「夢追って生きる」(中旬) いつの日か治るのを夢見ている患者さんのために

次は、井形先生との出会いの話を紹介します。

昭和46年10月の鹿児島大学病院、今は医療センターが建っている所に、当時の麻酔科の医局がありました。

私は、そこで東大から教授で来られていた井形先生に縁あって弟子入りしました。

そのとき井形先生は42歳、私は28歳でした。

その出会いのときに先生がおっしゃった

「納君、私はこれまで理想の医療の在り方を目指して、ときには体制と戦いながら頑張ってきた。

鹿児島大学に入って、今度は教授の立場から理想の医療を追求したい。

一緒に頑張ろう」

という言葉に、私はこの先生と一緒ならいつ死んでもいいと思うくらい、本当に感激したんです。

それで弟子入りして1年経ったころ、国立療養所南九州病院に筋ジストロフィー病の病棟が出来まして、私はそこに病棟医長として向かいました。

そこで私は筋ジストロフィーの患者さんたちと出会いました。

筋ジストロフィーとは、どんどん筋肉がやせていって、最後には呼吸をすることもできなくなるという病気です。

当時は、原因も治療法もわかりませんでした。

私は何とかしなければと思い、これを含めた

「治らない」

とされている病気の治癒に一生をささげると決意しました。

そうしたら、井形先生も同じことをお考えで

「納君、医学の進歩に期待しながら、いつの日か治るのを夢見ている患者さんのために頑張ってほしい」

と、いつも私たちを励まして下さいました。

それで私は、どうせ勉強するなら日本で一番、世界で一番の所で勉強したいと思いまして、東大で半年間、アメリカで2年と8カ月間、必死に頑張って筋ジストロフィーの研究に打ち込んだんです。

その後も、さまざまな病気の発見や治療法の確立に携わりましたが、これらは発見するのが目的ではなく、井形先生が常々おっしゃっていた

「患者さんを助けるんだ」

ということから出てきています。

患者さんとの交わりから起こってきているんだということ、これが私たちの研究の特徴なんです。

次に、私は教授として学生とか若い医者を育てるという務めがあります。

そこで私は

「患者さんの役に立つ医者になれ」

「本物になれ」

「力を付けろよ。そのためには努力が必要だ」

ということ。

それともう一つ、

「研究者になればいいわけじゃないんだ」

ということをいつも言っていました。

一生懸命研究する人になってもいいし、もう臨床しかないというのでもいいんです。

その中間的なものでもかまいません。

ただし、

「どんな領域をしてもいいけれど、患者さんの役に立つ本物になれ」

ということが私の口癖でした。

そして、

「どうせ本物を目指すなら」

と、世界の一流の大学や研究室に、2年から3年、若い人たちを勉強に行かせました。

また、臨床に関しても、やっぱり大学の中だけじゃダメだと、外に出て勉強をしてこいと言って、聖路加病院や国立がんセンターなどの、これが一流だと言われている所に行かせたんです。

そうして、若者をあちこちに勉強に行かせている内に、10人以上が全国区で教授になりました。