投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

「仏教を楽しむ」(中旬) 黄門さまにお尋ねしました

 役を演じるのは、

「他人の人生を追体験をするようなものじゃないか」

と聞かれたことがあります。

これは、部分的にはそうだと思いますが、作家や作者が書いた登場人物に、自分の感性や想像したことを肉付けして、新しい人格を作り上げるのが私たちの仕事ですから、ドキュメンタリーのように、その誰かの人生を追体験する訳ではないんです。

 先日、京都で仕事をしていたとき、水戸黄門役をしておられる里美浩太朗さんがいらっしゃったので、

「里美さんはどう思われますか」

と聞いてみました。

すると里美さんも

「俺たちは、想像力で勝負しているんだから、他人の人生を追体験することではないよ」

とおっしゃいました。

役を演じるということは、その役の性根、人格をつかむことになるという訳ですね。

 また、最近のテレビ番組や映画などについて思うことですが、私たちの仕事は主に言葉と体を使って、作家や作者の世界観や哲学などをドラマという形でお客さんに伝え、また感じてもらうことです。

そこで重要になるのは、やはり

「やりとり」

ということです。

つまり、相手との言葉の受け渡し、セリフのキャッチボールですね。

 中には、篤姫のような高視聴率のものもございますが、概して私たちの年代からは、

「昔のドラマの方が良かった。

最近のものは面白くない」

という声をよく聞きます。

私はカメラや録音機の発達によって、逆に役者のセリフ力、演技力が低下してきているからじゃないかと思うのです。

 言葉のやりとりには相手がいますが、特に若い人たちは独り言のようなのが多いんですよね。

一方的にしゃべって、片方にきっかけがきたら、また一方的にしゃべるんです。

もちろん、話は進みますから、それでもドラマは成立します。

でも、私たちが見たいものは、例えば愛する男と女がいて、そこで口ごもるとか、不思議な間や物言いがあるとか、そういうやりとりから心の葛藤(かっとう)などを想像して楽しめるものだと思うんです。

 その言葉が、もう信号化されてしまっています。

これは、携帯電話やメール、ネットが発達して、相手を見ずに一方的にしゃべっているせいではないかという気がします。

それで、これも黄門さまにお尋ねしましたら、里美さんも

「俺もそう思う。

水戸黄門というドラマを撮影していても、そのセリフは誰に言っているんだということが多々ある。

正に、君が言うように、世の中全部が言葉に対して鈍感になっている。

ましてや俳優なのに、ひどい状態だ」

とおっしゃっておられました。

 言葉が本当に面と向かって語れていないということは秋葉原事件の犯人や、元厚生事務次官殺害の犯人などが共通して言っている

「孤独だった」

ということに表れているように思えます。

一人でいたら、孤独は当然です。

それでも、相変わらず携帯電話でコミニュケーションをとっている訳でしょう。

それでは、ますますそういう孤独感が募っていくんじゃないかと思いますね。

皆さんも、会話をする時は、相手の表情を見て、相手の音声を聞いてお話になるとよろしいかと存じます。

『お通夜の時にお酒を飲むのはどうしてですか?』

一般的に通夜の席では

「通夜振るまい」

といって、お参りに来られた方々と共に食事やお酒を飲みながら個人を偲ぶという風習があるようです。

 しかし最近のお通夜の席では、遺族や親族の方が、お通夜の法要よりも、その後のもてなし方に神経を注ぐ傾向が見られます。

 お参りに来られた方一人一人にお酒を注いだり、なんやかんやと慌ただしく動き回っておられる遺族や親族の姿を少なからず見かけます。

けれども、これでは故人を偲ぶどころか、ただの宴会の接待役と変わりがありません。

お通夜は、浄土真宗の門信徒として故人を偲ぶとともに、故人の死を通してお念仏に出会え、生かされている自分をしっかりと見つめる機会にしたいものです。

 お通夜は、あくまでも仏事なのですから、私が仏様のお言葉に耳を傾け、報恩感謝のお念仏をあじわう仏縁であるという事を忘れないで下さい。

 親鸞聖人は

『お酒には「忘憂」の名がある。

どんな慰めの言葉も届かない悲しみのそこに沈む人を前にしたときは、ただ黙ってそばに座り、お酒を飲み交わすのがよい』

と言われます。

お通夜の席では、遺族・親族がお参りに来た人にお酒を勧めるのでではなく、むしろ大切な人を失って悲しんでいる人に勧めるのが本来の在り方であったように窺えます。

「煩悩」

「煩悩」

という言葉は、サンスクリット語のクレーシャの漢訳語で、仏教と共に伝わってきた言葉で

「執着」

とか

「心を苦しめ損なうもの」

とかを意味する言葉です。

 仏教では、覚り(真理真実への目覚め)を妨げる根本的な心の惑い、すなわち自分の内から起こり漏れ出て、自分自身を迷わし悩ませる自己の欲心を煩悩といいます。

 よく言われる

「子煩悩」

という言葉も、親である心にとらわれて、子に迷わされ、子に惑うことを言う意味では、ほぼ仏教の原意に沿った使い方であると言えます。

 迷いと惑いの根本原因は、親自身、自分自身にあるのであって、子どもの方にあるのではありません。

それを子どものせいにしてしまったのでは、それこそ子どもの方は迷惑千万です。

 

「煩悩極まりなし」

と言われ、また除夜の鐘の百八つの鐘は、人間には百八の煩悩があるので、それらをことごとく滅ぼすために撞くともいわれます。

仏教で

「根本煩悩」

といわれるのは、

貪(とん)、

瞋(しん)、

痴(ち)、

見(けん)、

疑(ぎ)、

慢(まん)

の六種の煩悩です。

 一つめの貪は

「貪欲(とんよく)」。

「人やもの事に対して、むさぼり、執着する欲心」。

 二つめの瞋は

「瞋恚(しんに)」。

「人や物事に対して、腹を立て、憎み、忌み嫌い、うらむ欲心」。

貪が

「好き心」

と言えるならば、瞋は

「嫌や心」

と言えます。

 三つめの痴または癡は

「愚痴(ぐち)」。

「真理道理に暗い無知、愚かさ」。

この痴が煩悩の根本で、ここから貪も瞋も起ります。

「貪瞋痴」

の三つは、人間という存在に根ざす根本の煩悩と見られ、特に

「三毒」

と呼ばれています。

 四つめの見は

「五見」。

「無知から生じる誤った五つの見解、判断」。

例えば、

「自分」

とか

「自分のもの」

という見解、物事を苦とか楽とか有とか無とか、両極に分け決めつける見方、また、自分の見解だけが正しいとする判断などです。

 五つめの疑とは、

「真理道理を疑い、仏の教えを疑うこと」

で、真実の確信を得ず、自己に迷う在り方をいいます。

 六つめの慢は、

「自分を誇り、他に対して高ぶる妄想」

です。

この中には、自己を誇る

「我慢」

もあれば、一見卑下しながら誇る

「卑下慢」、

真理を知らないのに知ったと思い込む

「増上慢」

もあります。

先月、父の一周忌法要を勤めさせていただきました。

先月、父の一周忌法要を勤めさせていただきました。

一年前の1月16日くしくも親鸞聖人の祥月命日と同じ日に浄土へとかえらせていただいたことです。

この日は、私にとって親鸞聖人を偲びつつ、同時にまた父を偲ぶという忘れることのできない尊い日になりました。

本来ならば、父の一周忌法要は祥月命日である1月16日に勤めるべきでしょうが、お参りいただくお寺さんも、親戚のお寺もそれぞれ親鸞聖人の祥月命日のご法要をお勤めされるということもあり、引き寄せて勤めようと思っていました。

しかし結局なかなかそれぞれの都合が合わず、2日遅れの1月18日にお勤め致しました。

18日は日曜日だったので、一般にお寺は法事等で忙しい日です。

そこで、できれば土・日曜日をはずしてと考えていたのですが、にもかかわらず敢えてその日曜日にお勤めしたのは、孫たちの

「是非私たちもお参りしたい」

という一言があったからです。

集まった孫は全員で0歳から20歳までの合計9名です。

20歳の孫は、小さい頃からよく遊びに来ていて、また初孫ということもあり、特に父にかわいがられていたので、おじいちゃんへの思いも深かったことかと思われます。

一方0歳の孫は、父が亡くなって2週間目に生まれた私の子です。

1年前、父に子どもの出産予定日が1月28日であることを告げると、父は

「そうか…。

それまではちょっともたんなぁ」

と寂しそうに話していたことが思い出されます。

父と私の子は、残念ながらこの娑婆世界で会うことができませんでしたが、またいつのときにか、必ずお浄土で遇わせていただくんだなぁと思うとき、寂しさ・悲しみだけで終わることのない世界が開けてくるように感じることです。

父の一周忌に際し、お参りしていただいた親戚・ご門徒の皆様、お一人ひとりとお話をさせていただきながら、改めて父はこんなにも多くの方々に支えられて、これまでの人生を過ごさせていただいていたんだなぁと、そのご縁の有り難さを深く深く感謝したことです。

『仏の言葉は 時代をこえて ひびく』

お釈迦様は様々な人生の苦しみの解決の道を求めて出家し、修行の旅に出られました。

厳しい修行や瞑想の後におさとりを開かれて、一切の真理・真実に目覚められました。

(仏陀というのは「(真実に)目覚めた人」の意)

真理・真実というものは時代や地域、世間の価値観の変化を超えて普遍的な変わりようのない唯一不二のものです。

 お釈迦様はおさとりを開かれた後、旅をしながら出会う人、道を求める人にその教えを説いて、一人一人がおさとりをひらいて真実に目覚めるように説法をされました。

その説法は話される相手に応じて百人百様、千人千様であったと言われています。

 お釈迦様が亡くなられた後、その説かれた尊い教えが正しく後世に伝わるようにと、お経という形で残されました。

今私たちがお釈迦様の説かれた仏教に出会えるのは、そのお経に書かれたお釈迦様の言葉によってであります。

お経は当時の言葉でスートラ(sutra)と言いますが、三蔵法師によってその働きから

「縦糸」

という意味の

「経」

に訳され、スートラという音を

「修多羅」

と漢字で表されました。

 縦糸という意味の

「経」

は、私たちの人生を貫く真実の教えを表し、私たち一人一人の一生を貫いて大切なことを知らしめるものという意味を含んでいます。

また修多羅は、正信偈に

「依修多羅顕真実(え・しゅ・た・ら・けん・しん・じつ)」

(修多羅によりて真実をあらわす)

と出てくるように、お釈迦様の説かれた言葉によって”今””私”が真実に遇うことができるのです。

 この世の一切は無常(常に生じたり、滅したり、変化し続けている様)なる存在であればこそ、時と空間を超えて変わらない真実が、真実の言葉によって届けられていることを大切に思いたいものです。

「親鸞聖人の他力思想」2月(前期)

 そこで、親鸞聖人の書物から

「他力本願」

という言葉が出てくる文について考えることにします。

まず、

 ただこれ自力にして他力の持つなし。

(曇鸞『浄土論註』『行巻』引文)

という文です。

これは『教行信証』の

「行巻」

に引用されている曇鸞大師のお言葉です。

曇鸞大師という方は、私たちが仏になるには、阿弥陀仏の力にたよらねばならないということを基本的に明らかにされた方です。

そのとき、この世で、なぜ私たちは仏道を歩むことが困難なのか、その理由を五つの項目によって説明しておられます。

 その第一は、たとえば二人の行者がいて、一生懸命に行にはげんでいるとします。

その内の一人の行者は

「自分はこんなに素晴らしい行をしている。

自分の行いにしたがった者は、このような功徳が得られる。

また、自分の行にしたがえば本当に素晴らしいご利益を得ることができる」

と吹聴しているとします。

それに対してもう一人は、一生懸命にただ黙々と行をしています。

 どちらも仏教の行者のように見えるとしますと、この場合人々はどちらの行者の教えに從うでしょうか。

ただ黙々と行をしている人のところに行くのではなく、

「自分の教えは素晴らしい。

この教えに従えば、必ずあなた方はご利益を得ます」

と説く方に、多くは関わってしまうのです。

 ご利益を説く方が偽物なのですが、私たちは現世の功徳が得られる偽物の方に走ってしまうのです。

そりとき、もしお釈迦さまがいらっしゃって

「こちらは正しい」

「こちらは間違っている」

と教えてくだされば、人はお釈迦さまの教えに従って、その偽物のところにはいかないかもしれませんが、仏さまがいらっしゃらなかったら、やはりご利益の得られる方に行ってしまいます。

 これが人間なのです。

そういう外道の行がいかにも仏教的に洗練されると、本当の仏教は潰れてしまうといわれるのです。

第二は、今度は自分だけの功徳を求めている者ばかりが集まっている社会では、他のためにするという尊い行いは消えてしまうということになります。

 第三は、仏道は深い反省をもたらす教えですが、反省のない者ばかりの社会では、真の仏道は成り立たなくなります。

 第四は、見せかけの善を問題にします。

例えば、政治に携わる人が見せかけの善をひけらかして、

「これが正しいのだ」

といって社会が支配されますと、本当の清らかな善はつぶされてしまうことになります。

お釈迦さまが亡くなって無仏の時代になると、そのような間違った教えがはびこりますので、仏道は非常に難しくなるといわれるのです。

 そして、最後に説かれているのが、この

「他力の持つなし」

です。

どういう意味かといいますと、仏になるためには、自分の力のみでは不可能だということです。

私たちは阿弥陀仏の本願力にならない限り仏にはなれません。

けれども、その仏力をだれも頼まないので、私たちが仏になるのは難しい。

これが

「他力の持つなし」

の意味です。