投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

平成21年度が始まりました。

平成21年度が始まりました。

1月は1年の始まりということで、今年1年のことをいろいろと思い描いたりするものですが、4月は年度の始まりということで、また違った意味であれこれ思ったりするものです。

学校、あるいは社会、それぞれに新たな環境での生活に期待感をもって臨んだ人もいるのではないでしょうか。

ところで、この世の中、何も授業料を払うのは学生だけではありません。

考えてみると、私たちは生きていく上でしばしば

「失敗」

という痛い授業料を払うものです。

誰にでもそのような苦い経験はあるものですが、でもそこでへこんでばかりいたのでは、成長は望めません。

失敗でも前向きにとらえると、その収穫は想像以上に大きかったりするものです。

だから、生きて行く上で失敗ばかりを恐れていたのでは、何も得られないと思います。

とは言っても、自分ではちゃんと仕事をしているつもりでも、周囲の反応が期待したほどではなかったり、時には苦情が寄せられたり、あるいは注意を受けたりすることさえあったりもします。

でも、世界中のどこを探しても完璧な人間なんていません。

誰もが、多くの失敗を重ねながら、そのことをバネにして生きているのです。

そうすると、大切なことは失敗を恐れて何もしないでいるよりも、たとえ失敗したとしても、いろんなことに積極的にチャレンジして行くことではないでしょうか。

あなたは

「失敗」

という痛い授業料を払う一方で、学生とは違って毎月しっかりと給料をもらっているのですから、せめてその十分の一くらいは、

「失敗」

によって明らかになった自分の弱点を補ったり、自分の資質を高めることのために投資してみても良いのでは…、ありませんか?

『逝去』

葬儀における弔辞や弔電で

「ご逝去を悼み謹んでお悔やみ申し上げます」

(浄土真宗では、「ご冥福をお祈りします」とか

「天国で安らかにお眠り下さい」とはいいません)

と、人の死を悼む尊敬語として使われています。

人の死をどのように考えるかについては、死生観や宗教の違いによってさまざまです。

死はすべての人に例外なく訪れる事柄ですが、経験して実証することのできない事柄でもあるため、死についてのとらえかたは、死後の世界を幻想する神秘主義に陥るか、そうでなければ

「死んでからのことは、死んでみないとわからない」

という実証主義に陥って思考停止するかのどちらかになります。

一時、

「臨死体験」

が流行語のようになったことがありました。

されは、美しく安らかな死後を連想されるものとして、人々に死後についての不安を取り除く役割を果たすかのように見えましたが、所詮は死そのものではなく、神秘主義からも実証主義からも見放され、一過性のものとして終わったようです。

死に対して、何らかの意味を持たせたいのが人間のはからいのなせるわざですが、それは

「死を再生への出発点である」

とか、

「何らかの役に立つ死でありたい」

とかさまざまです。

これに対して仏教では、死とは

「逝去」

です。

逝去のことを

「入滅」

とも

「涅槃」

ともいいます。

無量無数の因縁によって、ただ今の瞬間の命が生かされているという縁起の事実への目覚めを基本とする仏教では、ただ今の私を私たらしめていたすべての因縁が、過ぎ去って(逝去して)寂滅したのが死なのです。

入滅(滅に入る)とは、私を私たらしめていたすべての因縁が滅したということです。

また涅槃とは消滅という意味であり、因縁によって生死の世界に生きた命が寂滅したことを指す言葉です。

仏教では、死とは岸辺に打ち上げられた波が深くて広く果てしない大海に帰っていくように、静かな本来の世界に帰っていくことです。

涅槃である死は寂静であり、それは意味付けを必要としない世界です。

この縁起の事実への目覚めにおいて、神秘主義も実証主義も超えた

「逝去」

という死後の在り方が、自然なありのままの世界である浄土として明らかになるのです。

『いい人 悪い人 みなわたしの都合』

「あの人はどんな人ですか?」

と尋ねられとき、私たちはその人のことについて客観的な評価をくだしているつもりなのですが、けれどもそこには無意識にその人に対する好悪の見方が表れてくるものです。

たとえば、

「酒は飲むけど、仕事はよく出来る人ですよ」

と聞くと、お酒のお付き合いも上手に出来て、しかも仕事がよく出来る人だという好印象を持たれることと思います。

その一方、

「仕事は出来るけど、酒飲みだ」

と聞くといかがでしょうか。

何となく、お酒ばかり飲んでいて、仕事は出来るかもしれないけれど…、でもそれも疑わしいといった、あまりよくない印象を持たれることと思われます。

いずれも、述べている事実は同じことなのですが、その人に抱いている感情で言い表した方も変わってくるものです。

つまり、いい人、悪い人といっても、必ずその前には

「私にとって」

という言葉を省略しながら語っている訳で、本当にその人のことを正しく語っているとはいい得ません。

「一国の英雄は、別の国にとっては極悪人」

ということもあります。

例えば、日本の歴史において、豊臣秀吉という人は、立身出世を遂げたいわゆるスーパーヒーローといった存在です。

織田信長の家来として仕え、やがて全国を統一して関白にまで登りつめたということで、歴史小説、テレビドラマ、映画、歴史ゲ-ムなど多くの分野で取り上げられ、

「太閤さん」

という言葉でも親しまれています。

ところが、隣の韓国では二回にわたって侵略して来た極悪人という評価を下されています。

確かに、朝鮮半島での行為を客観的にみると、それを発令した秀吉は侵略者で悪魔といわれても仕方がありません。

もちろんこれは、豊臣秀吉だけではなく、世界の歴史をひもとけば、

「英雄=征服者」

といった図式が成り立ちますから、歴史上のヒーロ−も国によって相反する評価を下されていることと思われます。

このように、私たちは周囲の人々をいつも自分の都合だけで評価してしまいます。

また、

「好きなものをくれた人は、しばらくは好きです」

という言葉もありますが、その人が自分に何らかの利益をもたらしてくれると好意を持ったり、その反対に自分の意のままにならないと憎んだりしてしまいがちな私たちです。

そして、そのような態度が、そのまま宗教との関わり方においても、自分にとって都合の良いことをかなえてくれる神仏を求める…、といった在り方に陥ってはいないか、考えていただきたいものです。

「親鸞聖人の他力思想」4月(中期)

 その時に、初めて真の意味での宗教的な祈りが求められることになります。

ここには現世のご利益の求めはありません。

自分の欲望の全てを擲って、ここで苦しんでいる、このように悩んでいる、このような不安の中にある、この私を救ってほしいという祈りが、究極的なところで生まれてくるのです。

この心を

「宗教的祈り」

ととらえることが出来るように思われます。

 そうしますと、宗教的な祈りの特徴は何かということが問題になります。

宗教的な祈りの特徴は、世俗の幸福の求めの全て、そういうものが全部破れてしまったところに出てくるということです。

それは、自分に残る最後の願いだともいえます。

そこでは、世俗的な欲望は全部捨て去られています。

ですから、残っているのは、苦悩する自分だけということになります。

その苦悩するじぶんの心の全てを、神に向かって

「この私を救ってください」

と祈るのです。

この祈る者に対して、救うほうの神さまとか仏さまは、その苦悩する人の心の一切を見ていることになります。

祈りの側からしますと、このように苦しんでいる心を見て下さい、この私を救って下さいと祈る訳ですから、神とか仏は、その心を知っておられなければ救いは成り立ちません。

そこでは、自分の心が、神・仏の前にさらけ出されていますので、神・仏に対して自分をごまかす必要はなくなります。

ですから、祈りには人間同士に見られるような駆け引きや偽りの汚れた心は存在しないのです。

ただひたすら

「この私を救ってください」

と、一心に祈る、ただひたすら純粋に祈る姿が、ここに見られることになるのです。

そういった意味で、宗教的祈りは、人間の最後に残る、極めて純粋な、最も美しい心であるということができます。

ところが、ここに一つの大きな問題が生じます。

今、科学による世俗的な幸福が破れて、それらの一切を放棄して、一心にただひたすら仏さま・神さまに向かって

「この私を救ってください」

という祈りを捧げている。

これが人間に残る最後の心です。

祈りがあるとかないとか、祈る必要がいるのかないのか、といった問題ではありません。

究極的にどん詰まりになりますと、人間はこのような必死の祈りしかないということです。

「生きづらい時代を豊かに生きる」(中旬)他の患者さんとしゃべったらすっきりした

 

「大阪のおばちゃんに学べ」

という言葉があります。

大阪のおばちゃんは雑談が大好きです。

とても楽しそうにおしゃべりしている様子から、その相手と知り合いなのかと思ったら、実は全然知らない人同士だったということも珍しくありません。

知らない人同士でも、そうやって話し込んだり出来るんですね。

私も大阪の大学で授業をする時に電車に乗りますが、その時にパソコンで仕事をしていますと、おばちゃんが隣からのぞき込んできて

「お姉ちゃん、何しとるん?」

と話しかけてくるんです。

そして、そこからの会話がもう途切れません。

「いくらくらいやろか」

「どこで買うんやろうか」

「難しそうやね」

と、延々と続くんです。

私はそういうのに慣れていなかったものですから、適当に受け答えしていました。

大阪の友人にそのことを話すと、

「そんなふうに冷たく答えたらだめ。

私のときは、この店に言ったらええですよとか教えてあげて、他にもいろいろお話したよ。

そしたら帰りに、お礼だってドーナツもらっちゃった。

それぐらいしなきゃだめよ」

と言われました。

知らない人同士でも気軽に雑談をして、最後は友だちみたいになれるやりとり。

これは、大阪の文化といってもいいですね。

それを今の若い人は、うっとうしいとか、面倒くさいと言って避けてしまう。

それで、逆に相談する機会を失い、周りに相談する相手もおらず、相談する時には専門家のところに行くという状況を生んだのではないでしょうか。

ときどき、精神科に来る患者さんの中で、すごくすっきりした顔で診察室に入ってくる人がいます。

ずいぶん元気そうですねと聞くと

「待合室で他の患者さんとしゃべったらすっきりした」

と言われました。

待合室で待っている間に他の患者さんと雑談をすることで、内側にため込んでいたいろいろなものを吐き出して、それで楽になったということなんですね。

もちろん精神科でも薬を出しますが、薬を出す以外に私たちがやっていることは、患者さんに言いたいことを全部しゃべってもらうということです。

それで本人が

「ああ、今日は言いたいことがよく言えた」

と思ったら、その時点で症状の6割7割はよくなります。

それでも治らない部分を薬で治療するんです。

だから

「話す」

ということは、非常に大事なことなんです。

もちろん、話をするには聞く人も必要で、相手の話を聞いてあげるのも大事です。

でもそれは、何か専門的なトレーニングを受けてなければだめということではありません。

井戸端会議とか、赤提灯とか、病院の待合室、あるいはスーパーでの立ち話のような、そんなレベルの日常的な雑談でいいんです。

話をするということ自体が重要なんです。

『親族が葬儀中に会葬者に挨拶するのは何故?』

 浄土真宗のお葬儀では、『正信偈』の始めの部分、

「五劫思惟之摂受」

と、導師が少し高めの音で発声するところからお焼香が始まります。

まず、遺族、親族と続き、会葬者の皆さまがその後に続いてお焼香という流れが一般的ではないでしょうか。

 近頃の傾向として、ご質問の通り、遺族の方のお焼香が終わると、そのまま着席せずに、今度は会葬者の方を向いて、お焼香に来る方々にお辞儀をしている光景を見かけることが多くなりました。

おそらく、葬儀屋さんの指導と思われますが、お参りいただいた皆さまへのお礼として、一見丁寧なようにも思えるかもしれませんが、厳粛な葬儀のさなか、読経中に荘厳壇(浄土真宗では祭壇とは呼びません)へ背を向けると言うことは、これは謹まなければなりません。

一人の人間の死に立ち会うにあたり、今生最後のこの瞬間、私が向き合うべきものは、今まさに目の前にある、生まれたら死ぬという真実でありましょう。

 お辞儀をするという行為そのものは何も悪くありません。

しかし、読経中の最中にするべきことではありません。

仏事の最中はしっかりと、ご遺体と、そして如来様と向き合い、そして、会葬者の皆さまへのお礼は、法要の一通り終わった後にじっくりと行えばよいでしょう。