投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

「親鸞聖人の他力思想」12月(後期)

そこで、毎日新聞の記事が提起した

「祈りという宗教心をもっと広い立場で受け止める必要がある」

このことについて、私たち真宗者は、それを自分の問題として受け止めてみる必要があるように思われます。

さて、今日私達は浄土真宗の教えをどのように教えられているでしょうか。

「浄土真宗の教えは他力本願である。

一切の救いは阿弥陀仏の本願力による。

それゆえに、自力の念仏をとなえてはならない。

神仏に自ら祈る必要はない。

と教えられています。

さらに

「私たちが信じるのは阿弥陀仏一仏であって、他の諸神諸仏諸菩薩等を一切信じてはならない、また拝んではならない」

と教えられている訳です。

(これは「積極的に否定せよ」と教えているのではなく、あえて信仰・礼拝の対象とする必要はないということです。

それはまさにその通りだと言えるのですが、

「自力の念仏をとなえてはならない、祈る必要がない」

ということを念頭に置いて、その上で、ではいったい私たちは真宗者として毎日どのような宗教的行いをしているかを考えてみると、どうでしょうか。

朝夕、家庭のお仏壇の前で、あるいはお寺参りをした時など、阿弥陀仏の尊前で手を合わせて頭を下げていますが、ではそのような時に、私たちはいったいどのような自覚のもとに合掌・礼拝を行っているでしょうか。

つまり、どのような宗教的意識をもって、手を合わせて阿弥陀仏を拝んでいるかということを問い直してみて頂きたいのです。

それを行っている時に、横から

「あなたは、今どのような心で拝んだのですか」

と問いかけられると、もしかすると戸惑われる方が多いのではないでしょうか。

つまり、大半の方は

「実のところ、ただ無意識に手を合わせて拝んでいるだけ」

であって、そこでは

「特に何も意識していない」

というのが、正直な思いだと推察されます。

けれども、そこで

「求めることも、祈ることもしてない」

とすると、ではいったい私たちはそこでどのような宗教的行為をしているのか、ということが問題になるのではないでしょうか。

「夢追って生きる」(下旬) 患者さんの目から見て日本一の病院に

6年前の夏、私は病気で倒れました。

でもそれがきっかけで、私の人生はいい意味で変われたと思っています。

平成14年の1月に私は鹿児島大学病院の医長になって、そこでストレス性の痛風発作が起りました。

当時の病院長というのは本当に激務で、このときは本当に疲労困憊(ひろうこんぱい)で倒れたわけです。

入院していたその4カ月間にいろんな人生観の変化がありました。

そのときに私が考えたのは、やっぱり自分が病気になったら何にもならないなということでした。

患者さんにも迷惑をかけましたからね。

だから、自分と一番近しい家族や患者さん、教室の若者たちや学生たち、そして自分自身の健康に出来るだけ時間を割いて、忙しく走り回らず、ゆっくり時間をかけていくような生き方をしようと思ったんです。

それで昔から描きたかった絵を描き始めました。

痛風の患者として、痛風に関する本も出しました。

今後も、いろんな病気を患者さんの立場から見たらこうだという本を書いていこうと思っています。

それからホームページも作って、定年退職後も皆さんの教育に携われたらなということを考えています。

最後に、今の財団法人慈愛会に来てからどんな夢追いをしているかということについてお話しようと思います。

私は、慈愛会の会長とし

「患者さんの目から見て日本一の病院に」

ということを、全職員の耳にタコが出来るほど言っています。

規模で日本一なんて掲げても聖路加病院には絶対勝てません。

しかし患者さんの目から見て日本一だったら私たちなら絶対にできる、実現するぞ、やってやろうと掲げているんです。

そして、最新の設備と快適な空間、充実した医療体制の整備というようなことを進めることで、この

「患者さんの目から見て日本一に」

という私の夢は着々と実現しつつあります。

人のいのちは有限でも、誰もが必ず死を迎えます。

私もあと何年生きられるかわかりませんし、認知症にならない保証もどこにもありません。

ですから、頭がしっかりした状態での人生はもっと短いかもしれないんです。

それでも残された人生の期間を、自分自身の健康に留意しながら、何か周りの方の役に立てることはないかを探しながら、夢追いを続けていきたいということが、私の夢でございます。

「お仏飯とは、仏さまに食べてもらうご飯なのですか」

お仏飯をあげることは、インドでお釈迦さまに食事をささげたことから始まります。

伝えられるところでは、お釈迦さまは一日一食で、それも午前中にすまされたとのことです。

この故事にちなんで、いまでも朝のうちにお仏飯をお供えします。

また、お仏飯を朝おあげして午後には下げるというのは、戒律生活の比丘(僧侶)の食生活

「斎(とき)」

にならったもので、比丘は朝・昼の二回で、午後は食事をしないことから、午前中に下げてしまうということが習慣化したようです。

ただし、お仏飯は仏さまに食べて頂くという意味でお供えしているのではなく、お荘厳(しょうごん)として受け止め、日常の給仕に欠かせないものとして供えます。

お荘厳という広い意味を持った仏教の言葉をひとくちにいうのは難しいのですが、ここでは要するに

「お飾り」

と理解して頂けるとよろしいかと思われます。

つまり、仏さまの国

「浄土」

をしのんで、美しくお飾りをするに際して、伝統的にお仏飯をあげる形が伝えられてきたという訳です。

なお、お仏飯は、仏さまのお給仕をしていく上での大切なつとめです。

したがって、仏さまが実際に召し上がる訳ではなく、またそのおさがりは仏さまの

「食べ残し」

などではありません。

したがって、残飯扱いをしてゴミ捨てなどに捨てたりすることのないようにしましょう。

伝統的には、お昼頃までに下げてきましたが、お仕事に行かれたりして夕方でないと下げることが出来ないようであれば、朝のお参りがすんだらすぐに下げて、おさがりとして召し上がっても良いように思われます。

今年もあとわずかとなりました。

今年もあとわずかとなりました。

この一年をふりかえってみて・・・(回想中)

昨年と今年で、一番変わったことといえば、やっぱり、【行動範囲】がかなり広がったことかなぁ・・・

わたし、今年の1月31日に、車の免許をとったのです\(^^\)(/^^)/

20代も後半にさしかかっているというのに、今頃やっと・・・(〃▽〃)

これまでも、何かと不自由は感じていたのですが、いつもいつも助手席専門で・・・(^_^;)

「このままではいけない!!!」

と思い、なんとか免許取得★☆★

車も購入(*^_^*)ノ

でも…、納車2日目に自分ちの車庫にぶつけてしまいました(>_<) 右側のボディも軽くへこんでいました・・・・ 「ガガガガガッツ!!!!」 ってすごい音してたもん。 予想はしていたけれど、がっくりきました。 それからというもの、 「車庫入れ+駐車」 が怖くてこわくて。 立体駐車場やホームセンター、おっきいスーパーetc、車がいっぱいのところには一人ではいけないのです。 でも、ドライブにはよく行ってます(*^_^*)♪ たいてい家を出てから、ほぼノンストップであちらこちらをグルグルして帰宅というコースですが・・・何か(^_^;)??? 年が明けたら、温泉にでも一人でのんびり行こうかなぁって、現在計画中です。 もちろんマイカーで★ 安全運転を常に心がけて、交通ルールをしっかり守り、行ってまいります。 温泉につかりながら、2009年の抱負、目標をたてよぉっと★ 【何か目標をもって、そのために努力する】 常ににそんな前向きな自分になりたいな、といつも心に思っています。 いただいた尊い命。 一生懸命、大切に生きていきたいです。

『足るを知らざれば 富めども貧し』

仏教で説かれている迷いの一つに

「餓鬼(がき)」

という世界があります。

インドの

「プレータ」

という言葉が元になったもので、言葉そのものの意味は

「逝(ゆ)けるもの」

ということだと教えられています。

一般に

「餓鬼」

という言葉を聞きますと、その文字の組み合わせから、

「欲しい、欲しい」

といってさまよう、みじめなすがたを思い起こすものですが、この餓鬼には、三種類があるといわれています。

一つは

「無財餓鬼」。

これは、一般に考えられている餓鬼のすがたです。

まったく食べる物も、飲むものもなくて、たえず飢えている存在です。

それに対して

「少財餓鬼」

というのがあります。

これは、少しだけ食べるものがあります。

『往生要集』という書物には、膿(うみ)とか、血とか、あるいは他人が飲んで、そのときに唇から落ちるしずくだけが飲めると説いてあります。

このことから、

「少財餓鬼」

というのは、何か少しだけ口に出来る餓鬼であることが知られます。

そしてもう一つには

「多財餓鬼」

というのがあります。

なお、最初の

「無財」

に対して、あとの二つを

「有財餓鬼」

とよぶこともあります。

多財餓鬼というのは、他人が施したもの、食べ残したものを食べることが出来ます。

おもしろいことに、この多財餓鬼は

「天のごとくに富楽」

と言われています。

非常に富み、楽しんでいるといわれるのです。

まるで天人の住む天上界にいるかのように食べる物に富んでいるにもかかわらず、それが

「飢えた鬼」

と書く餓鬼だと言われるのです。

ですから、餓鬼といいますのは、一般に飢えているすがただけを想像してしまうのですが、なくて飢えているものと、あって飢えているものとの両方があるといわれのです。

経典には

「富めるものも、貧しいものも、ともにお金のことに心を労している。

欲に苦しめられているということでは、富めるものも貧しいものも同じである。

財を持っていないものだけが欲に苦しんでいるかというと、決してそうではない。

たくさん持っていることで、いよいよ欲に苦しんでいるものもいる」

と説いてあります。

つまり餓鬼というのは何かというと、土地とか金銭とか、そういう自分の外のものをもって自分を満たそうとしているすがたなのです。

しかし、外のもので自分を満たすということは、逆にいえば自分自身がなくなっていくということです。

なぜなら、外のものをいっぱい自分の中につめこめば、当然自分自身はなくなってしまうからです。

 このように餓鬼というのは、あればある、なければないで、そのことに振り回されて常に自分を失っているということです。

一般に餓鬼といえば、その文字から

「無財」

ということだけを思い起こしてしまうものですが、豊かな在り方をしている有財餓鬼のすがたが説かれ、有財・無財共に常に飢えているすがたとして餓鬼が説かれていることに留意したいものです。

 

「足るを知らざれば、富めども貧し」

というのは、有財餓鬼のすがたを端的に言い表した言葉であるように窺えます。

『大事』

「大事な品物」

「大事な用件」

「大事な人」

と、日常口にしたりします。

「大事」、

または

「一大事」

とは、もとは、さまざまの仏が人々を救済するために世に出現されることをいいます。

私たちの立場からは、

出現した仏に出遇うこと、

仏道に志すこと、

修行して悟りを開くこと、

さらには自らの生き方を発見すること、

何が自分にとって一番大切なことであるかを見いだすこと、

自分の一章をそれにかけて良いということに出遇うこと、

これが本来の大事です。

また、一方では生命にかかわることも大事とよばれました。

軍記物語などには

「大事の手」

(生命にかかわる手傷)と出てくるのがそれです。

時代劇などの定まった表現の一つに

「御家の一大事」

があります。

これは、武士にとって

「主家が存続するか否か」

という意味です。

蓮如上人は、安心して生きるために真実の法に出遇うこと、そして自身のいのちの帰って行く世界を見定めることが

「一大事」

であると説かれました。

自分にとって、何よりも重く大切なこと、自らの心身と引き換えにできることを仏教では

「大事」

とよびます。