投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

色んな出会いが、そして別れが人生の中にはあります。

色んな出会いが、そして別れが人生の中にはあります。

私には82歳になる祖母がいるのですが、最近体調を崩していま私の実家に帰省しています。

祖母の住んでいた田舎には、なかなか帰れず、落ち着いて話ができずにいました。

先日、私が実家に帰った時祖母と話す機会があったので色々な話をしました。

今まで少し世間知らずな!?かわいい¨おばあちゃん¨っとしか見てなかったのですが、一人の人間として色んな時代を生きてきて、私の想像以上に強くたくましい女性なんだなぁと改めて感じさせられました。

祖父との出会いや、子供の誕生の喜びや、働くことの大切さ、祖母の話をこんなにきちんと聞いたのは初めてでした。(恥ずかしながら・・・)

田舎に生まれて18歳の時に突然結婚相手として祖父を紹介され(昔はそれが普通だったんですよね)、そして4人の子供を育て、祖父が病気で亡くなり、しばらくは身も心もつらかったそうです。

祖父の亡くなった悲しさを乗り越えられたのは、祖父との約35年間の思い出だったと教えてくれました。

祖父が亡くなったのは、私が生まれる前だったので、私は祖父の事は写真でしか見た事ないんです。

祖父という人はかなり頑固で生真面目で、田舎では有名だったそうです。

確かに写真のおじいちゃんは気難しい顔していました。

(笑顔の写真は1枚もなかったな・・・)

私の父から聞いた話で、祖父は父が学校から帰るのが少しでも遅れたら昔でいう¨肥えだめ¨に落として叱ったそうです。

かなり非道な叱り方ですが、誰も逆らえなかったそうです。(泣)

祖父の仕事は道路を作る仕事だったそうです。

以前、田舎に帰る際、父が

「ここはじいちゃんが作った道だよ」

と教えてくれました。

それが何箇所もあるんです。

しかも一人で作ったそうです。

夏の炎天下の中、雨の日や、台風がきても、雪の日でも、何も言わずに一人で作り続けたのだそうです。

祖父の作った道は決して立派なコンクリートで整備されている道路ではありません。

ところどころコンクリと石がゴツゴツした道です。

けれど、今でも田舎の人たちが生活に使う大切な道です。

そんな祖父の姿を毎日見てきた父や祖母は、亡くなって30年たった今でも祖父を本当に尊敬しています。

私も祖父とは実際会った事はないけど、おじいちゃんの孫である事を誇りに思いました。

祖母は真面目に働くという事は、簡単なようで実はとても難しいことなんだよっと私に教えてくれました。

そして祖母は私が阿弥陀さまのそばで働くことができたことを涙を流して喜んでくれました。

そうですね・・・私の祖父をはじめご先祖さまに感謝し、毎日精一杯生きていきたいです。

『言語道断』

一般にこの言葉は、

「もってのほかだ」

「とんでもないことだ」

「あきれてものがいえない」

といった、たいへん手厳しく批判する言葉として用いられています。

しかし、この言葉もともと仏教語で

「さとりの境地や真理の世界は、言葉や文字では、とても表すことができないほど、奥深いものである」

という意味なのです。

なお、道断の

「道」

「口で言うと」

という意味です。

このように、本来は言葉では表現し得ない深い真理を指す言葉だったのですが、同じ言葉でもその意味が変われば変わるものです。

『今を、一日を、一生を大切に生きる』

今日の医学では、遺伝子ということがもっとも脚光を浴び、華やかな研究分野になっているのだそうです。

そしてその中には、人間のいのちの営みがすべてこの遺伝子によるとしたらなら、人間がみな老いて死んで行くということが起るのは、人間に老いて行くことをもたらす遺伝子、あるいは死んで行くことをもたらす遺伝子が組み込まれているからに違いない。

だとすると、そのいのちを老いさせて行く遺伝子や死に至らしめる遺伝子を取り除いたら、もしかすると

「人間は年をとったり、死ななくて済むようになるのではないか」

ということを真剣に考えて、一生懸命に研究している人たちがいるのだそうです。

もしその研究が実を結ぶことになったら、私たち人間はいつまでも若く、死ななくても良いことになります。

けれども、私たちは何百年何千年経っても

「死なない」

となったら、いったい人生はどうなるのでしょうか。

今日の社会では、人間の平均寿命が十年、二十年延びたというだけで、どう生きるかということが大きな問題になっていますが、それがまったく死なない、あるいは

「死ねない」

となったら…。

思うに、もしそうなったとしたら、先ず

「今日一日」

というものが、私の人生にとって何の意味も持たなくなってしまいます。

なぜなら、今日一日がどうあろうと、私たちは永遠に生きて行くのですから。

しかも、その何の意味もない毎日を、永久に続けていかなければならないとしたら…、おそらくそこには生きているということに何の感動も感激も持ち得なくなってしまうのではないでしょうか。

ただし、この研究が実を結ぶとしても、それはまだ遠い将来のことです。

少なくとも、私たちは今、それぞれ老いて、やがて死んで行くという事実を

「いのち」

の事実、また人生究極の問題として、個々に抱えて生きていかなくてはなりません。

ところが、私たちは

「死」

から目をそらし、死を忌み嫌って、ひたすら

「生」

に執着する在り方に終始しています。

日常的には、ただ何となく、

「まだまだ自分だけは死なない」

つもりで生きているかのようです。

そのうち、お金がたまったら

そのうち、家でも建てたら

そのうち、子どもから手が離れたら

そのうち、仕事が落ち着いたら

そのうち、時間のゆとりができたら

そのうち、そのうち、そのうち、……

出来ない理由を繰り返しているうちに、

結局、何もしなかった

むなしい人生の幕が降りて

頭の上に寂しい墓標がたつ

そのうち、そのうち、日は暮れる

今来たこの道、帰れない

振り返ってみると、いつも忙しさを理由に

「そのうち…」

と口にすることがありますが、これは

「いのち」

がいつまでも続くものと錯覚しているからではないでしょうか。

「限りあるいのち」

を生きていることに目覚め、今を、一日を、そしてかけがえのない一生を大切に生きたいものです。

「親鸞聖人の他力思想」1月(中期)

このような心が生じますと、自分は阿弥陀仏によって共に永遠に生かされているという自覚が湧いてきます。

言葉にはし難いような、大きな喜びがここに生じてくるのです。

この心が信心歓喜です。

信じた者にとって、ここで何が起こっているのかというと、

「自分は阿弥陀仏によって無限に生かされている」

それを喜ぶ心が、ここで起こっているのです。

悲しみの心は、自分独りの内に閉じこもる心です。

それが、悲しみの特徴だともいえます。

それに対して、喜びの心は分かち合うものです。

それが、喜ぶ心の特徴です。

たとえば、一般に結婚をする人は、その結婚することみんなに披露し、共に喜んでもらうことによって、さらにその喜びは大きくなります。

それは、日常のささいなことであっても、嬉しいことがあった場合、それを語り共に喜んでくれる人がいれば、しかもその数が多いほど喜びは大きくなります。

そうしますと、信心歓喜とはその信心が喜びとして心に現れているのですから、必然的にこの信心の喜び他の人々に伝えて分かち合い、共に喜びたいという心が出てくることになります。

これが廻向です。

ですから、礼拝・讃嘆・作願・観察・廻向という五つの行為が、浄土教の全て、浄土真宗の教えの全てということになります。

さて、ここで私たちの日常生活を尋ねてみることにします。

日頃、さまざまな場面で私たちは阿弥陀仏に手を合わせ、南無阿弥陀仏を称えているのですが、ではいったいそこではどのような心が生まれているでしょうか。

大半の場合、ほとんどの人々の正直な思いとしては、そこにはわきあがるような感激はなく、ただ頭を下げているだけということになるようです。

けれども、阿弥陀仏に救われていると感じることもなく、また救ってほしいと願うこともない、それが偽らざる私たちの心だということになりますと、阿弥陀仏と私との関係は、外見的には礼拝し、讃嘆し、作願するという宗教的行為を成していながら、その内面では何の感動もしていないし、何ら関心も持っていないし、無気力であると見られても仕方ありません。

このように、自分の宗教に対して積極的に関わろうとする姿が見られないとすると、そのような信者の姿をオリンパス光学工業という会社が、我が社に勤務する若者が

「あのような姿になってはならない」

ということで

「他力本願から抜け出そう」

という広告を出したのだとすると、これは本願寺教団及びその教団に属する全ての人々にとって、第三者からの重要な警告だとして深刻に受け止めるべき必要が生じてきます。

「大宇宙と三千大千世界」(中旬)我々は皆、星から生まれてきたのです

宇宙の中で我々は、どこから来た野でしょうか。

皆さんは、お母さんから生まれましたね。

お母さんはおばあさんから生まれました。

何も不思議はありません。

その先をずっとたどっていくと、まず猿と人間が分かれたというのがあります。

そのまたずっとずっと先をたどっていくと、どうなっていたのでしょうか。

宇宙が誕生したのは137億年前ですが、太陽や地球が生まれたのは46億年前のことです。

宇宙と太陽は同時に生まれたわけではなく、宇宙が生まれてから約90億年たって地球は生まれました。

では、太陽や地球が生まれるまでの90億年の間に何があったのでしょう。

まず太陽の話からしましょう。

太陽はほとんどが水素で出来ていて、地球よりもずっと重いのです。

太陽は表面が赤々と燃えているように見えますが、実際は表面が燃えているわけではなく、中心で核融合という燃え方をしています。

太陽の中心で水爆が連続的に起こっていると考えていいでしょう。

これが46億年続いているのです。

燃料はたくさんあるので、まだ燃えるのですが、燃えかすであるヘリウムは増えていきます。

いるとどうなるかというと、ヘリウムが重たいので、中心にヘリウムがたまり、その周りで水素が燃えていくことになるんです。

こういう状態になると、太陽はやがて膨れ上がり、やがて地球はその膨張した太陽に飲み込まれてしまいます。

ですが、それは50億年も先のことですから、今心配することはありません。

太陽は約100億年で星の一生を終えるのですが、例えば太陽より10倍くらい重たい星は、まず中心で水素が燃えてヘリウムがたまり、次にヘリウムが中心で燃えていきます。

ヘリウムが燃えると炭素や酸素ができ、その層がまた中心で燃え始めると酸素やネオンができ、それが燃え始めるとシリコン、マグネシウム、鉄にまで進み、玉ねぎのような構造の星になります。

この状態になると星が大爆発を起こします。

これを

「超新星爆発」

と言います。

星の大きさが例えば太陽くらいだったら、膨張していってまた元のガスに戻るのですが、大きな星は超新星爆発を起こして、鉄やシリコンや酸素や炭素など、星の中で作ったものを宇宙に戻し、その中からまた新たに星ができていくのです。

このような星の一生のサイクルを、宇宙が始まった137億年前から46億年前までにかけて何回も繰り返し、そうして90億年くらいたった時に、ある所で太陽とその周りの地球が生まれたのです。

ですから、我々の身体を構成する物質には、酸素とか炭素とかシリコンとか土が含まれていますが、それらはすべて宇宙とつながっていたと言えるわけです。

宇宙の始まりの90億年の間に、長い時間をかけて仕込まれてきたのです。

ある種、輪廻をほうふつとさせますよね。

我々は、お母さんやお父さんや兄弟みんなのお蔭で生きていますし、お寺でいうと阿弥陀さまのお蔭で過ごさせてもらい、生かさせてもらっているわけですが、物質的に言いますと、星から生まれてきているわけです。

『白骨の御文章』には、何が書かれているのですか?

「御文章(ごぶんしょう)」

というのは、本願寺八代宗主の蓮如上人が浄土真宗のみ教えを分かりやすい文章のお手紙にしたため、各地の門信徒を教化されたものです。

後に5帳80通の御文章としてまとめられて、現代においても法要や日々の仏事の際に拝読されています。

その中でも、葬儀や法事の際に拝読され親しまれているものが

「白骨の御文章」

とよばれる御文章です。

ちなみに、この

「白骨の御文章」

を作家の司馬遼太郎氏は、その著作の中で名文として取り上げています。

内容面では、大きく分けると二つのことが書かれています。

一つには

「朝(あした)には紅顔ありて、夕べには白骨となれる身なり」

という下りに代表されるような無常なるいのちの姿を、そしてその無常なるいのちの姿を受けて、後生の一大事に目覚めて阿弥陀如来をたよりとする身になって、お念仏申す人生を生きるようにお勧めになっています。

身近な人を亡くし悲しみの中にある人たちの心に染み入ります。

現代語に意訳されたものがありましたので、味わってみて下さい。

(意訳)

人間の生涯を深く想ってみると、あたかも水に浮かんでいる水泡のように、たちまちに生じて、たちまちに消えていくような定めなきものであります。

まことにはかないものとしか言い様がなく、一生がまぼろしのようなとりとめもない寿命であります。

いまだかつて一万年の寿命を受けたという人を聞いたことがありません。

一万年どころか百年の間生き得たものも稀であります。

人間の一生は、あっという間に過ぎ去り、夢・幻のようなものであります。

死を迎えるのは自分が先だろうか、他人が先に死ぬるのだろうか?その死は今日くるとも明日くるとも分かりません。

人によってはおくれて死ぬ人、先だって死ぬ人があり、さまざまです。

その数は木の根にしたたる雫、葉末にこぼれる露にもくらぶべきおびただしいことであります。

人はまことにはかない無常の人生であるといえ、いずれはかなく死んでゆくものです。

私たちは朝には若々しい顔をして元気であっても、夕暮れ白骨になってしまう身の存在といえます。

ひとたび無常の風が吹いてくると、両眼が力なく閉ざされ、ひとすじの呼吸も止まってしまうと、うるわしい紅顔もたちまちにあおざめて、桃や李の花のような美しさを失ってしまうさびしい死相になってしまいます。

ひとたび死んでしまえば、父母兄弟妻子などの親族が集まって、どんなに嘆き悲しんでも、もはやその甲斐はないものです。

そのままにしてもおかれないので、やがて郊外の野辺に送って火葬をして、夜半の荼毘にふせれば煙となってしまい、ただ残るのは白骨だけです。

とても言い様がなく、哀傷のきわみであります。

この人間のはかないことに気づき、この世は老少不定の境界であることを見とどけたならば、いずれの人も、早く後生の一大事を心にかけて、限りなきいのちとひかりの阿弥陀様を深く信じてひたすらにお念仏申すべきであります。

あなかしこあなかしこ

【蓮如上人と『御文章』】鎌田宗雲著(百華苑)より