投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

「仏教を楽しむ」(上旬)私の芝居を心の目で見てくれて、ありがとう

======ご講師紹介======

石田太郎さん(俳優・声優浄土真宗本願寺派乗敬寺住職)

☆演題「仏教を楽しむ」

昭和19年、京都市に生まれる。

グランパパプロダクションに所属する俳優で、数多くのテレビドラマ、映画に出演。

NHK大河ドラマの常連俳優であり、昭和61年の「いのち」、昭和62年の「独眼竜政宗」など、15作品に出演。

声優では「新刑事コロンボ」のコロンボ役など洋画の吹き替えや、アニメの作品も多数。

また、平成20年3月に西本願寺より出版された、アニメ「親鸞さま」では法然聖人の役を演じておられます。

==================

 お釈迦さまは辛い現実の人生を乗り越えるために

「八正道(はっしょうどう)」

を説かれました。

その中の

「正見(しょうけん)」

「正思惟(しょうしゆい)」

について、役者だった私の親父がお世話になった森繁久弥さんのエピソードを例にお話したいと思います。

 森繁さんが主演されたミュージカルに、日本ではもう八百回以上公演された

『屋根の上のバイオリン弾き』

があります。

これはキリスト教ロシア正教が国の中心だった時代、とある貧しい集落を舞台に、ロシア人たちに追われて放浪の旅に出なければならなくなったユダヤ人夫妻を主人公とした悲しいお話です。

 ある九州公演で、森繁さんはそのユダヤ人一家のお父さんの役で舞台に立ちました。

幕が上がり、お芝居を始めようとして、ふと最前列の真正面のお客さんを見ますと、若い娘さんが眠っていたんです。

森繁さんはそのとき

「最初から眠るなんて失礼なやつだな」

と思いながらも芝居を続けました。

 途中、何度か様子を見ても眠ったままでした。

するとだんだん腹がたってきて、何とかしてその娘さんを起こそうと思われたそうです。

それで若いダンサーの人たちと一緒にいろいろ試してみましたが、結局エンディングを迎えるまで起こせませんでした。

 その後、再び幕が上がりカーテンコールになったとき、森繁さんは正面で立ち上がり、涙を流して拍手している例の娘さんを見つけました。

それで、彼女は目が見えなかったということに気がついたんです。

森繁さんは彼女に舞台の上で花束を贈り、

「私の芝居を心の目で見てくれていたんだね。

ありがとうよ」

と心の中で言われたのだそうです。

 

「この人は、自分がどんな芝居をしても寝ていると思い込んで、その見方にとらわれてかたくなになり、他の解釈が出来なくなってしまった。

だから物事は、一方的に見てはいけない。

横からも上からも下からも、裏側からも見る。

そして自由自在に、こだわりを離れて物事を見直し、考え直すことが大切であることをその一人の少女から教えられた」

と、森繁さんはお話になりました。

これこそ、誰でもわかる

「正見」

「正思惟」

の一例ではないでしょうか。

 私の場合、若い頃に神奈川県の横須賀にある大きな劇場で、いろんな学校の生徒さんたちに芝居を見て頂いたことがあります。

ところが、芝居が始まって時間が経つと、集中力が切れたのか、少しずつ騒めいてきて、雑然とした空気になってきました。

私は、とうとうたまりかねて、終盤の一番いいところで、思わずお客さんに

「静かにして下さい」

と言ってしまいました。

すぐに

「しまった」

と思いましたが、それで最後までしらけた雰囲気のままで終わってしまいました。

 その後で、学校の生徒さんの代表の方が何人か来られて

「せっかくいい芝居をして下さったのに、僕たちのせいであんなことになってしまいました。

ごめんなさい」

と謝られました。

私は、その言葉を聞いて、恥ずかしくて冷や汗が出ました。

生徒さんにも、一緒に出ていただいた先輩俳優や仲間たちにも、大変申し訳ないことをしたという記憶がございます。

 大きな劇場で静かな芝居を二時間。

大人ならともかく、高校生では無理な話ですよね。

むしろ最後の方までよく我慢してくれたと、感謝すべきだったんです。

それなのに、思いやる余裕もなく、あんなことを言ってしまったことに赤面しました。

それも物事を正しく見、正しく判断する力が不足していたからだと、今は思います。

『一蓮托生』

一般的には、二人以上の者が、運不運にかかわらず行動を共有することの意味で使われますが、現在では何か悪事をはたらいて、その罰を共に受けるような時に使われることが多いようです。

一蓮托生とは、阿弥陀仏の極楽浄土で同じ蓮華の上に生まれることを指しています。

同じ信心で結ばれている人たち、夫婦、友人などが、来世に極楽浄土で一生に暮らしたいと願う時、また、この世で結ばれない恋人同士が、来世こそ添い遂げようと願う時などに使われる言葉のようです。

ところが、いつの間にか、善悪に関係なく、行動を共にする意味に用いられるようになってしまいました。

『今を、一日を、一生を大切に生きる』

私が中学生の時と記憶していますが、国語の授業で

「少年老いやすく学成り難し、一寸の光陰軽んずべからず」

という漢詩の紹介があり、同時に

「時は金なり」

という諺(ことわざ)も教えてもらったように思います。

「時間はお金と同じように大切なものだから、無駄に使ってはいけない」

との先生の説明に、その時はあまりピンと来ないで、

「そんなものなのかなー」

と、漠然と受け止めていたものです。

人生は、先を見ると長いように思えますが、過ぎ去った日は本当に早く感じるものです。

例えば10年先と言うと、随分先のことのようですが、10年後の今は

「あっという間だったなー」

というのが、私たちの実感なのではないでしょうか。

過ぎ去った時間は、決して戻ってはきません。

だからこそ、今この現在を大事に生きることの尊さをこの言葉は教えているのではないでしょうか。

私は、

「時間=いのち」

と置き換えてもいいのかなと思います。

誰にでも平等に与えられている

「時間」

これは止めることも溜めることも出来ません。

確実に一秒、一分、一時間、そして一日、一月、一年を刻み続けるのが時間です。

このことを仏教では“無常”という言葉で教えています。

この世に生まれて死んでいくまでのいのちの営みを、どのように使っていくのか、それはまさにあなた自身の心がけ次第とい言って良いでしょう。

そうは言っても、なかなか充実した有意義な時間を過ごすことは難しいですね。

ついつい

「明日があるさ、あさってがあるさ」

といった思いで、怠け心の自分に負けている現実にがっくりすることもしばしばではないでしょうか。

けれども、せっかくこの世に生を受けた身です。

いのちの炎を燃やし尽くして生きる道にいま自分はたっているのかどうか、そういうことを一年の始まり月に

「問い」

として持っていただけたら…と願っています。

「親鸞聖人の他力思想」1月(後期)

そこで、改めて毎日新聞の記事をもう一度問題にすることにします。

この記事には

「浄土真宗では、阿弥陀仏への感謝の心で念仏を称えるとき、浄土に往生して仏になることが決まるとされる」

と書かれています。

もし、この記事の中で唯一間違っているところがあるとすると、この箇所になります。

浄土真宗では、誰でもすぐに

「報恩の念仏」

「感謝の念仏」

が大切だといいます。

しかし重要なことは、私たちにとって

「自らの往生が定まること」

です。

阿弥陀仏の救いを信じ、往生が確かになることが何よりも大切なのです。

それが

「獲信」

なのですが、私たちは獲信してはじめて感謝の念仏を称えるのです。

阿弥陀仏は私たちに

「念仏せよ、救う」

と誓われたのであって、決して

「感謝の念仏を称えよ」

と誓われたのではありません。

したがって、救われていることが明らかになったとき、自然に感謝の心が出てくるのだといえます。

まさに報恩の念仏とは、救われているからこそ称えることができるのだといえます。

信心もなしに、阿弥陀仏と向かい合い、無感動・無関心・無気力でいる者が、感謝の念仏など称えられるはずはありません。

少なくとも、阿弥陀仏を信じないで、そのまま救われことなどあり得ないのです。

では、他力本願とはいったいどのような教えなのでしょうか。

ここで重要なことは、私たち本願寺教団に所属する誰がはっきりと

「信心をいただいている」

と言いうるかということです。

その信を覚知できる人が誰もいないということになりますと、私たちの教団の全体が、まだ信心をいただいていない者の集まりということになってしまいます。

そうなりますと、信心をいただいていない者にとって、念仏とは何か、阿弥陀仏を礼拝するとはどういうことか、阿弥陀仏と関わろうとするということはどういうことかということを問わなければ、これは宗教として、教えも何も成り立たないことになってしまいます。

そこで、親鸞聖人が説かれた阿弥陀仏の教え、他力とはどのような意味かを、具体的に文にそって考えてみることにしたいと思います。

「大宇宙と三千大千世界」(下旬)宇宙は広い、くよくよせずに明日をしっかり生きよ

ここからまた、天文台の話に戻ります。

天文台は、実は皆さんの暮らしとすごく関係していることを二つしています。

その一つはお彼岸です。

秋分・春分はお彼岸の中日で、仏教にとっては重要な日ですね。

この秋分・春分の日は誰が決めていると思いますか。

これは、天文台が決めているのです。

天文台は暦の決定をしています。

秋分や春分は、太陽が真東から昇って真西に沈むわけですから、太陽と地球の位置関係で決めるのであり、天文学的なことなのです。

それからもう一つ。

中央標準時という

「時」

これも日本の法律では天文台が決めることになっています。

そもそも、時というのは原子時計といって、原子の刻む間隔である定義がなされています。

時は東経135度の明石で、12時に太陽が真南を通るように決めてあります。

ですからこれも天文学なのです。

実は平成20年は、12月31日の最後に1秒を1個多く入れることになっています。

これは原子時計で長く数えていますと、段々と地球の動きがずれてきたので、1秒入れて調整することになったのです。

このように、皆さんのカレンダーには天文台が絡んでいるのです。

さて、宇宙の話に戻りますが、大宇宙の中での我々の存在というのは、なんと小さな存在であるか、今までの話でお分かりいただけたかと思います。

ただ生命が生まれるだけならわりと簡単ですが、人間のように知性のある生命として進化するまでには、ものすごく時間がかかっています。

そういう意味で、人間というのは貴重な存在なのです。

宇宙はどこも同じであり、どこでも平等というのは宇宙の真理でもありますが、星にもそれぞれ違いがあるように、我々もそれぞれの個性は大事にしたいものです。

よく天文台に勤めていると

「ロマンがあっていいですね」

と言われるのですが、実際にしていることは、来年の予算はどうしようとか、あの人とあの人はどうして仲が悪いんだろうとか、悩みは同じなんですよ。

だけど、宇宙は広くて、こういう大きな世界の中に我々がいるのだと思うと、人間の考えることは小さなことです。

小さなことであまりくよくよせず、明日の人生をしっかりと生きていただければと思います。

大きな力に包まれているのですから。

『お仏壇のお花は、なぜこちら向きなのですか?』

仏前にお供えするお花を仏花(ぶっか)と言います。

お仏飯やお灯明等と同じように、仏さまの徳を讃え、阿弥陀如来様の世界(お浄土)を表現するお荘厳(しょうごん)の一つです。

法事などでお参りしていると、

「お仏壇の花は仏さまにお供えするのに、なぜこちらに向けて飾るのですか?」

と質問を受けることがあります。

なぜでしょうか。

仏花は、阿弥陀如来の慈悲の働きを表現しています。

きれいな花を見て腹を立てたり不機嫌になったりする人がいるでしょうか。

逆に私たちを優しい気持ちにしたり、悲しみを癒したりしてくれるものです。

また仏花には生花を用いますが、花瓶(かひん)の水に養われながら限りあるいのちを輝かせている花の姿は、無常なるいのちの表現でもあるといえましょう。

このように、仏花は仏さまの慈悲の働きを表現し、また無常なるいのちの姿を表現しています。

これらは仏さまに差し向けるものではなく、仏さまが私たちに働いて下さっている様を表現しています。

ですから、仏さまに向けるのではなく、私たちの方に向けて供えるのです。

お荘厳は、清浄なる仏さまの国(浄土)を表現して飾り仏さまの徳を讃えること。

手を合わせる私たちが、仏さまの働きに出会わせて頂くこと、この二つがその心だといえます。