投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

『無明すべて分かったつもりの心』

国語辞典で

「無明」

と引いてみると

「煩悩にとらわれて、仏法の根本が理解出来ない状態」

と書いてありました。

もう5年くらい前になりますが、京都に行った折に龍安寺(りょうあんじ)に立ち寄った事がありました。

すぐに思い浮かばない人も

「石庭で有名なお寺」

と言えばすぐにお分かりだと思います。

しばらくボーッと庭を眺めていると、団体の観光客の方々が入ってこられて、私の近くでバスガイドさんの庭の説明を聞いておられました。

「この石庭は室町時代に造られたもので、白い砂の中に15個の石が配置されておりますが、縁側のどこから観ても15個全ての石を観ることは出来ません。

それは私たち人間の煩悩の姿(見方)を示していると言われています…」

と私の耳にも入って来ました。

それまで庭を眺めていた私も、そんなものかと縁側を移動して石の数を数えてみると、確かに13個位しか見えないのです。

角度を変えると今まで見えていた石が他の石に隠れて見えなくなり、今まで見えなかった石が姿を現す。

なるほど、庭に15個の石が在る事が分かっていても、私の目では全てを一緒に観ることは出来ないのです。

不思議だなと思う反面、ガイドさんが言われた

「人間の煩悩の姿…」

は、自分で見た物が全てで

「あたりまえ」

「正しい」

と自分自身にとらわれている、無明の私の姿なのだなと思いました。

そして、もし15個全ての石を観る(知る)ことが出来るとするならば、それは私の目を通して見えるものではなく、全ての心理(真如)を見通しておられる如来の教えによってのみ味あわせて頂く世界なのだろと感動したことでした。

今でも時々その時の事を思い出すのですが、あの時少しでも私が変われたかと言うと、今でも相変わらず一喜一憂の毎日で、私の見る世界はどうしようもなく自分自信の思いの範疇(無明)であります。

でも、そんな無明の私だからこそ

「まかせよ」

と願い続けて下さる如来さまがおいでになるとお聞かせ頂くところに安心が生まれてくるように思います。

「親鸞聖人の他力思想」3月(後期)

では、私たちにとって

「生きる」

とはどういうことかが、ここで問題になります。

私たちは今、人間として生きるために、何を必要としてかを考えてみます。

人間が生きるために必要なものは一つしかありません。

生きるという面のみを考えれば、大切なものは一つです。

自分の人生は

「幸福」

であればよいのです。

これ以外に生きる意味はありません。

人は誰もが幸福に生きられればそれで良いのです。

そこで、幸福な生き方となりますと、私たちはそれとストレ−トに関わってきますので、誰もが必死になって学び、聞き、その幸福な人生を得ようと努力するのです。

ではいったい、幸福とは何かということになります。

この点は、お釈迦さまがはっきりと示しておられます。

人間にしっていちばん重要なことは、若さを保つこと。

それから若さを保って健康であること。

そして健康であって、自分の願いが全て叶えられることです。

これが幸福の全てだといえます。

ですから、自分自身がいつまでも若く元気であって、そして思っていることが叶えられる。

つまり豊かで楽しく、快適で和やかな生活ができるということが幸福な姿になるのです。

では、その幸福な生き方を、現代人は何に求めているのでしょうか。

これは言うまでもなく

「科学の力」

に求めています。

「宗教の力」

によってではなく、現代人の多くは、科学の恩恵によって幸福を得ようとしています。

ですから、この点については、誰もが関心を寄せて、若さを保つためにはどうすれば良いかということになると、やはり科学的なはたらきをほしがる訳です。

いつまでも老いないためにはどうすればよいか、病んでもすぐに治る、これも科学の力です。

死もまた科学によって、その恐怖をなくそうと思っているかもしれません。

とにかく、全て、科学の力によって幸福を得ようとしているのです。

ところが、残念なことに、その科学によって幸福を得ようとしている人が、科学によってとんでもない不幸に陥ることがあるということです。

科学の恩恵によって幸福を得ようとしていたのに、逆に科学に裏切られて、科学のためにどうしようもない悲惨な人生になることがあるのです。

そのような場合、科学の力によって幸福を得ようとしている人間は、科学を超えた力を求めようとするようになります。

ここで、初めて宗教の救いが必要とされてくるのだと思います。

ですから、現代のひとつの大きな問題点は、科学の力によって救いを求めようにとしているのですが、その方向において破綻した者は、宗教によって救いを求めようとしているということです。

現代人にとっての宗教は

「科学的な力の隙間を埋めるもの」

と考えられているのではないかと推察されます。

現代人の求めているものは

「人生の幸福」

です。

そうしますと、人生の幸福を科学によって求め、それに破れた者は宗教によってそれを得ようとしているといえます。

つまり、いずれにせよ、人生の幸福を求めているのが、今の私たちの姿だということになります。

「僧侶のみる現代宗教の状況」(下旬)仏様と自分の生きる姿を照らし合わせて生きていく

本来、宗教とは人間を超えたものによりどころを持つことでした。

仏教の場合ですと、仏さまをよりどころにするということです。

では、仏さまとはいったいどういうお方がご存知でしょうか。

そもそも、人間はすべてを自分の幸せを中心に考える存在です。

だから、他人の喜びを同じように喜ぶのは難しいし、他人の痛みは自分のことでなくて良かったと思ってしまいます。

その真反対、人の喜びが自らの喜びであり、人の悲しみが自らの悲しみであり、人の痛みを自らの痛みとして、その痛みを共にし、痛みを乗り越え、痛みを和らげていくような心と行いを持とうとする方を、仏さまというのです。

仏さまをよりどころにするということは、そういうお方を目指して生きるということです。

そして、そういう思いがない自分を恥ずかしいと自覚し、少しでも恥ずかしくないようにと努力と精進をすることです。

仏さまと自分の生きる姿とを照らし合わせ、常に判断の場で意識しながら生きていくことが、宗教心を持つということであり、仏教に志を持つということなんです。

このように、宗教というものは、私たちの意識における価値観の位置付けに深く関わりますから、極めて教育的なものと重なり合うことになります。

ですから、特定の宗教を大事にしなさいと言ってはいけないかもしれませんが、人が本当の意味で、人間としての品性や価値観を確立させていくためには、宗教的教育は大変重要なもののはずなのです。

事実、伝統的な仏教は、ある時期そのような教育的役割を持っていました。

特にこの浄土真宗はそういう意識が強く、多くの人が仏さまや親鸞さまを中心にして問題意識を育んでいました。

でも、そうなりますと、時には政治の社会と対立せざるを得ないときもあります、戦争をしなさいという時代に、戦争をしてはいけないと言うと、やはり対立をしてしまいます。

そのような対立が何度も起こり、その結果、寺は人間の教育に関わるな、うるさく説教をするな、静かにしていなさいと言われ、それが普通になっていってしまったんです。

でも、それではお寺の役割がなくなってしまいます。

そのとき、葬式をしなさいとなったんです。

死んだ人を相手にしていたら静かでいい。

一揆を起こして、徒党を組むこともない。

おとなしくなり、お寺にもお布施が入る。

そういう状況が何百年と続き、現在では、お寺、お経、仏さまと言えば、死んだ方とのつながりが中心になるような意識で見られるようになっています。

そして、いまだに伝統的な宗教は人々の心をリードすることが出来ないままに、形は形だけとして残り、心は他の宗教で、という現実になっているのではないでしょうか。

いったい自分は何をよりどころにして生きているのか、そういうことをもう一度よく見つめ直すところから、真の意味での宗教との出会いが生まれるように思われます。

『水子は供養をしないとタタリますか?』

「水子」

とは、本来は

「みずみずしい子」

という意味で、幼児のことを指す言葉でした。

ところが、今日では胎児、さらには堕胎・流産した子をいうようになり、

「うらみを抱いて死んだものは祟る」

という

「怨霊信仰」

と重なって、

「水子供養」

が行われるようになってきました。

確かに、漠然とした不安を

「水子供養」

をすることによって安心感を得たいという気持ちは理解できなくもありません。

しかし、仏教は

「諸法無我」、

すなわち私たちの中に実体的な存在としての

「我」

を認めないという立場をとります。

したがって、現に生きる人々の禍福にかかわる水子をはじめ、実体としての

「霊魂」

の存在も認めていません。

また

「縁起の法」

から考えても、私の身に起きる事実は、私の身口意の三業に起因するものであって、水子とは何ら関係はありません。

水子を供養してもしなくても、祟ることなどないのです。

そもそも祟りとは、死への恐怖から起る迷信であり、供養とは祟りを恐れて霊に供物を供えたり、追善の廻向をすることでもないからです。

ここで考えなければならないことは、今は亡き子のことを思い悩んでいるようでありながら、実は現実の不都合や不幸を亡き子の祟りとして責任転嫁しようとしてはいないかということです。

先ずは、そのように身勝手な自分自身とはっきりと向き合うことが大切なのだといえます。

水子をひとつのいのちとしてとらえていく中で、祟りを恐れる心から供養を営むのではなく、追悼の心からお勤めさせて頂きましょう。

そこでは、亡き子の死を縁として、人生の無常に気付かされ、親も子もともに救われていく世界があるということを聞かせて頂けることと思われます。

最近、自転車通勤を始めました。

最近、自転車通勤を始めました。

きっかけは、デスクワークの毎日で

あまりにも運動しない日々だったため、

体を動かしたいな〜って、

そんな感じの思いつきでした。

わたしの家は丘の上にあって、

出勤は下り坂をスィ〜だけど、

帰りがめちゃくちゃしんどい。

汗だくで必死なってこいで帰ります。

汗かいて、ハァハァ息切れて、

体力消耗しきって

家に帰って気がついたこと。

これまでは、昼間の仕事のストレスで、

心が疲れきって帰っていたけど、

今は自転車で疲れきって帰ることにより、

なんと、

心の疲れが

体の疲れにすりかわってるんです!

なんとも爽やかな疲れ!!

おまけに、急な坂を自力で登りきったという

達成感まであります。

おかげで、ちょっとは痩せるかな?と

期待して始めた自転車通勤で

2キロも太ってしまいました…。

だって、

家に帰り着いた後のビールが

何倍もおいしいんだもん!

したがって、

これからしばらくは

ダイエットのために

自転車通勤に励まねばなりません。

がんばらねば!

『冥加』

冥加(みょうが)といっても、最近は生活の中で耳にすることはほとんどありません。

冥加金という言葉があります。

お寺に進納するお金のことです。

仏さまに対する謝礼をお金で表したものですが、ではなぜ

「冥加金」

といわれているのでしょうか。

冥という字は

「冥福を祈る」

とか

「冥土のみやげ」

という言葉があるように、あの世を連想させますが、もとは

「くらい」

という意味で、はっきりと知られないことを指しています。

つまり、知らず知らずのうちに与えられている仏の加護や、さまざまなおかげなどを冥加というのです。

ところで、私たちは日頃どのような時に

「おかげさま」

を感じるでしょうか。

ほとんどの場合が、自分の願いがかなった時ではないでしょうか。

しかも、自分が直接に知っている事柄に対してだけ、おかげさまと感じるように、きわめて狭い範囲しか見ていないようです。

ところが、生きているということは、実に多くのことに支えられています。

日常は特に意識することもありませんが、私たちは他の生き物のいのちを食べて生きています。

動物ばかりでなく、植物からも、さらにいえば水や空気からもいのちをもらっています。

この事実を忘れて、自分ひとりの力だけで生きているように思うなら、それは傲慢(ごうまん)といわれても仕方はありません。

自分に都合の良いものは利用し、都合の悪いものは排除する、そんな生き方になってはいないでしょうか。

実際、現代人の人間中心の文明は、自然を利用することのみに走り、感謝を忘れてしまっているようにも見えます。

冥加とは、自分の願い事をかなえるために仏に期待することではなく、既に支えられていたことへの感謝が込められた言葉だといえます。