宗教』

「宗教」

という言葉は、英語の

「religion」

の日本語訳であり、仏教の用語とは無関係であると了解されているようですが、本来は仏教の用語に基づいて作られた言葉です。

「宗」

とか

「教」

という言葉は、古くから中国仏教において使われました。

仏教経典に対する解釈の中心問題を、

名(経典の名称)・

体(経典の構成内容)・

宗(教説の真髄)・

用(経典の効用)・

教(教説の指示)

の五項目に要約し、その中の宗と教とを熟して宗教という言葉を造ったものと推定されます。

その用語例は必ずしも一定ではなく、

「宗の宗」

「宗すなわち教」

「宗と教」

などさまざまですが、後に

「宗の教」

という意味に定まり、宗は教によって指示されるべき真髄(要点)のこと、教は宗を表示する文字や文句のことと解釈され、仏教の要点を表示する言葉という意味に至っています。

その場合、宗教といえば必ず仏教のことで、仏教の真髄(宗)を説く法(教)という意味が、宗教という言葉の内容でした。

この宗教がなぜ

「religion」

「religion」

という英語の和訳語となったのでしょうか。

この言葉はその語義解釈によれば、キリスト教では

「神と人間との再結合」

と説かれています。

それは、エデンの園において神との約束を破った人間は、神に背いたという原罪を持って生まれていますが、神にその罪を懺悔することによって、再び神と結びつき救済されるという意味です。

「宗教とは人間と神(聖なるもの)との出会いである」

と説明されるのも、この語義解釈による理解を表したものです。

このような意味では、創造者としての神の存在を認めていない、いわゆる

「神を持たない宗教」

としての仏教は、

「religion」

ではないことになります。

ところが、この

「religion」

については、キリスト教以前では

「再び観察すること」

と語義解釈されています。

そうであれば、宗教とは自らの人生を立ち止まってもう一度見直すことという意味になり、それは正しく仏教ということになります。

『迷うことも 悩むことも 生きている証』

 私たちは、仕事でも恋愛でも健康でもお金でも人間関係でも、できればすべてを思い通りにしたいと思っています。

しかし、現実は…といえば、なかなかそうはなりません。

そこに人間の悩みや迷いも生まれてくるのでしょう。

とすれば、人間の悩みや迷いの原因は外側にあるのではなく、すべてを思い通りにしたいという私の中にあると言えます。

 親鸞さまは、私たちの人間の姿を

「行に迷(まど)い信に迷い、心昏(くら)く、識(さとり)寡(すくな)く、悪重く障り多きもの」

と表現されました。

 

「こうだ、と思ってやってみてもなかなかうまくいかない。

そうすると、自分の考えがいけないのだろうか、ダメなのだろうかと迷う。

よかれと思ってやったことが、人に思わぬ迷惑をかけたり悪い結果を生んだりする。

そうすると、自分の思ったこと、やったことについて絶えず迷うしかない。

そして、ちょっとものごとが上手くいくと、うぬぼれたり有頂天になったりする。

反対にちょっと思うようにならないと行き詰まって心が暗くなり落ち込んでしまう。

それが私たちの姿だ」

ということでしょうか。

「う〜ん、その通り!」

と、頷くほかありませんね。

まさに、悩むことは人間であることの、そして生きていることの証といえましょう。

 

「正信偈」

の中に

「仏・菩薩方は、私たちの見よいの世界に入って、林の木のようにたくさんある煩いや悩みの中に遊び、すぐれた能力をあらわして苦悩に応じて教化を示す」

という一節があります。

阿弥陀さまは、悩みや迷いのただ中にある私たちに寄り添い、私たちが大切なことに気付くよう、つねに働きかけていて下さいます。

迷いや悩みから逃げたり、避けようとしたりするのではなく、それを受け止める時に、私たちは大切なことに気付いていくのです。

また、自らを省みることができるのです。

 悩むこと、迷うこと、それは真理(教え)に出会う扉であり、私たちが深く豊かに人生を生きていくエネルギ−なのです。

「親鸞聖人の他力思想」5月(後期)

「私たちがこの世に住んでいる限り、最終的にはどうしようもない姿になってしまいます。

この事実は、動かすことのできない真理です。

そして、そのどうしようもない者に、もし

「救い」

があるとすれば、それはやはり無条件で阿弥陀仏の本願力がこの者にはたらかなければなりません。

 そして、この者がその大きな力に摂取されない限り救いはありません。

だからこそ、その教えを私たちは今、必死に求める必要があるのだといえます。

 現代の人びとは、宗教に対する関心が希薄です。

ましてや仏教、そして浄土真宗の教えにほとんど関心を寄せてはいません。

その関心を持っていない人に対して

「何もしなくても救います」

と説いても

「ああ、そうなんですか」

で終わってしまうと思われます。

それ故、その無関心な人が臨終に阿弥陀仏に救われることは絶対にあり得ないのです。

 だとすれば、やはりなぜ宗教に関心を持たないことが間違っているのか、なぜ仏教でなければならないのか、その中でなぜ浄土真宗なのか、ということを本当の意味で問い続け、求め続けなくてはなりません。

この求めがなければ、浄土真宗は宗教でなくなると思います。

 そういうことからしますと、私たちの教えは、一心の祈りによる救いでないことは明白です。

けれども

「そのような祈りは無意味だ」

といっても救われません。

祈っても救われない、その祈る心が破れて初めてこの私を摂取する阿弥陀仏の本願に出遇うのです。

ですから、その前に、祈らざるを得ない心になっている自分がいる必要があります。

そして、その必死の祈りの中に救いがないのだということに気付くことによって、初めて祈ることを必要としない宗教に出遇うことになるのです。

 そのような意味で、浄土真宗は非常に難しい宗教だといわねばなりません。

祈りを必要としないからです。

だからこそ、その意味を一生懸命に聞き続け、本願を求め、念仏の真実を聞く。

その求めそのものをなくさないことが、浄土真宗においていちばん大切なことになります。

そして、その求めの中で、初めて積極的にその教えを他に伝える努力が生まれると思います。

ですから、聞くという努力と同時に、他に伝えるという努力もしなければならないのです。

その全体が他力の思想だとしますと、他力本願は非常に積極的で力強く、世に生きる力を示す教えだということになります。

それを、自分とは関係なしに

「ああ、救ってもらえるのだ」

というふうに考えてしまいますと、結局、無気力・無関心・無感動な浄土真宗の信者の姿になってしまうのではないでしょうか。

そういった意味で、親鸞聖人の他力思想を、もう一度考えていくことが大切だといえます。