投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

『無明すべて分かったつもりの心』

私たちの眼を

「借光眼(しゃっこうがん)」

といいます。

それは、私たちの眼は自分の力によってものを見ているのではなく、光の力を借りてものを見ているのだという意味です。

現に、日常の生活では、太陽の光や電気の光の力を借りて周囲のものを見ています。

けれども、ひと度それらの光が取りさられると、私たちは自分自身の眼でものを見ることは出来ません。

そのような状態の中で出来ることと言えば、手さぐりで行動することだけです。

このように、光がない時の私たちの生き方は、手さぐりをしながら生きる他はありません。

今ここでいう

「手さぐりの生活」

とは、自分の判断や体験だけを頼りにして生きて行くという在り方のことです。

実は、このように自分の判断や体験だけを唯一の頼りとして生きて行くということになると、私たちはどうしても物の見方が一面的になってしまいます。

それは、自分の体験だけにとらわれてしまい、なかなかものごとの本質を見抜けなくなるということです。

そして、やがてその体験だけを後生大事に抱えこみ、しかもそれを常に絶対的な尺度にして、人生を解釈してしまうことに陥ってしまいます。

仏法の智慧というものが光で表される第一の意味は、このように私たち一人ひとりに抜きがたくある、自分の体験への執着そのものを破るはたらきがあるからです。

それはどのようなことかと言うと、まず仏法の智慧というのは、あれも知っている、これも知っているということではなく、まわりがはっきり見えるということです。

そしてそのことは同時に、手さぐりをしている自分自身がはっきりと見えてくるということです。

ここで

「見えてくる」

という言い方をしますと、ただ何となくまわりを眺めているだけのようですが、そうではありません。

ものごとが

「本当に見えた」

という時には、その事実にしたがって生かされて行くことになります。

それが、たとえ今までの自分の体験によって培ってきたものの考え方を、その根底から否定し、ひっくり返すようなものであったとしても、それが事実である限り、事実を事実として受け止め、生きてゆく勇気と情熱としてはたらくのです。

ところが、智慧の光を持たない手さぐりの生活においては、どこまでもただ自分の体験だけが拠り所になっているため、あたかも自分自身を拠り所にして生きているような錯覚に陥ってしまいます。

まさに世の中の

「すべてわかったつもり」

になっているのだといえます。

ところが、実はその時に、自分の姿は自身には少しも見えていないのです。

自分自身というものは、他の人と出会ってゆく中で次第にあらわになり、見えて来るものです。

つまり、私たちは他の人の生き方にふれたとき、初めて

「ああ、自分もこうだったのか」

ということがわかってくるものなのです。

けれども、自分の体験したことしか見えていない人には、自分の本当の生き方というものが見えないままで、すべてをわかったつもりになり

「知らないことを、知らないままに生きる」

ことになってしまいます。

仏教で説かれる

「如実知見」

とは、実のごとく見て知ることの大切さを明らかにした言葉ですが、すべて分かったつもりの心で真実を自ら求めることのなかなか出来ない私たちであればこそ、まずはその無明を破る仏の智慧に、そしてその語りかけに耳を傾けたいものです。

「親鸞聖人の他力思想」3月(中期)

そこで

「本願」

「他力」

の関係は、まず阿弥陀仏は本願に何を誓われているのかというと

「念仏する衆生を必ず往生せしめる」

ということです。

では、他力とは何かということになりますと、その

「本願を信じて念仏する衆生を必ず往生せしめるというはたらき」

になります。

本願は、念仏する者を救う。

それに対して他力は、本願を信じ念仏する者を救うはたらきそのもの、その本願力が他力です。

そういうことからしますと、親鸞聖人の思想においては、自力とか他力とか、信心とか念仏とか、これら全ては

「阿弥陀仏の浄土に往生して仏になろうとする行業として論じられている」

のであって、それ以外の事柄について述べられているのではないことを知っておく必要があります。

そこで、改めて私たちと阿弥陀仏との関係を問い返していただきたく思います。

なぜ、この他力本願の思想に、私たちはそれほど関心を持とうとしないのでしょうか。

阿弥陀仏が

「念仏を称えなさい、必ず救います」

という本願を建てておられますと聞くと、それを聞いた私たちは本来なら大いに歓喜しなければならないはずです。

私が願うに先立って、私を救うと阿弥陀仏さまが誓って下さっておられるのですから。

けれども、現実には大半の人はそのことを聞いても、特に喜びがわいてくることはありません。

つまり、阿弥陀仏の本願と私たちの心は、今かみあっていない、触れ合っていないという状態にあるのだといえます。

では、なぜ

「念仏を称えよ、救う」

という言葉に、私たちは喜びを感じないのでしょうか。

阿弥陀仏が

「あなたを浄土に生まれさせる」

という誓いの言葉を、私たちは聞き学んでいるにもかかわらず、

「浄土はどこにあるのだろうか」

というような疑問は生じても、自分が

「本当に浄土に生まれるんだ」

という喜びが、自分自身の全体からわきおこってくることはありません。

ここで、私たちの生き方を問い、浄土真宗の教えと自分たちの人生を重ねてみることにします。

そうしますと、私たちの今を生きるという問題と、阿弥陀仏の救いとが、ほとんど重ならないのではないかということが思われます。

今を生きるさまざまな思いの中で、残念ながらこの世で念仏が尊いのだという実感がなかなかわいてこないのです。

念仏の喜びがでてこないということは、自分の生き方と念仏が関係していないということに他なりません。

それは、私たちが他力ということとまったく関係なく、浄土ということにも関心を持たないで、阿弥陀仏の本願や阿弥陀仏の救いをまったく問題にしない在り方で生きているということです。

したがって、ただ手を合わせて拝んでいるだけで、阿弥陀仏に対する宗教的な意識はほとんどないようなところから、信仰心が生まれてくることは極めて困難だし思われます。

「僧侶のみる現代宗教の状況」(中旬)ご本尊はお金さま、お寺も僧侶もいりません

現代の宗教事情に、もう一つの影響を与えているのはお金です。

お金になることがいいことで、お金にならないことはつまらないこととしてはいないでしょうか。

つまり、経済的価値観がものごとの判断の中心に据えられてはいないかということです。

確かに、誰しも損をしたくはありませんし、経済的な価値観は非常に重要なものの一つではあります。

けれども、私たちが生きて行く上で、

「一番大事なもの」

ではないはずです。

しかし、もし

「お金が何より大切なんです」

ということになれば、これは

「経済教」

です。

この場合も、仏壇もお社も必要ありませんし、お寺も僧侶もいりません。

そしてご本尊は何かと言えば、

「お金さま」

なんです。

例えば、いろんな信仰を持っている方があって、神さまのお社がお祀りしてあるとします。

それに対して私が

「あなたは大変信心深い方なんですね」

と尋ね、

「そうなんです。

この神さまを信仰するようになってから、商売がうまくいってお金がよく儲かるんです」

と言ったとします。

この場合、この神さまを信仰したらお金が儲かる訳ですから、お金さまが神さまになっているといえます。

それで神さまはお金さまが来るために祀ってあるのですから、神さまの方が序列的には下になっています。

そして、もしお金が儲からなくなると、この神さまはその途端に捨てられてしまうことになります。

こういう状況が、今の日本を動かしている人々の価値判断の基準になっています。

そして、この基準にしたがって判断を誤り、正しい価値観が覆されていくのです。

昨年の夏から秋にかけて、事故米の問題がありました。

それまで私たちは、事故米というものの存在も、それが食料品以外に使う目的で輸入されていることも知りませんでした。

ところが、それが食料品に混じり、私たちの口に入るような形になっていたのです。

これは、道徳上決してしてはならないことです。

常識的に判断するならば、事故米を偽って他人に食べさせてお金を儲けようとするなど、言語道断です。

私たちは、してはいけないことと知っているからしないんです。

ところが、あの事件を起こした人たちは、人の口に入ってもかまわないと思っていたんです。

百円のものを売って十円儲けるより、三十円儲ける方がいいと思ったからです。

そうすると、してはいけないことが儲けるためならばしてもいいことになり、しなくてはならないことがしてはいけないことになってしまいました。

つまり価値観の中心が逆転して、善悪の価値がひっくり返ってしまったのです。

もちろん人間ですから、してはならないことだと、どこかでは分かってはいるんです。

分かってはいるけれどもしてしまったのは、その人たちにとって金もうけの方が価値が高かったからです。

そういうことに歯止めをかけていくものが、ものの価値を決める際の大切な役割なんです。

そして、それが宗教というものに関わる非常に大事なものだと思うのです。

『葬儀は、なぜ勤めるのでしょうか?』

一般的に

「お葬式」

といわれものは、浄土真宗では

「葬儀」

という名称で勤めています。

しかし、最近では僧侶も呼ばずお経も読まれない

「お別れ会」

という形で催されることが増えてきているようです。

遺族の心情からすると、ただの通過儀礼になるよりは宗教を介在しない方が良いということなのでしょうか。

葬儀とは、亡き人を偲んで有縁のものが集まって、共に読経念仏して、尊い仏縁をいただくことです。

また、参列した私自身に、死の問題や生きることの意味を真摯に問いかける大切な機縁でもあります。

そこには、亡き人が仏となって生き続けていける世界があるということを忘れてはなりません。

また葬儀は

「告別式」

ではありません。

本来告別式とは、明治時代に出来た

「無宗教の葬式」

を意味する言葉ですが、単に別れを告げるのであれば、亡き人と二度と会えないこということになってしまいます。

しかし、私たちはお寺参りや法事等の仏縁を通して、阿弥陀仏のはたらきによって亡き人とまた遇える浄土の世界があることを聞かせて頂いています。

このような意味で、葬儀を勤めることの意義とは、阿弥陀仏の徳を讃嘆すると共に、亡き人を偲び、浄土での再会を約束させて頂くところにあるのだといえましょう。

『慈悲』

慈悲の

「慈」

とは

「生きとし生けるものをいつくしんで楽を与えること」、

「悲」

とは

「衆生を憐れみいたんで苦を抜くこと」

という意味です。

ただし、この場合の楽とか苦とは、私たちが日頃理解している、自分にとって都合の良いことが楽、都合の悪いことが苦といったような単純なことではありません。

したがって、仏教で語られる慈悲とは、私たちの都合によって左右されるようなものではなく、覚りの智慧を実現することをいいます。

つまり慈悲とは、仏教によって明らかにされたいのちの真実への目覚めを促すことだといえます。

また

「楽を与え・苦を抜く」

ということは、覚りの智慧の世界、

「無有衆苦、但受諸楽(すべての苦が滅して、ただ楽のみがある世界)」

が実現したことを意味します。

これを覚られたお釈迦さまの立場からいえば、迷い続ける私たちに覚りへの道を明らかにし、その実現を促してやまない働きにほかなりません。

私の幼稚園・保育園では、毎月16日は合同で本堂にお参りをします。

私の幼稚園・保育園では、毎月16日は合同で本堂にお参りをします。

2月は親鸞聖人の月命日とお釈迦さまの亡くなられた日と伝えられる涅槃会を兼ねてお参りをしました。

みんなでお経を読み、仏さまの歌を唱ったあとに仏さまの話をします。

この日も話をした後、ふと考えることがありました。

果たして、子どもたちは自分の話をどれくらい理解してくれているのだろうか。

私が自分中心になって話をしているのではないかと思いました。

保育者としての基本は、子どもの目線で話すということです。

つい、その事を忘れがちで上からの目線で話してしまうことがあります。

頭ではわかっていても、実践になるとそのことが出来ていなかったのではないか、どこかで子どもだから構わないという気持ちがあったからではないかということに気づかされました。

人に話をわかりやすく伝えることは、なかなか難しいものです。

しかし、法事にいって法話をすることも、子どもたちに仏さまの話をすることも、相手がわかるように伝えていくことが大事なことです。

その、大事なことを疎かにして、当たり前のようにしていた私のこころを気づかせて頂いたことも、仏さまのご縁に合わせて頂いているからであり、今一度、このおもいを大事にして、法事でも子どもたちにもそのお心を伝えていかなければと感じさせられたお参りでした。