投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

「親鸞聖人の他力思想」12月(中期)

この

「本願寺新報」

に書かれている内容は、もちろん本願寺教団における

「公式見解」

ということですから、宗学におけるいちばん偉い方が書かれていますので、浄土真宗の教学から見た祈りの意味内容については、まったく誤りがないと言えると思います。

では、いったい問題はどこにあるのでしょうか。

それは、毎日新聞が提起した

「祈り公認」

という記事と、この

「本願寺新報」

の内容に大きなズレが生じていることが問題なのです。

いったい何がどうズレてしまっているのかといいますと、先ず毎日新聞の記事の内容は、決して

「本願寺教団が現世利益の祈りを認めた」

ということを述べた訳ではありませんでした。

そこでは

「本願寺教団は伝統的に祈りということを否定してきたが、祈りという言葉にはもっと広い意味がある。

したがって、宗教的祈りの本質を見落とせば、他の多くの宗教で語られている祈りをも全て否定してしまうことになる。

もう少し広い意味で、祈りという行為を見ることが大切なのではないか」

ということを提起しているのです。

これに対して、教学研究所の所長さんが、その問題提起は宗教における大切な問題であるとの理会を示されたのです。

ところが、本願寺教団はその問題提起の内容よりも

「祈り公認」

という見出しの方に敏感に反応してしまったのです。

そこで、これまでの伝統的な在り方を踏まえて

「浄土真宗には祈りはありえない。

現世利益の祈りは絶対に認められない」

という従来の主張を繰り返すことになった訳です。

こうして、両者の内容はまったくズレてしまうことになったのですが、毎日新聞の

「祈り公認」

という表現には、少なからず誤解を与えかねない面があったことも否めないように思われます。

「夢追って生きる」(中旬) いつの日か治るのを夢見ている患者さんのために

次は、井形先生との出会いの話を紹介します。

昭和46年10月の鹿児島大学病院、今は医療センターが建っている所に、当時の麻酔科の医局がありました。

私は、そこで東大から教授で来られていた井形先生に縁あって弟子入りしました。

そのとき井形先生は42歳、私は28歳でした。

その出会いのときに先生がおっしゃった

「納君、私はこれまで理想の医療の在り方を目指して、ときには体制と戦いながら頑張ってきた。

鹿児島大学に入って、今度は教授の立場から理想の医療を追求したい。

一緒に頑張ろう」

という言葉に、私はこの先生と一緒ならいつ死んでもいいと思うくらい、本当に感激したんです。

それで弟子入りして1年経ったころ、国立療養所南九州病院に筋ジストロフィー病の病棟が出来まして、私はそこに病棟医長として向かいました。

そこで私は筋ジストロフィーの患者さんたちと出会いました。

筋ジストロフィーとは、どんどん筋肉がやせていって、最後には呼吸をすることもできなくなるという病気です。

当時は、原因も治療法もわかりませんでした。

私は何とかしなければと思い、これを含めた

「治らない」

とされている病気の治癒に一生をささげると決意しました。

そうしたら、井形先生も同じことをお考えで

「納君、医学の進歩に期待しながら、いつの日か治るのを夢見ている患者さんのために頑張ってほしい」

と、いつも私たちを励まして下さいました。

それで私は、どうせ勉強するなら日本で一番、世界で一番の所で勉強したいと思いまして、東大で半年間、アメリカで2年と8カ月間、必死に頑張って筋ジストロフィーの研究に打ち込んだんです。

その後も、さまざまな病気の発見や治療法の確立に携わりましたが、これらは発見するのが目的ではなく、井形先生が常々おっしゃっていた

「患者さんを助けるんだ」

ということから出てきています。

患者さんとの交わりから起こってきているんだということ、これが私たちの研究の特徴なんです。

次に、私は教授として学生とか若い医者を育てるという務めがあります。

そこで私は

「患者さんの役に立つ医者になれ」

「本物になれ」

「力を付けろよ。そのためには努力が必要だ」

ということ。

それともう一つ、

「研究者になればいいわけじゃないんだ」

ということをいつも言っていました。

一生懸命研究する人になってもいいし、もう臨床しかないというのでもいいんです。

その中間的なものでもかまいません。

ただし、

「どんな領域をしてもいいけれど、患者さんの役に立つ本物になれ」

ということが私の口癖でした。

そして、

「どうせ本物を目指すなら」

と、世界の一流の大学や研究室に、2年から3年、若い人たちを勉強に行かせました。

また、臨床に関しても、やっぱり大学の中だけじゃダメだと、外に出て勉強をしてこいと言って、聖路加病院や国立がんセンターなどの、これが一流だと言われている所に行かせたんです。

そうして、若者をあちこちに勉強に行かせている内に、10人以上が全国区で教授になりました。

「お仏壇の前の台には、何を乗せるのでしょうか」

お仏壇の前に置いてある小さな机。

これは

「経卓(きょうじょく)」

と言って、お経の本を置くためのものです。

ところが、ご家庭でのご法事にお参りをさせて頂きますと、お経の本は見当たらず、ローソク立てや香炉、あるいは線香の箱やマッチなどが置かれていたりすることがしばしばあります。

ご家庭によっては、お仏壇の前方に仏具を置くスペースがなくて、やむを得ず経卓の上に置いていらっしゃる場合も有りますが、出来ればローソクや線香の箱、マッチなどは引き出しの中に入れるか、お仏壇以外の別の場所に整理して置いたり、香炉・ローソク立てなどの仏具は別に置く台を設けて頂きたいものです。

また、ご門徒の方の日常のご家庭でのお参りは、親鸞聖人が著された

『正信偈(しょうしんげ)』

をお勤めいたします。

経卓には

「真宗聖典」

を置いて、朝夕お参りいたしましょう。

『不思議』

人間の心で思いはかることも、言葉で言い表すこともできないことを

「不思議」

といいます。

例えば

「世にも不思議なことだ」

などと言って、不思議な事実やはたらきに、人は強い関心と興味を持ったりします。

宗教の本質も、その不思議性にあると考えて、人はしばしば宗教に、あるいは宗教者に人智を超えた不思議な能力やはたらきを期待し、その力やはたらきによって、現実の問題を解決しようとするときがあります。

しかし仏教は、基本的に自覚の宗教です。

それは、仏の智慧に照らして自己を凝視し、自らの存在に目覚めていく教えです。

親鸞聖人は、奇跡や超常現象などの怒ることが不思議ではなく、仏法そのものが不思議であるといわれます。

具体的には、阿弥陀仏が、すべての衆生を仏の国に生まれさせたいと願い、もし生まれなければ仏は正覚を取らない、と誓われた本願の他に、真の不思議はないといわれるのです。

さらに、仏の本願にひとたび遇うことで出来れば、どのような人も、空しく過ぎる生の惨めさに打ち勝って、仏の功徳をこの身に賜って生きるものとなると言われます。

空しく過ぎ去る人生を転じて、仏の功徳を生きる人生の誕生、このような生の転換の他に、不思議、不可思議とよぶ事実はありません。

私にとって、映画は趣味のひとつです。

私にとって、映画は趣味のひとつです。

癒しであり、娯楽教養であったりします。

初めて映画を観たのは、7歳の時。

その時に観た、リチャード・ドナー監督、クリストファー・リーブ主演の

「スーパーマン」

は、いまだに私の心に鮮烈な印象を残しています。

近年

「X−MEN」

シリーズのブライアン・シンガー監督がリメイク(スーパーマン リターンズ)しましたが、映像技術が格段に上がったとはいえ、私の中では、前者を超えるには至りませんでした。

アメコミ全盛のハリウッド映画作品の中にあって、近年アジア映画をハリウッドでリメイクする動きが盛んです。

大作続きでネタ切れという声もありますが、最近では香港映画の

「インファイナル・アフェアー」

が、マーティン・スコセッシ監督、レオナルド・ディカプリオ主演でリメイクされ、アカデミー賞作品賞を受賞するということもあって、これからもこの動きはますます活発になることでしょう。

日本映画もホラーやアニメ部門で注目を浴びていますが、それ以外のジャンルも頑張ってもらいたいところです。

いま上映中の中居正広さん主演の

「私は貝になりたい」

のプロデューサー瀬戸口克陽さんは、鹿児島県出身で高校の後輩。

しかも奥さまは故・小渕恵三元首相の次女で、現少子化大作担当大臣の小渕優子さん。

映画関連に進みたかった私にとっては、正直うらやましくもありますが、同郷人が第一線で活躍している姿を見ると、私も勇気づけられる思いがします。

瀬戸口さんは、過去にフランキー堺さんや所ジョージさんの同名作品を觀て感動し、どうしても自分でプロデュースしたいと、一度書いた脚本は決して書き直さないことで有名な橋本忍さんを説得して、新しいコンテンツを盛り込んだ書き下ろしの脚本で制作にあたったそうです。

その意欲と情熱は、これからの日本映画界をいっそう盛り上げてくれることでしょう。

その勢いで、親鸞聖人を題材にした映画を制作してもらえないかなぁてぁ…、と思ったりもします。

これからも、一映画ファンとして、ハリウッドがリメイクしたいと思うような作品を期待しています。

『足るを知らざれば 富めども貧し』

社会的に高い地位にあり、名誉もあり、財産をたくさんもっている人が幸せかというと、必ずしもそうだと言い切ることはできません。

一見幸せそうに見える家庭にも、外からは見えない問題を抱えていることが少なからずあるからです。

幸せ・不幸せは、地位・名誉・財産によって決まるのではなく、その人が今ある現実をどのように感じ、受け止めていくかによって決まるのだと思います。

 私達の心には、

「今よりもっといい生活をしたい」

というような、たくさんの欲があります。

それを実現するために、一生懸命に働いているのだといっても過言ではないようです。

そして、その努力の結果として、社会全体の進歩や発展もあるように思われます。

このような意味で、私たちが欲望をかなえるために行った努力が、生きていくことの原動力になったり、人類の発展に寄与して来たという事実は一概に否定出来るものではありません。

しかしながら、それらの欲もすべてを自分に都合のよいように理解していく、自己中心的な欲にすりかえられていくと、自分のみの欲望・幸せを追求するあまり、いつのまにか他者との間に軋轢を生じさせていく場合もでてきます。

「少欲知足」

(少しの欲でもって足ることを知る)という言葉があります。

この言葉は、禁欲しなさいということではありません。

だからといって、貪欲になりなさいということでもありません。

少しの欲で充分に足ることを知ることが大切だと教えているのです。

人間は様々な関係の中で生活しています。

自らの自己中心的な欲望が大きくなっていくことによって、苦しんだり悲しんだりする人はいないでしょうか。

自分の欲望によって他者が苦しみ悩むことにはならないだろうかと、時々一歩立ち止まって自分を振り返ってみることが大切です。

自分自身を見失わないようにブレーキをかけ、尚且つその自分の姿を映し出してくれる鏡こそが、仏さま

の教えであることを見失うことのないように心掛けたいものです。