投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

「日本人の心とお念仏」(上旬)心を忘れている

======ご講師紹介======

松林宗恵さん(映画監督)

☆演題「日本人の心とお念仏」

(ハ−トフル大学は、1年に10回開催されます。そのため、5月と6月は過去のバックナンバ−から掲載いたします。)

映画監督、松林宗恵先生のご講話です。

松林さんは、大正九年島根県生まれ。

昭和十四年日本大学芸術学部へ入学。

翌十五年には本願寺派の僧籍を取得されましたが、

「仏法伝道の精神を映画にも」

との思いから、在学中に東宝撮影所演出部へ入社。

戦争、捕虜生活を経験された後、二十七年映画

「東京のえくぼ」

で監督デビュ−。

その後、

「人間魚雷回天」

が高く評価され、東宝のドル箱監督の一人としてご活躍。

一方、学徒兵の経験と死生観に裏打ちされた“回天”路線ともよばれる海戦スペクタクル

「連合艦隊」

等を手がけられました。

==================

 今の日本人は何ものでしょうか。

心を忘れている。

私たちのじいちゃんやばあちゃんが、そのまたじいちゃんやばあちゃんが、孫子の代よ幸せであってくれと、みんな一生懸命磨いて磨いてくださった日本人の心というものがあるにもかかわらず、その心がふにゃふにゃになってしまって、このごろ国籍不明の日本人が都にはいっぱいいるではないですか。

世界中で、こんなに恵まれた豊かな国はない。

豊かこの上ない日本になりながら、大事なものをみんな失ってしまった。

「有り難い」

「もったいない」

「申し訳ない」。

私たちのご先祖方、時に日本の女性は、この三つの言葉をもって家を守り、子どもを育て、社会人としてこの国の歴史を作って下さったのです。

私たちはそういういいご先祖の流れを持たせてもらっておりながら、戦後この数十年の間に

「有り難い」

「もったいない」

「申し訳ない」

の心はどこかへ行き、あるのは

「当たり前」。

うまいものを食べるのは当たり前、いい着物を着るのは当たり前、外国旅行をするのは当たり前。

不足、不足、不足。

「あれが気に入らん」

「これが気に入らん」

となってしまったのが、今の日本ではないかと思うのです。

かつて島国根性の中には己を美化したところが多少あり、それはある意味では欠点でありますが、逆に島国根性のころの日本人が持っていた美学と美徳を、戦後日本人はいつの間にか失ってしまった。

そこで、その心を今一度見つけるために、外国人が日本を見て、日本人の心を讃えた話をご紹介したいと思うのですが、一人は世界的な物理学者のアインシュタイン博士です。

博士が大正十二年に日本から招かれて来日し、京都、奈良の神社・仏閣・庭園等日本のあらゆる所をご覧になった後に、博士は

「私はどうしても日本で仏教のことを学びたいので、仏教の学者を紹介してもらえないだろうか」

と言われたそうです。

そこで、当時文部省の役人をされていた三原是信さんという方が、東京の有名な仏教学者・近角常観先生を紹介されました。

近角先生がアインシュタイン博士に仏教についてお話されている様子を三原さんが見ておられた。

私はそれを三原さんの息子さんから直接聞きました。

博士は、近角先生から仏教のことをいろいろ聞いても、何か納得していない。

そのうち近角先生は

『うば捨て山』

の話をされました。

これは日本が貧しかったころ、信州の山奥の農家で子どもが生まれると、その子どもを育てるためにお年寄りが生きておってもらっては困るから山に捨てに行く話です。

『逝去』

葬儀における弔辞や弔電で

「ご逝去を悼み謹んでお悔やみ申し上げます」

(浄土真宗では、「ご冥福をお祈りします」とか

「天国で安らかにお眠り下さい」とはいいません)

と、人の死を悼む尊敬語として使われています。

人の死をどのように考えるかについては、死生観や宗教の違いによってさまざまです。

死はすべての人に例外なく訪れる事柄ですが、経験して実証することのできない事柄でもあるため、死についてのとらえかたは、死後の世界を幻想する神秘主義に陥るか、そうでなければ

「死んでからのことは、死んでみないとわからない」

という実証主義に陥って思考停止するかのどちらかになります。

一時、

「臨死体験」

が流行語のようになったことがありました。

されは、美しく安らかな死後を連想されるものとして、人々に死後についての不安を取り除く役割を果たすかのように見えましたが、所詮は死そのものではなく、神秘主義からも実証主義からも見放され、一過性のものとして終わったようです。

死に対して、何らかの意味を持たせたいのが人間のはからいのなせるわざですが、それは

「死を再生への出発点である」

とか、

「何らかの役に立つ死でありたい」

とかさまざまです。

これに対して仏教では、死とは

「逝去」

です。

逝去のことを

「入滅」

とも

「涅槃」

ともいいます。

無量無数の因縁によって、ただ今の瞬間の命が生かされているという縁起の事実への目覚めを基本とする仏教では、ただ今の私を私たらしめていたすべての因縁が、過ぎ去って(逝去して)寂滅したのが死なのです。

入滅(滅に入る)とは、私を私たらしめていたすべての因縁が滅したということです。

また涅槃とは消滅という意味であり、因縁によって生死の世界に生きた命が寂滅したことを指す言葉です。

仏教では、死とは岸辺に打ち上げられた波が深くて広く果てしない大海に帰っていくように、静かな本来の世界に帰っていくことです。

涅槃である死は寂静であり、それは意味付けを必要としない世界です。

この縁起の事実への目覚めにおいて、神秘主義も実証主義も超えた

「逝去」

という死後の在り方が、自然なありのままの世界である浄土として明らかになるのです。

『いい人 悪い人 みなわたしの都合』

いよいよ来月より裁判員制度がスタートします。

このコーナーをご覧の方の中にも、候補者名簿記載のお知らせが届いた方もいらっしゃるかもしれません。

 アンケートによると、国民の大多数ができれば参加したくないという思いのようですが、その理由としてあげられているのは、人を裁くという難しい仕事を法律の素人ができないのでは…、ということのようです。

 きっと多くの人が、法律に詳しくない自分自身に正しい判断ができるのか、不安と戸惑いを感じているのでしょう。

 でも、そのことは日ごろの生活も同様かもしれません。

わたしたちは、自分の意見に快く同調してくれる人をいい人と思い、逆にそうでない人を悪い人と判断しがちです。

 また、周囲の多くの人が“いいこと”と判断すれば、よく考えることもなく自らも同調し、逆に“悪いこと”と判断すればそちらに流されやすいものです。

 先ほどの不安と戸惑いは、つい自分の都合や置かれた環境によって、人や物事を判断してしまう人間の心の不安定と不正確によるものかもしれません。

 仏教は、そのようなわたしたちに真実の教えを聞くことの大切さを説きます。

真実の教えに出遇うと、いつも自分の都合によっていい人、悪い人と判断をしていた迷いの中にあるわたしに気づかされるからです。

常に自らを良しとし、他を悪しとする、自己中心の心に縛られたわたしに気づかされるからです。

 そのことに気づくのと気づかないのとでは、それ以降の生き方が大きく変わってきます。

 私の日暮らしが、

「人間みんな裁判官 他人は有罪 自分は無罪」

なんてことにならないように心がけたいものです。

「親鸞聖人の他力思想」4月(後期)

では、その必死の祈りの中は、はたして救いがあるのでしょうか。

今いちばん悲惨な状態に置かれている訳で、

「この私を救ってください」

という願いが、自分のさいごの叫びです。

そのとき、そこに救いがあるのかということが、今の問題です。

 このような状態のとき、人は

「神も仏もない」

と叫びます。

自分にとってどうしようもない最悪の状態が、神も仏もないということです。

けれども、その

「神も仏もない」

と叫んでいる人が、今いちばんほしいのは、実は神さまとか仏さまの力であって、今こそ救ってほしいと願っているのです。

しかしながら、

「神も仏もない」

と叫んでいる人に救いはありません。

ですから、どれほど必死に祈ったとしても、究極的には惨めな終わりを迎えるしかないのです。

これが、人間の最後の姿になります。

 そこで、この者にとって、はたして救いはあるのか、ということが問われることになります。

例えば、山に登るということを考えますと、どのような高い山であっても、相応の努力をすれば頂上にたどり着くことは可能です。

それは山そのものが動かないからで、踏みしめる足場が動かなければ踏みしめて上に登ることができます。

 私たちが

「生きる」

ことができるのは、明日に命があるからです。

今日の命が動かなければ、その今日を足場にして、努力を重ね、明日に向かって生きることができます。

したがって、今日よりも明日、さらに次の日と、良くなろう、幸福になろうとする願いそのものが、人間の生きる姿になるのです。

したがって、人間として生きるためには、努力する以外に道はないといえるのです。

ところが、山に登っている最中に、突然自分だけしぐれて、足を踏み外し、底のない沼の中に落ちたとします。

このとき、努力が可能になるでしょうか。

山に登るときは、努力をすると上に行くことができます。

ところが、底のない沼に落ちたら努力をしても沈むのです。

上に浮くのではなく、むしろもがくばかりでよけいに沈み込んでしまうのです。

これが人生における死の姿です。

臨終を迎えている者には、生きるための努力は不可能です。

努力をしても悪くなるばかりで、最終的には最悪になり、終わりを迎えます。

このような場では、いかに必死にもがいても、どうすることもできません。

これが臨終と向き合っている自分の姿だといえます。

「生きづらい時代を豊かに生きる」(下旬)昔の人に学び直す必要がある

 今の30代くらいの人たちはそれをするような場がありません。

会社では、シーンと仕事をして、仕事が終わっても飲みに行くという関係がない。

家に帰っても、家族はそれぞれテレビを見たり、インターネットをしていたりして、コミュニケーションの場がありません。

そういう意味で、今の若い人は大変弱ってしまう状況に陥っています。

私たちの目から見ると、そういう世代の人たちはいろんな機械を使いこなして、新しいこともたくさん知っていて、とても賢い新しい世代の人に見えます。

とかく今の時代、インターネットやメール、あるいは電車に乗る時の自動改札と、いろいろ新しい機械、設備が出てきて、昔と比べてものすごく様変わりしています。

そして、それを使いこなせないと、時代遅れで古い人間だというような雰囲気があります。

私はそれがすごくおかしなことだと思います。

説明もなく、知らないうちに新しいやり方というのが出てきたら戸惑いますよね。

でも、それでもたつくと、若い人たちに舌打ちされたり、高飛車な態度をとられたりします。

新しいものがどんどん作られて便利になるにしても、今までのやり方が使えなくなって、新しいやり方を無理やりやらなければならないというのは、実は人間にとってものすごいストレスなんです。

でも、それを使いこなせなかったり、すぐにわからなくても、恥ずかしがったり引け目を感じたり、情けないと思う必要は全然ないと思います。

周りが勝手に変えたんだから、私たちにわかるように説明してほしい、と言う権利はあるはずですよね。

本来なら、古いことや昔のことを知っているという方が尊重されてもいいはずなのに、実際は昔のことを知っていることは偉いことでも何でもなくて、むしろ新しいことを知らない方がだめだ。

新しいことを知っている方が偉いというような雰囲気が、今の私たちの社会にはあります。

これは、本当におかしいことだと思います。

新しくなるというのは、便利なことのような気がしますが、よかれと思って変えたことが、結果として鬱病が激増する状況を生んでしまっています。

変えるということは、必ずしもいいことばかりではありません。

逆に変わらなかった雑談を大事にするような日本の文化の中に、支え合いがあったかもしれないんです。

そういう意味で、日本の社会は昔の人に学び直す必要があると思います。

だから今、ある程度年齢を重ねた年配者の方々には、自分の話は時代遅れとか言わずに、ぜひこれまで積み重ねてきた経験や知識、方法などを自信を持って下の世代に教え語っていただきたいと思います。

そこに、今の日本の社会が抱えている問題から、抜け出すヒントがあるような気がします。

『法事に招かれた時は、どう振る舞えば良いのですか?』

 法事は主として、身内やその親族が中心となって準備をし、営まれることがほとんどではありますが、しかし、案内を頂いて参拝をされた方々も、法事を営む一員であることを心得て頂きたく思います。

 まず、法事を営む心得として大切にしたいことは、亡くなった方のために法事をするというのでは決してないということです。

亡き方を偲び、ご縁あるみんなで思い出話に花を咲かすことも、もちろん当然の心がけでありますが、法事の中心は、やはりこの

「私のため」

にと頂いていかなければなりません。

みんなで仏前に集い、共に如来様のお話しを聞き味わうところにこそ意義があります。

 ですので、たとえ招待されて法事に参加したとしても、そこはゆくゆくの仏縁、亡き方を通し、この私こそ如来様の救いの目当て、この私にこそ、手を合わす姿勢を大切にしなさいよという呼びかけであったと言わねばなりません。

 法事に招かれるというのは、決して

「お客さん」

ではなく、共々に仏縁を喜ぶ仲間としての気持ちを大事にし、お参りさせて頂くご縁を頂いたことを感謝いたしましょう。