投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

「仏教を楽しむ」(下旬)「聞く」というのは最も大事なこと

 私は八年前から、東京の八王子にある日本工学院という専門学校で、演劇科の講師を勤めさせて頂いています。

その専門学校に通っている俳優志望、声優志望の若い人に教えるときいつも気になるのは、会話が非常に下手になってきているということです。

言葉というのは、俳優がセリフをしゃべる時に一番大事なものです。

そのセリフを上手に言うためには何が必要かわかりますか。

 それは

「どこで」

「いつ」

「だれに」

「なぜ」

「なにを」

の五つです。

これさえちゃんと分かっていれば、セリフなんて簡単なんですよ。

それが、みんなこの内のどれかが欠けてしまっているので、なんだかよく分からない言い方になってしまうんです。

 そして、相手のことを話すことをきちんと聞いていれば、自然に会話というものは成立するんです。

私たちはともすれば、自分の主張が強すぎますから、相手の話を聞きません。

それどころか、相手に話させないという方も最近はよく見かけます。

 かつて『雲のじゅうたん』というNHKの朝の連続テレビドラマ小説がありました。

その主演の浅茅陽子さんは非常に芝居が上手でした。

あるとき、どこでその技術を学んだのか聞いてみましたら、

「以前指導を受けた演出家の教えで、とにかく相手の話をよく聞く。

ちゃんと聞けたら、自然と言葉は出て来るということだけです」

とおっしゃったんです。

 私は、それを聞いて感動しました。

彼女が言うように、本当に素直に相手の言葉を聞いていれば自然にセリフが出る。

これこそ俳優の基本中の基本です。

また、私たち浄土真宗でも

「聴聞」

という言葉がありまして、

「聞く」

というのは最も大事なことだと強調されております。

 それから、演劇を芸術とした場合、一番必要となるのは表現力です。

すなわち、演技とは人の心の中の葛藤(かっとう)を喜怒哀楽の感情で表現することなんですね。

いかに表現して、いかに観客に伝えるかが私たちの仕事です。

 この喜怒哀楽を表すレッスンをするとき、今の若い人たちは学校教育の影響もあるのでしょうが、頭では理解できても体で表現することが出来ないようです。

生徒に聞きますと、何か特別なことをしたらいじめの対象になるので、あまり目立たないようにしていると言います。

 だとすると、若い人たちが気の毒に思いますね。

むしろ、それを出すのが私たち俳優や声優の仕事なんですから。

『新しいお仏壇には“魂”を入れてもらわないとダメ?』

「お魂入れ」

とか

「お性根入れ」

とかという言葉を聞いた事があります。

新しくお仏壇をお迎えした時に

「仏さまに魂を入れる」

という意味のようです。

また、その反対に

「お魂抜き」

とか

「お根性抜き」

という言葉で、古い仏壇から魂を抜き取るという考え方もあるようです。

しかし、これらの考え方は浄土真宗のお仏壇に対する考え方とは一致しません。

そもそもお仏壇とは、阿弥陀様をご安置する処です。

決して、ご先祖の方々の魂が宿るところではありません。

もし、そうであるならば、外見は仏壇であっても、内実は先祖壇ということになってしまいます。

お浄土の荘厳な様子を象徴的な形で表したのが、お寺の本堂の内陣(阿弥陀様がご安置してあるところ)です。

そして、その内陣を縮小して各ご家庭に阿弥陀様をお迎えすることができるようにしたのがお仏壇なのです。

浄土真宗では、新しいお仏壇を購入して阿弥陀さまをお迎えした時の法要を、

「入仏法要」

とか

「お紐とき」

と言います。

入仏法要とは、仏さまに魂が入るという事ではなく、仏さまをお迎えしご安置できた事を慶び、お徳を讃えるという事で、お紐ときとは、ご本山からお迎えした掛け軸のご絵像の紐をといてお仏壇におかけするというところからきています。

したがって、阿弥陀さまのご絵像は仏壇店からではなく、京都のご本山・西本願寺からお迎えしましょう。

その際は、所属しているお寺にご相談下さい。

また、その時にあわせて入仏法要の日時についてもご相談なさると良いでしょう。

「痴呆になったお婆さんが、オムツに漏らした自分のウンコを取り出し、お仏壇に供えて

「痴呆になったお婆さんが、オムツに漏らした自分のウンコを取り出し、お仏壇に供えてたんだって…。」

 いつ聞いた話だったでしょうか…。

その頃、苦笑いしながら

「あぁ、自分はそうはなりたくないな」

と思いながら、聞いていたことがありました。

 しばらく経って、その話を思い出す機会があり、その時は

「人間は、常ではないんだなぁ。

どんな人もいつかは壊れてしまうんだなぁ…。

よく人は地位や名誉といったものに裏切られていくというけれども、実は“老・病・死”と、コントロール出来ない自分自身に裏切られていくんじゃないか。」

そう味わいました。

 そして、最近思うんです。

オムツのウンコを供えた行為は、一見眉をひそめてしまうような行為ではありますが、よくよく味わってみますと…、毎日欠かさなかったであろう、お仏壇のお給仕の習慣が、無意識にそうさせたのではなかったのでしょうか。

 言い方は辛辣かもしれませんが、私たちはお婆さんのいろんな機能は壊れてしまったとみなします。

しかし、何も分からなくなったお婆さんの心の奥底には“ただ、ただ、お仏壇に・仏さまに、お給仕…”これだけは、確かに刻まれていたのではないでしょうか。

 これって凄くないですか? 何も分からなくなってしまっても、お婆さんには“壊れることのない世界”があるんです。

 

 こお婆さんの姿から思うのですが、人はただ壊れて亡くなるだけではないようです。

もし、お婆さんの全ての機能が働かなくなり、いのち尽きたとしても、きっとお婆さんは、壊れることのなかった世界に帰って往かれることでしょう。

「地獄」

「地獄」

という言葉は、サンスクリット語

「ナラカ」

の訳語で、元来は幸いのない、苦しみのみの世界を意味していました。

それが、中国に至り地底の獄界として表現され、凄惨なイメージが膨らみ、さらに日本に至って因果応報の獄界として定着したようです。

また中国の唐の時代に道世という人が編集した『諸経要集』という書物には、地獄の

「地」

は、

「地とは底なり、いわく下底」

つまり、私たちの生命のもっともどん底、存在のもっとも根底ということで、

「獄」

とは

「自在を得ず」

という意味だと説いてあります。

「獄」

という言葉には

「拘局」

という意味があります。

「拘」

とは

「拘置する」。

引き止められるとか、しばりつけられるということです。

「局」

「局限」。

一つの状態に押し込められということです。

つまり

「獄」

とは、一つの状態に押し込められ、そこに縛りつけられているということだといえます。

そこに

「自在を得ず」。

つまり、ある意味で自由気ままに夢をのばしていく、そういう私たちの心をいちばん深いところから縛りつけている、私を現にいまこのような在り方に縛りつけている、そういうものを表す言葉が、

「地獄」

という言葉であると言えます。

『仏の言葉は 時代をこえて ひびく』

 仏弟子あるいは仏教徒とは、どのような人のことを言うのかと考えてみますと、それはおそらく

「仏の言葉にしたがって生活していくもの」

という言い方が出来るようです。

私たちは、日々それぞれに生活していく中で、誰もがいろいろな問題にぶつかり、どうして生きていけばよいのか戸惑い悩むことがあります。

そういう時に、常に仏の言葉に耳を傾け、仏の言葉によって自分の道を選んでいく、つまり自分の生きる依りどころとして、仏の言葉を持っている人を仏弟子、あるいは仏教徒というのです。

ただし、

「仏の言葉」

といいましても、今日

「仏の言葉」

といわれるものは

「八万四千の法門あり」

と言われますように、限りなく多くの経典が伝えられています。

そうしますと、仏の言葉にしたがって生きるということは、たくさんの経典の言葉を全部学んでいなければ仏教徒とは言えないのか、あるいはまた逆に、そういうたくさんの言葉さえ知っていれば仏教徒と言えるのか、というような両方の疑問がわきあがってきます。

 もし、八万四千の法門の言葉の全てを身につけていなければ仏教徒とはいえないということであれば、おそらく仏教徒といえる人は誰もいなくなるかもしれません。

その反対に、非常に才能のある人がいて、そのほとんどの言葉を身につけることが出来たとしても、ただそれだけをもって仏教徒であるとはまた言い得ないと思われます。

 お釈迦さまがこの世に出られ、真実の法に目覚め、その法を説きひろめられてから、約二千四百年余りの歳月が過ぎました。

その間、数え尽くすことのできないほど、多くの仏弟子方が生まれられました。

そして、それぞれの時代・社会に、仏法を明らかにし、伝えてゆかれました。

 お釈迦さまは、仏陀として人々に教えを伝えていかれるようになられてからも、常に

「問うこころ」

を、問い続ける心を尊び、大事にされました。

言い換えれば、迷ったり、悩んだりする心を受け止め、そういう人々の迷いや悩みにどこまでも寄り添っていかれたのです。

そして、その人自身が真実に目覚め、真実に出遇っていくことを願われたのです。

 いつの時代でも、人が人間として生ききり、死にきっていける智慧と情熱を求めようとする時、仏の言葉はその問いを受け止め、その問いに寄り添い、確かな方向性を明らかにしてきました。

それが、真実を語る言葉であるが故に、これまでも、そしてこれからも仏の言葉は人々に生きる勇気を与え続けることと思われます。

「親鸞聖人の他力思想」2月(中期)

次は親鸞聖人ですが、『教行信証』の

「行巻」に、

この行信に帰命すれば、摂取して捨てたまわず。

故に阿弥陀仏と名づけたてまつる。

これを他力という。

と述べておられます。

 

 

「この行信に帰命すれば」

「行信」

とは、南無阿弥陀仏のことです。

ここで私たちを救おうとしている阿弥陀仏の心と、阿弥陀仏のはたらきに

「帰命すれば」

という私の心が問題になります。

「すれば」

とは、

「したならば」

という仮定の意味ではなく、

「帰命するそのときに」

という意味です。

阿弥陀仏のはたらきである

「行」

「信」

に帰命するそのときに、阿弥陀仏はその人を摂取して捨てたまわない。

その仏さまを、阿弥陀仏と名づけるといわれるのです。

 したがって、摂取するとは、帰命しているその人を救う力のことで、それが

「他力」

だと説いておられるのです。

もう一度いいますと、一般に私たちは

「他力」

を問題にするとき、自分とは関係なく、向こう側に仏さまの力をおいて眺めていますが、親鸞聖人の他力思想とは決してそのようなものではありません。

常に、私と阿弥陀仏の関係を述べておられます。

阿弥陀仏に帰命するとき、帰命しているその人を救われるのが阿弥陀仏です。

したがって、私が阿弥陀仏を信じるということと、阿弥陀仏が私を摂取するということがそのまま重なる訳で、この道理を離れては、浄土真宗は成り立ちません。

言い換えると、阿弥陀仏に帰命するその人を救われる仏を、阿弥陀仏と呼ぶのであって、その衆生を救う力をまさしく

「他力」

というのです。

 そこで親鸞聖人は、同じく

『教行信証』

「行巻」

 他力というは、如来の本願力なり。

と、説いておられます。

 衆生を救っている力、それが

「他力」

なのですが、その他力こそが如来の本願力であると述べておられるのです。