投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

『無明すべて分かったつもりの心』

「無明」

という語句を『真宗新辞典』でひくと

「真理にくらく、事象や道理を正しく理解できない精神状態で、愚癡をそのすがたとする。

真宗では、本願を疑い仏智を明らかに信じないことを指す。

如来の本願力、仏の光明は、無明の闇、無明の夜を破り、無明の樹を截り、無明の海水を転じて大宝海水と成し、無明の病を治する」

とあります。

私たちは、数え切れない多くの命の中から不思議にも人として生まれてくることができました。

しかし、それを尊ぶどころか当たり前のように思い、時には

「生まれてこない方がよかった」

などと不平不満を言うことさえあります。

1人で大きくなったような顔をし、あの人がどうだ、この人がどうだ、あれが欲しい、これが欲しい。

そして、少しのことで腹を立て、人様のことをすぐに羨み、感謝しようとせず愚癡(ぐち)ばかりを言っています。

阿弥陀仏の光明は、このような煩悩だらけの私たちにももらさず行き届き、いつでもどこでも

「あなたを救わずにはおかない。必ず仏にしますよ」

と、包み込んでいて下さいます。

阿弥陀様の教えとは、決して死ぬ時までの準備ではなく、これから先どのように生きるかを問いかけ、私の生きる喜びを教えてくださいます。

楽しい時も悲しい時も、元気な時も病気の時も、若い時も年老いてからも、死にたいくらい辛く苦しい時も、決して見すてず放されることのない大きな大きな阿弥陀様の願いの中に包まれている私に気づかせて頂き、生き抜く為の糧となる教えに遇わせて頂いたことを歓び、素直に

「南無阿弥陀仏」、

「南無阿弥陀仏」

とお念仏に心傾ける人生こそ本当の人生と言えるのではないでしょうか。

「親鸞聖人の他力思想」3月(前期)

では、阿弥陀仏は本願にいったい何を誓われているのでしょうか。

これも『教行信証』の

「行巻」

「信巻」

に引用されている善導大師の言葉です。

弥陀の本弘誓願は、名号を称すること、下至十声聞等に及ぶまで、定んで往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心有ることなし。

という文です。

ここで一番重要なことは

「定んで往生を得しむ」

という言葉です。

これは、親鸞聖人の独特の読

み方になります。

この読みから、阿弥陀仏は本願に何を誓っているかが導かれます。

南無阿弥陀仏を称える。

南無阿弥陀仏を聞くだけでもよい。

その者を必ず往生させるという誓いが本願なのです。

阿弥陀仏が、念仏を称えるものを往生せしめるのです。

ですから、本願の全体が

「念仏する者を往生させるというはたらきそのもの」

なのです。

そして、これと同じ意味が、親鸞聖人のお手紙(『末燈鈔』)の中に出てきます。

そこでは、

弥陀の本願とまふすは、名号をとなへんものをば極楽へむかへんとちかはせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候なり。

と述べられています。

「ふかく信じて」

の、その前が特に重要です。

「弥陀の本願とまふすは、名号をとなへんものをば極楽へむかへん」

と誓っておられます。

その名号を称えるものを極楽に迎えるといわれるのです。

そして、この

「弥陀の言葉を私たちは信じる」

ということになるのです。

阿弥陀仏は本願を成就されました。

その本願の心は、本願を一生懸命に信じて、一心に念仏を称える者を救うという誓いを建てられたのではないのです。

もし阿弥陀仏が衆生に対して、一心に信じて清らかな心で念仏を称えたものを救うと本願に誓われていたとすればどうでしょうか。

愚かな者は、誰ひとりとして本願によっては救われません。

「一生懸命信じなさい」

と誓われていれば、信じることの出来ないものは往生できないからです。

また

「清らかな心で念仏を称えれば救います」

といわれれば、清らかな心で念仏を称えることができない者は、救われないことになります。

したがって、不可能なことを本願に誓われるはずはないのです。

そうではなくて、阿弥陀仏は本願に

「念仏を称えなさい」

とのみ誓っておられるのです。

そのように誓って、その念仏によって救われなさいと願われているのです。

これが

「名号をとなへんものを」

救うという本願になります。

要は、念仏を称えるしかないのだということがわかることなのです。

それがまさに

「信じる」

ということです。

信じるという心は、まず教えがあって、教えの内容があって、救うというはたらきがある。

その真理が明らかになった時、信心が成り立つのです。

先に信心があって本願と関わるのではありません。

本願のはたらきが先にあって、信が出てくるのです。

「僧侶のみる現代宗教の状況」(上旬)自分が神さまであり、自分が仏さまでもある

======ご講師紹介======

天岸 浄圓さん(行信教校講師)

☆演題「僧侶の見る現代宗教の状況」

昭和24年、大阪府生まれ。

龍谷大学仏教学科卒業。

現在は、大阪府東住吉区にある浄土真宗本願寺派西光寺の住職をお務めになられると同時に、行信教校、行信仏教学院のご講師をお務めです。

西本願寺の仏教婦人会総連盟の講師、及び布教使として全国的にご活躍中です。

【行信教校】

大阪府高槻市にある浄土真宗本願寺派の僧侶養成のための専門学校。

真宗学・仏教学などの研鑽を行う専門学校。

3年制で、十分に学びを深めた者に入学が許可されます。

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私たちにとって、宗教というものがどのようなはたらきをするものであるかを考えてみましょう。

まず、宗教のひとつの形に、手を合わせる姿があります。

仏教でも神道でもキリスト教でも、手を合わせて拝みます。

この姿は、相手に対する尊敬の心を形で表したものであり、尊敬すべきものを自分以外に認めるという姿なんです。

仏教で言いますと、仏さまに向かって手を合わせ、頭を下げて仏さまを尊敬しているということになります。

尊敬すべきものを持つということを私なりに言わせていただくと、私自身が心のよりどころを持つということです。

これは

「もたれかかる」

という言葉ではなく、人間が生活を営んで行く上で必要な判断のよりどころを持つということです。

人生を歩み、生活を続けて行く中で、善悪の判断に迷うことはたくさん出てきます。

そのときに、これは本当に正しいことなのか、正しくないことだからやめておくべきなのか、そうした判断のよりどころを持たせてもらうことが、宗教の大切なはたらきなのです。

中には、お仏壇やお社(やしろ)を迎えて、手をパンパンと叩いておけば、それで宗教を持ったという感覚になる方も多いようですが、それは錯覚なんです。

なぜなら、それはよりどころを正しく持っている訳ではないからです。

そして、案外人間は自分以外のものによりどころを求めたがらない生き物です。

多くの方は、自分の積み重ねてきた経験をもとに、これはいい、これは悪いと判断することが多いのではないでしょうか。

経験をもとに判断することが、自分を納得させるのには一番たやすい道だからです。

また、最近よく聞くのが

「私は無宗教です」

という方です。

これは

「私は神さまとか仏さまというものを認めたくはありません」

という意思表示なんです。

この人たちにとっては、自分自身の経験や体験に基づく判断がよりどころとなっていますから、この方たちの信仰の対象は自分自身だと言えます。

これを私は

「自分教」

と呼んでいます。

つまり自分が神さまであったり、自分が仏さまなのであって、自分をよりどころにして生きている訳ですから、ある意味人間的な宗教です。

けれども、宗教は手を合わせて拝んだりする形式や行為だと思っていますから、それを宗教とは認めず

「無宗教」

というようなことを言っているんです。

このような場合、自分の都合が何よりも大事になり、すべての中心に自分を置いていきます。

すると、自分の思いが遂げられなくなったときには、遂げられなくしたものが悪となり、悪いものに対しては憎しみの感情を抱いていきます。

そして、それが行き過ぎると、現代社会で起こっている自己中心的な事件や出来事に発展していくのです。

このような感性、心の持ち方は、厳密には宗教とは言えないかもしれませんが、現在の日本で機能している現代宗教の一つの在り方ではないでしょうか。

神さまや仏さまといった、自分を超えたものに判断のよりどころを持つということは簡単ではありません。

したくてもしてはいけないと言われたときに、ブレーキをかけるということは、極めて難しいことだからです。

でも、そういうものがどこかにありませんと、人間はみな、わがまま気ままに生活を送るようになってしまうのではないでしょうか。

そういう視点で宗教のはたらきをもう一度認識していただきたいと思うのです。

「極楽浄土」

 仏のさとりによって造られた浄らかな国土、または将来さとりを開くべき菩薩の住むところを浄土といいます。

たとえば、薬師如来の東方浄瑠璃(じょうるり)世界、弥勒菩薩の兜率天(とそつてん)、観音菩薩の普陀落(ふだらく)、阿弥陀仏の極楽などをいいます。

したがって

「極楽」

といえば、阿弥陀仏の浄土をさします。

 なお、極楽といえば

「楽しみが極まる」

と書いてありますが、その意味でいうと、もっとも楽しみの多いところということになるのかもしれません。

けれども、阿弥陀仏の浄土、すなわち

「極楽」

は最高に楽しいところということではありません。

 いわゆる

「苦楽を超えたところ」

というのが、極楽の意味するところです。

もし苦楽の世界の中で、いちばん楽しみの多いとろことなると、それは所詮迷いの世界の中でのことに過ぎません。

そうではなくて、極楽とは、苦楽を超えるということです。

 源信僧都の

『往生要集』

の中に、

「苦といい楽といい、共に流転を出でず」

という言葉があります。

流転ということは、言い換えると

「我を忘れる」

「我を失う」

ということですが、私たちは苦しい状態にあっても、

「愚痴を言う」

という形で我を失っています。

それと同時に、楽しい状態にあっても、その楽しみの中に我を忘れて、うかうかと過ごしてしまいがちです。

 そこに苦しみといい、楽しみといっても、いずれにせよそういう

「我を忘れた在り方」

というものから抜け出せないでいます。

そうした私たちの中に、我を呼び戻す世界として

「極楽」

という言葉があるのだといえます。

 同じような環境にあっても、そこに大きな問題を荷なって、生き甲斐をもって生きている人もあれば、逆にただ愚痴ばかり言って世の中を呪っている人もあります。

つまり、この世の中には苦しい世界や楽しい世界があるのではありません。

ただ与えられている状況を、自分の思いによって苦しいものと感じたり、あるいは楽しいものとして受取り、生きているという事実があるだけです。

 それに対して、極楽というのは苦楽をありのままに受け止めるということです。

苦といい、楽といい、そのいずれをもそのままに受け止めていける世界を極楽といいます。

一方、苦楽ともに、それによって自分を忘れていくのが迷いの世界です。

 また、極楽とは既に述べた通り

「浄土」

のことですが、浄土とは

「清浄の土」

という意味です。

「清」

とは、そこにいるすべてのものが、満足している在り方をいい、

「浄」

とは苦しみにおいて常に自らの事実を明らかに受け止め、楽しみにおいて他の人と共に出会っていける世界ということで、言い換えると自分の事実をどこまでも引き受けていける場所を持つと同時に、すべての人びとと喜びを共に分かち合っていける心かせ開かれてくるということです。

『仏の言葉は 時代をこえて ひびく』

仏の言葉とは、真理に目覚めた方の言葉ということです。

つまり、自然にあるそのままの姿をありのままに見ることの出来る智慧を持つ方の言葉ということです。

例えば

「諸行無常」

という仏語(真理)があります。

これは、あなたもわたしもすべてのものが変化していくということです。

お釈迦さまの時代の人も平成の今を生きる人も、また日本の人であっても遠い外国の人であっても、さらに人だけでなくこの世界の万物が移り変わっていく存在としてあるということです。

お釈迦さまがすべてを捨てて出家されるきっかけとなったのが、老・病・死という

「無常」

の現実との出遇いであったといわれています。

老・病・死は、現代に生きる私たちにとっても、自ら引き受けていかねばならない厳しい現実です。

いかに科学が進んで、ものが豊かで便利になっても、年を取らない人はいません、どれほど医学が進歩しても病はなくなりません。

また、いくら長寿社会になっても、ひとりとして死を免れることも出来ないのです。

ところが、私たちはこの真実になかなか気付き得ません。

自分の老・病・死を認めたくありませんし、それどころか何かにすがることによって、何とかなるのではないかとして、仏さまや神さまにすがりつく人も少なくはないようです。

私たちは、この

「無常」

という厳しい

「いのちの現実」

に気付き、目覚めていくことが大切なのです。

仏の言葉は時代をこえて、わたしを真実の世界へと呼び覚まします。

そこに道を求める心も生まれます。

さらに、仏の言葉は私の進むべき道(救い)を明らかにして下さいます。

だからこそ、わたしのいのちに語りかける仏の声は、いつの時代でも人々のこころに響いてくるのです。

「親鸞聖人の他力思想」2月(後期)

次は、親鸞聖人のお手紙です。

今までの内容が、お手紙で説明されることになります。

浄土真宗のこころは、往生の根機に他力あり自力あり。

(中略)まづ自力と申すことは、行者おのおのの縁にしたがひて、余の仏号を称念し、余の善根を修行して、わがみをたのみ、わがはからひのこころをもて、身口意のみだれごころをつくろい、めでたうなして浄土へ往生せむとおもふを自力と申すなり。

また他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひの中に、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。

(『末燈鈔』)

この文では、自力の意味はよくわかります。

自分の力でいろいろな行をし、自分の心であれこれ考えて、自分の力で往生しようとする行為が度力だからです。

それに対して、

「他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひの中に、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり」

と述べられますが、自力が明確に述べられているのに対して、他力とはどういうことであるかすぐに理解することは容易ではありません。

この他力の意味は、阿弥陀仏が本願に

「一切の衆生を救う」

という誓いを建てておられる。

その本願に誓われている阿弥陀仏の力を衆生が信楽すること、つまり阿弥陀仏の力を信じることが、他力だといわれているのです。

そうしますと、

「他力本願を信じること」

が他力になります。

それはどのようなことかといいますと、自分が本願とかかわることを除いて、他力ということを論じても無意味だということです。

 自力とは、自分で一生懸命に行をして仏になることです。

一方、他力とは、もともとは阿弥陀仏が一切の衆生を救おうとしておられる本願力のことですから、その救おうとしておられる本願の自分が帰命すること、その本願を信じて、本願力に乗じることが、また他力になると述べておられるのです。