投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

『はなまつり(灌仏会)』

4月8日の

「はなまつり」

は、お釈迦さまの誕生を祝う仏教にとっては非常に大事な行事です。

仏生会(ぶっしょうえ)とも灌仏会(かんぶつえ)ともいい、右手を上に左手を下にして立つ誕生仏に甘茶をそそぎ、お釈迦さまの誕生をお祝いします。

日本には飛鳥時代に伝来し、平安時代以来、宮中の年中行事としても行われ、五色の香水(香を入れて浄化した水)をそそぎかけていたようです。

これは、お釈迦さまが誕生された時に、天から龍がおりてきて水を注いだという伝説にもとづくもので、香水にかわってやがて甘茶をそそぐようになりました。

今の日本の灌仏会は、童子形の釈迦仏像を水盤に安置し、その周りを花で飾ることから

「はなまつり」

と呼ばれますが、旧暦の頃の日本では、この日につつじや新花を竿の先に結びつけて花の塔と呼び、家ごとにたてたそうで、青葉若葉の新緑の頃の風景でした。

今の

「はなまつり」

になっても、そこには仏教が本来持つ、生命への息吹への讃仰が穏やかに象徴されているといえます。

毎日我が家では

毎日我が家では

「ありがとう」

が飛び交っています。

簡単に言えそうで言えない言葉。

当たり前になればなる程、忘れがちな言葉。

日常である程、使わなくなる言葉。

結婚と共に互いに誓いあった。

当たり前ではなく、常に感謝の気持ちを忘れない夫婦でいようと。

「起こしてくれてありがとう」

「御飯を作ってくれてありがとう」

「食器を洗ってくれてありがとう」

「お風呂を沸かしてくれてありがとう」

些細な事にも

「ありがとう」

を忘れない。

「ありがとう」

の大安売りだ(笑)

きっと、大安売りで良いのでしょう。

「ありがとう」

は魔法の言葉だから…。

疲れている時でも、

ため息が出る時でも、

悲しい時でも、

辛い時でも、

「ありがとう」

と聞くと

俄然元気になります。

元気な時でも、

笑いが絶えない時でも、

嬉しい時でも、

幸せな時でも、

「ありがとう」

と聞くと

もっと元気に暖かい気持ちになれます。

そして、もっと何かしてあげたいと思います。

たった五文字で幸せな気持ちになれる

魔法の言葉

「ありがとう」。

今日も我が家では

「ありがとう」

が飛び交っています。

沢山の感謝の気持ちと共に・・・。

『いい人 悪い人 みなわたしの都合』

  わたしたちは、この世で生きる上で必ず誰かと関わっています。

関わり合う人の中には、わたしにとっていい人や悪い人もいることでしょう。

なぜなら、人間には損得や好き嫌いの感情があるからです。

だから、いい人と思っていたのに、ちょっとしたきっかけで悪い人になってしまうこともある訳です。

 実は、わたしにとっていい人とは、わたしにとって都合のいい人であり、わたしにとって悪い人とは、わたしにとって都合の悪い人のことです。

しかし、わたしにとっていい人は、和歌の人には悪い人かもしれません。

 そのように考えますと、人間の判断基準は、とてもいい加減なものだということがわかります。

 このような人間の姿を

「有漏(うろ)」

といいます。

つまり、

「漏れることが有る」

ということです。

 正しいと思って物事を見ているつもりが、わたしの都合によってどのようにでも解釈できるということです。

そこには、多くの漏れがあり、好きか嫌いかによって人を分けへだてするようなわたしが、物事を正しく見ることなど出来るはずもありません。

 それに対して、阿弥陀如来は

「無漏(むろ)」

といわれます。

つまり、漏らすことのない仏さまなのです。

そこには都合などなく、いい人悪い人と分けへだてすることのない、確かな慈悲があるのです。

 正しいと思っていた自分の眼が、都合によって変わるようないい加減なものだと気付かせていただくことによって、その自分の身を恥じて慙愧することの出来る生き方こそが、阿弥陀如来の智慧の光に照らされた念仏者の姿なのです。

「親鸞聖人の他力思想」4月(前期)

 では、科学に破れて宗教に人生の幸福を求めようとするとき、その人が求める宗教とはどのような教えでしょうか。

神さまの力であるとか、超能力であるとか、教祖の力であるとか、信仰の力であるとか、あるいは信者の力であるとか、目に見えない大きな力も含めて、いろいろな力に一生懸命に幸福を求めることになります。

 そうしますと、現在盛んな宗教は、ご利益をもたらす超能力とか、自分の力をはるかに超えた大きな神の力を説く宗教であるように窺えます。

その力にお願いをして、幸福を求めているのです。

一方は、科学の力に、もう一方は幸福をもたらす宗教に救いを求めている訳です。

では、浄土真宗の教えとその信者の人々は、なぜ無気力だといわれるのでしょうか。

端的には

「祈りとかご利益を説かないから元気がないのだ」

ということになるのかもしれません。

 科学に頼ったもののその方向に破れて不幸に陥った者が宗教を求めるのだとしますと、ではどのように宗教に救いを求めることになるのでしょうか。

これはもう一生懸命に祈ることになります。

自分の不幸を除き、何とかして幸福をくださいと祈るのです。

そうしますと、一心に祈るという行為を抜きにして、宗教は存在しなくなります。

 そこで、祈る心というものを問題にしますと、この祈りに二種の心をみることができます。

一つは世俗的な祈り、もう一つは宗教的な祈りです。

世俗的な祈りとは、今いったように、科学によって幸福を得ようとしてその夢に破れた人が、神・仏に祈って、この不幸を何とかしてほしいと願う在り方になります。

したがって、世俗的な祈りによって願われることは、あくまでも世俗の幸福の求めがその中心になります。

 しかし、この幸福には明らかに限界があります。

お釈迦さまが説いておられるように、人間はいかに若さを保つことに努め、健康に注意して幸福な人生を過ごそうとしても、つまるところ、老いて、病んで、死んでしまうからです。

どれほど願っても、老いて、病んで、死んでしまうという無常の理そのものは動きません。

世俗的な幸福の求めは、結局無常の前には破れてしまうのです。

 だとすると、科学的に世俗的な幸福を求めても、つまるところ破れてしまいますし、宗教に世俗的な幸福を求めても、やはり最後には破れてしまうことになります。

どのように神・仏に一生懸命にお願いしても、最終的に死を免れることはできません。

それが私たちの姿だとしますと、究極のところで世俗の幸福は全て破れてしまうことになる訳です。

「生きづらい時代を豊かに生きる」(上旬)密室の中で恐ろしいことが起きている

======ご講師紹介======

香山リカさん(精神科医)

☆演題「生きづらい時代を豊かに生きる」

昭和35年、北海道生まれ。

東京医科大学を卒業後、北海道大学医学部附属病院で研修。

学生時代から雑誌社に寄稿され、『キレる大人はなぜ増えた』『おとなの男の心理学』など多数の著作があります。

また臨床経験を生かし、解説者としてテレビ番組に出演される他、新聞・雑誌で社会批評、文化批評、書評なども手がけ、現代人の心の病について洞察を続けておられます。

現在は立教大学現代心理学部映像身体学科教授もお務めです。

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 精神科に来られる人の中には、若い女性やシュアの方もたくさんいます。

話を聞くと、子育てや夫との生活の悩みだったりするんですが、実は精神科でなくても、ご近所との会話の中で解決する程度の問題だという場合も少なくありません。

でも、今のマンション暮らしというのは、そういう会話、隣近所との付き合いがありません。

それぞれが孤立してしまっているんです。

以前、埼玉県のベッドタウンの病院に勤めていたとき、近くの団地に訪問指導をしていた保健師さんなどから、現実とは思えないような話をよく聞きました。

例えば、ある保険師さんの所に相談の電話がかかってきました。

その内容は、

「子どもが2歳になるのに、全く歩くそぶりがない。

具合が悪いのかもしれない」

というものでした。

その場所で保険師さんが見たのは、きれいな部屋の一角にしかれた2枚のビニールシート、そこに子どもが座らされている光景でした。

子どもはそこから出ないようにしつけられていました。

それで、その子のお母さんは真剣に

「外に連れて行って歩かせようと思っても歩かない」

と言っているんです。

これは一歩間違えれば虐待ですね。

でも、本人には虐待しているつもりは全然ないんです。

その様子に保険師さんがビックリして

「はいはいとか、何かにつかまって歩く練習とか、そういうことはしましたか」

と聞くと、

「そんなことしたら家が汚れるじゃないですか。

それで、ここを出ないように言ってあるんです。

この子はお利口だから、ちゃんと出ないようにしてくれているんですよ」

と言うんです。

このお母さんは、大学を出てともて優秀な経歴を持つ人だったんですが、育児書に

「1歳2カ月で歩く」

と書いてあるのを見て、子どもはある時期になると教えなくても自然に歩けるようになるものなんだと思っていました。

それで、保険師さんから立って歩くためにはいろいろな練習や努力、試行錯誤が必要なんだということを教えられて、初めて

「ああ、そうなんですか」

というふうに気付いたそうなんです。

保険師さんが言うには、その団地は外から見ると普通の団地だけど、中はとても異質で、それぞれが孤立した密室の中で恐ろしいことが起きているとのことでした。

これは住人同士で交流があれば、会話をしたり、ご近所の様子を見聞きしたりするうちに分かるようなことです。

でも、お互いが完全に孤立していて、しかもそれをどこにも相談できないから、かぐに保険師とか児童精神科といった専門家の所に相談しようとする人が出てくるのでしょうね。

だから、今は本当に心を病んでいる人が増える以前に、逆にまだ精神科に来なくてもいい人たちが精神科に来ていることになります。

これは、日常生活の中で普通の会話やコミュニケーションができない、そういう機会がとても少ないということです。

以前なら、男性が赤提灯と言われるような居酒屋で、女将さん相手に愚痴を言ったりするのもコミュニケーションだったかもしれませんね。

でも、今どきはそういう雑談の機会が減ってきているように感じられます。

日常でのお付き合いのある近所の方、お友だちと何気ない雑談をする。

例えば痛い思いをしたという話題で共感したり、話を聞いたりする、それだけですごく楽になったりすることもあります。

今の若い人たちはそういう雑談ができなくなっている。

これはとても大きな問題ですよね。

『加護』

一般に加護とは、仏が力を加えて護ることを言い、目には見えない仏のはたらきを

「冥」

とするところから、知らず知らずのうちに仏の加護を蒙(こうむ)ることを冥加といました。

この冥加への御礼・報恩のための布施が冥加金ですが、近世には転じて、冥加金といえば営業や特種権益にかかわる公への税・献金を指す用語ともなりました。

仏の加護といえば、近時の加護への願いは、ただいわゆる現世利益を期待することにのみ心を集中させているように思われます。

仏の加護とは、決して背後霊のような神霊が周囲にあって人間の身勝手な要求を達成させるようなことではなく、私たちが正しく仏法を聴き、ただ、常に教えに導かれて生きる状態を指します。

このような意味で、加護とは真の仏道を歩む者のみに与えられるものであるといえます。