投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

『以心伝心』

心を以て心に伝えることです。

日常会話でもよく使われますが、もともと不立文字・教外別伝と並んで、禅の宗旨をよく表現した有名な仏教語です。

お釈迦さまの教えは、経典に記されていますが、それだけで悟りの極意は伝えられるものではなく、お釈迦さまの真髄は、文字や言葉によるのではなく、心から心へじかに伝えられるということを意味している言葉です。

また、これはテレパシーと言われているものよりももっと直接的で、全身的な在り方です。

何故なら、テレパシーの場合には、心(実際には頭脳)の働きが超電波として他者の心に伝わるというように、二つの心の間に何らかの媒体を考えます。

けれども、以心伝心は、師匠が仏心を以て仏心そのものを弟子自身の中に開かせ自悟自解せしめること。

つまり、本当の安心を与えることを意味するからで、二つの心があるのではなく、仏(師匠)と仏(弟子)との一心同体を意味しています。

(2008年7月掲載分の続きから)

(2008年7月掲載分の続きから)

深夜1時にコルカタに到着した我々一行。

タクシー運転手の常識はずれな言動を目の当たりにしながらもようやくタクシーへと移動。

しかしそこに停まっていたのは、いかにも殿堂入りしそうな往年のクラッシックカーさながらのタクシーでした。

それを見て

「ちゃんと走るのか?」

みんなが同じ気持ちを抱いていました。

アニメの

「ルパン三世」

をご存知の方も多いかと思うのですが、例えて言うならば、あの中に出てくるルパン達が乗っている今にも壊れそうな黄色いポンコツ車を想像していただければ分かりやすいかもしれません。

後で調べてみたところ、その車は

「アンバサダー」

というれっきとしたインドを代表する国産車だそうで、昔からモデルチェンジもせず、今も昔と変わらないデザインで活躍中なのだそうです。

しかし、それはそうとどう考えても五人は乗れそうにはありません。

しかも、大小の違いはあるにせよ、みんな大きなバックパックを背負っています。

トランクには三つしか入りきらず、あとは車内に…。

といっても車内にももう既に大の大人が助手席に一人、そして狭い後部座席には四人座り、一人は抱っこされている状態。

そこへ残った二つのバックパックが詰め込まれてきます。

定員オーバーなのは言うまでもなく、重たいバックパックの分まで入れると、明らかに重量オーバーなことは一目瞭然です。

それでも運転手は

「ノープロブレム」

と繰り返しながら、ちゃんと閉まるのかどうかも分からないようなドアをようやく閉めました。

車内は男同士の肌と肌が密着し、身動き一つ取れないままの状態の中、重たそうにタクシーは発車したのでした。

「ギシギシ」

と至る所が擦れに擦れ、物凄い音を立てながら…。

これまでアジアの国々を旅していると、単車の4人乗りや5人乗りや、トラックの荷台からバスの屋根に至るまで人が溢れんばかりに乗車している光景を、当たり前のようによく目にします。

私には危なっかしくて、とてもそのような真似は出来ませんが、それでも子どもからお年寄りまで、みんな器用に乗りこなしているのです。

警察官もいますが、それを見ても全く取り締まろうとしません。

現地の人に

「定員とか決まってないのか?」

と聞いてみたところ、何とも

「らしい」

という答えが返ってきました。

「(定員は)乗れるだけさ」(笑)

そう、ここはインド。

外国人だろうが旅行者だろうが、この

「乗れるだけ」

は適用され、私たちも郷に入れば郷にしたがえです。

しかしそのことよりも、この車がその

「乗れるだけ」

に対処しきれているかどうかということの方が、全員の抱く最大の不安でした。

きしむ音は止むことを知らず、メーターの類は一定を指すどころか、車の振動に合わすように針はあっちを指したりこっちを指したり。

タイヤ、ドア、その他いろんな物はいつ外れてもおかしくはない状況の中、それさえも凌ぐ凄まじいコルカタの夜の光景が、やがて私の目に飛び込んできたのでした。

(インドコルカタ編つづく〜次回は7月掲載予定)

『今を、一日を、一生を大切に生きる』

新たな年が始まりました。

今あなたは、今日というこの日を、どのような思いで迎えられたことでしょうか。

昨年のことを振り返りながら、家族や友人と新年を迎えられた喜び。

それぞれに、様々な思いで迎えられていることと思います。

私たちが今、新たな年を迎えたことを喜べるのは、とても尊いことなのではないでしょうか。

無事に新年を迎えられたということは、何でもない当たり前のことだと思ってしまいがちですが、わたしのいのちは、永遠に続くものではありません。

また、何年何十年生きられるとも限りません。

明日は、次の瞬間はいつどうなるか分からない日々を過ごしているのです。

そして、そのようないのちだからこそ、わたしがこうして新年を迎えられるということは、とても尊いことであり、また有り難いことであるといえるのです。

よくよく考えてみますと、わたしのこのいのちは、あらゆるいのちの支えによって、今日この一日一日を生かされて生きています。

わたしがこうして生きているということは、決して当たり前なのではなく、尊いご縁によって生かされているのです。

決して自分一人だけで生きているわけではありません。

言葉の上ではそれを分かっているつりではいても、つい忘れがちになって暮らしていますが、こうして新たな年を迎えられる喜びとともに、今一度、この事実を見つめ直し、生かされていることへの感謝の心を持ちながら、今を、一日を、そして一生を大切に生きていきたいものです。

「親鸞聖人の他力思想」1月(前期)

そこで、浄土真宗の宗教儀式とは何かということを、ここで尋ねてみたいと思います。

浄土教全体に共通する宗教儀礼は

「五念門行」

といわれる行を成すことです。

五念門行というのは、お釈迦さまが説かれている浄土の教えに信順して、その浄土に生まれるために行う五つの行ですが、お釈迦さまの説かれた浄土の教えにしたがうと、その行為が五つに分かれるのです。

第一が礼拝、第二が讃嘆、第三が作願、第四が観察、第五が廻向です。

礼拝とは阿弥陀仏に帰命すること、阿弥陀仏に自分自身の全てを任せることです。

阿弥陀仏に帰依し、阿弥陀仏の世界が私の帰り行く道だと念じる心が、頭を下げて礼拝している姿になります。

讃嘆とは、南無阿弥陀仏の仏名を称えることです。

作願とは、阿弥陀仏の浄土に往生したいと願う心です。

観察とは、阿弥陀仏の教えを聞き、信じていくことです。

阿弥陀仏の本尊の前で手を合わせ、南無阿弥陀仏を称え、頭を下げ、阿弥陀仏の浄土が私の全てであると念じるのが、礼拝と讃嘆と作願です。

そうしますと、当然私たちは阿弥陀仏に向かって手を合わせるのか、なぜ南無阿弥陀仏なのか、なぜ私にとって浄土が全てなのか、ということがここで問題になります。

その意味を聞き続けることが観察だと考えれば良いと思われます。

そうしますと、私たちの浄土教の宗教儀礼というのは、阿弥陀仏に手を合わせ、頭を下げて、南無阿弥陀仏と称え、阿弥陀仏を信じる。

そして、その意味は何かということを問い続ける。

問い続けた結果、まさに自分の全てが南無阿弥陀仏だけだとわかる。

阿弥陀仏以外に、自分の救われる道はないということが、自分の全体で明らかになる。

これが信じるということになるのです。

つまり、何か訳のわからないものを信じるのではなく、自分の宗教的行為の意義が確信される。

これ以外に私の道はないということがはっきりする、それが信じるということだといえます。

「大宇宙と三千大千世界」(上旬)宇宙には、本当に星の数だけ星がある

======ご講師紹介======

観山正見さん(国立天文台台長)

☆ 演題「大宇宙と三千大千世界」

ご講師は、国立天文台台長の観山正見(みやましょうけん)さんです。

観山さんは、天文学者にして、浄土真宗本願寺派の僧侶でもあられます。

昭和26年、広島県生まれ。

広島大学附属中学校・高等学校卒業後、京都大学理学部に進み、京大理学部物理学科天体核物理研究室で学ばれました。

ご専門は、理論天文学。

とりわけ恒星及び惑星系の形成過程。

国立天文台助教授、教授、副台長を経て、平成17年に国立天文台台帳に就任。

著書に「太陽系外の惑星に生命を探せ」などがあります。

実家は、室町時代から15代続く広島県東広島市にある浄土真宗本願寺派の長安寺。

ご自身も本願寺派の僧侶でいらっしゃいます。

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まず

「太陽系」

のことからお話しましょう。

地球や月は内側の惑星なのですが、ずいぶん小さいです。

水星、金星、地球、火星、これらは岩石質のものです。

そして外側には、大きな木星や土星、さらにその外側に天王星や海王星があります。

最後の二つは氷の惑星で、ほとんど水から出来ています。

これが一番基本となる星の単位です。

その次が

「銀河」

です。

例えば、地球から230万光年離れているアンドロメダ銀河ですが、その中には1000億個の星があります。

では、銀河はどうやって出来るのか、渦巻き銀河の形成を例にしてみましょう。

銀河は、小さな星の集まりがぶつかりながら、だんだん合体して大きくなっていきます。

星々は、互いに万有引力がありますので、集結してきて取り込まれてしまい、次第に大きな銀河に成長していくのです。

成長するにしたがって回転する能力がつき、我々の銀河と同じように平べったい構造になり、渦を巻くようになります。

こうして銀河全体が出来るのに、大体1億年くらいかかります。

このように、星というのは宇宙の中にばらばらで広がっている訳ではなく、銀河という仲間を作っています。

つまり、宇宙は階層を作っていて、その階層の単位が銀河なのです。

そして、その銀河も

「銀河団」

という集団を作っています。

銀河団がたくさんある所と、ほとんどない所があります。

これを宇宙の大規模構造というのです。

我々に見える範囲の137億光年の中には、銀河は幾つあるのかというと、実は1千億個の銀河があります。

そして、その約1千億個の銀河には、それぞれ1千億個の星があります。

まさに、宇宙には本当に星の数だけ星があるということなのです。

さて、このような宇宙の階層性は、実は演題にもしました

「三千大千世界」

という仏教の中の宇宙観と非常によく似ているのです。

ご門徒の方は『阿弥陀経』というお経を読んでみて下さい。

お経の後ろの方に、6回

「三千大千世界」

と出てきます。

この

「三千」

というのは、千が3つという意味の三千ではありません。

まず

「一世界」

という基本の単位があります。

そこには架空の山なのですが、須弥山という山があります。

そして、そこを中心に九山八海、つまり9つの山と8つの海が広がっています。

これに月と太陽が加わってできているのが、一世界だと言われています。

一世界が千個集まったものを

「小千世界」

と言います。

その小千世界が千個集まったものを

「中千世界」

そして中千世界が千個集まったものを

「大千世界」

と言い、この階層の全体像を三千大千世界と呼ぶのです。

ここで先ほどのお話をちょっと思い出してみましょう。

言ってみれば、この一世界がお星さまということです。

数は違いますが、この一世界が千個集まった小千世界と呼ばれるものが銀河にあたると思うのです。

中千世界が銀河の集まりだとすると、銀河団にあたるということでしょうか。

そしてこの大千世界というのが、銀河団のネットワークのある大規模構造という宇宙です。

西洋の考え方では、このような階層性はなく、宇宙はただずっと広くて、星々がただずっとあるという捉え方なんです。

もちろんお釈迦さまが生まれた頃に、宇宙の大構造といったことが分かっていた訳ではありませんが、仏教における宇宙の捉え方は、なかなか面白いなと思っています。

『世間』

世間を騒がせる、世間のうわさ、世間は広いようで狭い、と日常頻繁に用いられています。

このように

「世間」

の語は、世の中や身の回りの人々、その状況を表す語として現在広く使われていますが、もとは仏教語です。

生きものすべて(有情世間)と、その生きものすべてをすまわせる自然の環境(器世間)とを言います。

この世間は、つまるところ私たちの迷いの世界であるところから、そこを離れる志向を

「出世間の道」

と呼び、これは仏教の異称となりました。

仏教において

「世間」

は現在自分が身を置く場であり、出発点であるというのが本来の意味です。

しかしながら、現代の世間という語の意味するところには、用例から考える限り、自分の身の置き所というとらえ方はみられないようです。

有情世間・器世間を世間と略して用いる間に、世間は有情世間のみを指す言葉になり、さらに限定されて人間社会を意味する言葉となったようです。

身近な社会、耳目の及ぶ範囲、というほどの意味で、世間の語が広く用いられるようになるのは、江戸期の作家・井原西鶴が刊行した

「世間胸算用」

あたりからのようです。

金と時間に振り回される京都・大阪の庶民の大晦日を活写した名作ですが、題名にあるいは作中に使用される

「世間」

の意味は、現代と全く同じ意味で用いられています。

 

「世間」

は本来、身の置きどころにつけられた名称であり、自身の現実を意味していました。