投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

「仏教というのはどんな宗教」

仏教はお釈迦さまを開祖とする宗教です。

キリスト教・イスラム教と並んで世界の三大宗教の一つに数えられます。

仏教は仏(真理に目覚めた人)の教えであり、仏(真理に目覚めた人)になる教えであります。

人間として、命を頂いたならば、必ず年をとっていかなければなりません。

そして縁がととのえば、病気にもなっていかなければなりません。

そして遅かれ早かれいつか必ずいのち終わっていかなければなりません。

年をとり・病気になり・死ぬという人間の根本の苦しみを真正面からしっかりと引き受け、乗り越えていく道を説いたものが仏教という教えであります。

人間は自分に都合のいいように判断する自己中心の眼によって物事を見ているために物事の真実の姿をついつい見誤ってしまう場合があります。

お釈迦様は、自分に都合のいいように判断してしまうその色眼鏡をはずして、ありのままに物事をみていくことの大切さをお説き下さいました。

ありのままにものごとをみていくこと。

それが「智慧」といわれる能力であり、仏教のさとりとは、この智慧を得ることでした。

この智慧の眼によって物事を見ていく時に、すべてのものは消滅変化し、とどまるものは何もないということ。

すなわち「無常」であるという真理に目覚めていくのです。

この「無常」という真理に目覚めていく時に、ついつい

「生きているのは当たり前」

と思っていたこの私のいのちが、いかに尊いものであったかに気付くことでしょう。

また、すべてのものが複雑に重なりあい、支えあいながら成り立っていること。

つまり「縁起」の関係にあることも智慧の眼によって知らされます。

「縁起」という真理を知ることによって、私は一人で生きているのではなく、多くの人に支えられて、多くのいのちの犠牲の上に成り立っている。

生きているというよりも生かされているいのちであったということに気付かされることでしょう。

これらの真理に目覚めていくことにより、私たちがお互いがお互いを輝くいのちとして認め合い、尊重しあえる世界が広がってくるのではないでしょうか。

そこに仏教の教えの目的があるのです。

たくさんのいのちある中で、受けがたい人間としての尊いいのちを頂いてこの世に生を受けた私たちです。

この世にいのち頂いたその意味を一生涯をかけて仏教の教えの中に問うていきたいものです。

先日「学生限定☆飲み放題880円!」の店で

先日「学生限定☆飲み放題880円!」の店で

50代くらいのおばちゃん軍団が

「わたしたち学生だから880円にして!!!」

と言い張り、880円になった現場を目撃しました。

言ったもん勝ちです。

また、学校のクラス分けの際

「○○さんと同じクラスにしないでください」

と申し出ると、同じクラスにならないという噂を聞きました。

実際、学校関係の友人に聞くと

同じクラスにしてはいけないリストなるものを、

校長室に保管しているという学校があるそうです。

言ったもん勝ちです。

私も我が子のため、言っちゃいたい衝動にかられます。

だって、私は根っからの「言いたがり」人間。

いつだって「言わなきゃ損!」だと思っています。

でも、この年になって

【会社(コミュニティ)が円滑に機能するために、黙秘することを任務とする】

という職種があることを知りました。

それは秘書という仕事でした。

秘書には、

「たとえそれが自分のミスでなくても、上司に黙って叱られなければならない」

「自分の意に反することでも、その意見を述べてはならない」

といった役目があるそうです。

言わないことが秘書の仕事のひとつであり、それが会社の利益になるというのです。

自分の意見を言えることは、本当にすばらしいことです。

たとえそれがどんな内容であっても、

思いを言葉に表現できるということ自体、

人間の叡智だと思っています。

ですが、言わないことで営まれる世界もあるのですね。

時と場合によるのだろうけど、

勝ち・負け、損・得の感情でだけでなく、

もの言える・言わない人間になりたいです。

ちなみに、私は昨年の春めでたく秘書検定試験2級に合格しました〜(^‐^)v

資格を取得したところで、やっぱり言いたがりのままですが、

言わないことの役割を知り

“言わなかったもん勝ち”の部分も

ちょこっとですが、触れることができるようになった気がしています。

『張りすぎた糸は すぐ切れる 柔軟心(にゅうなんしん)』

 釈尊は、まじめに一心に修行し、足の裏から血を出すほど痛々しい努力を続け、道を求めながら、しかもなお悟りを得ることができずに苦悩している、弟子のシュローナに次のように語られました。

「シュローナよ、あなたは家にいた時、琴を学んだことがあるであろう。

糸は張ることが急であっても、また緩くても、よい音は出ない。

緩急よろしきを得て、はじめてよい音を出すものである。」

この釈尊のお言葉は、釈尊ご自身の修行の過程と重なっているように思われます。

よく知られていますように、釈尊は悟られる前、六年の間、ついには肋骨(ろっこつ)が見えるほどの難行・苦行を行ぜられました。

けれども、結局、悟りは得られず、この苦行の無意義を知って行を中止し、尼連禅河で沐浴し、村の娘が捧げる牛乳の粥で力を回復し、菩提樹のもとで瞑想して、ついに悟りを得て、仏陀・釈尊になられました。

この苦行を捨てて瞑想に至るまでが、釈尊の説かれる

「緩急よろしきを得」た場

だといえるように思われます。

では、ここでまさしくよい音が出るように「糸を張る」という点について考えてみます。

この場合、張ることに急であっても、緩やかであっても、だめだとされるのですが、ではどうすればよいのでしょか。

もし張ることが急であってはならない、という点が気になって、最初から糸を緩く張ろうとすればどうでしょうか。

これは張り方が中途半端になって、よい音は絶対に出ないはずです。

これは修行でもまったく同じです。

最初から力んではならないと、手を抜いていたのでは、何ら効果は上がりません。

琴の糸を張る場合、最初はできる限りまでピーンと張ることが大切で、張った後に、微妙にほんの少し力を抜く、糸を緩めることが求められるのです。

これは、例えばスポーツ選手が大切な場面で、力まないで肩の力を抜いて、よい結果が得られる場合もまさにそうです。

選手はあらゆる場面を想定して、心身を極限まで痛めつけて、どのような局面でも必ず成功するまで繰り返し練習を重ねているからこそ、実際の試合では肩の力を抜くことによって、練習の成果を十分に発揮することができるのです。

ところが、それを肩の力を抜くことばかり考えて、練習そのものをいい加減にしていたのでは、試合で肩に力が入り、よい結果を残すことは難しくなります。

私たちは

「張りすぎた糸はすぐ切れる」

と聞くと、ともすれば懸命に努力することを放棄して、つい安易な道を求めてしまいがちです。

けれども、大切なことは、何も努力をしないで成果を手にしようすることではなく、道を求めて一心に努力する中にこそ、柔らかな心の大切さに気づく世界が開かれることに心寄せることではないでしょうか。

「香水」

 本来は「こうずい」と発音し、サンスクリット語「ガンダヴァ−リ」の訳語です。

 諸種の香を混ぜた水のことで、仏前に供えたり、身体の清浄を保つため身にふりかけたり、仏具・仏殿をきよめたりするのに用いました。

 「こうすい」という読み方は江戸末期以降のもので、日本最初の和英辞典であるヘボンの『和英語林集成』では「こうすい」という読みでコロン水のような「Perfumed water」と説明してあります。

ちなみに、仏法の功徳を香にたとえて、教えを聞くことを「聞香(もんこう)」といいました。

日本語の「香をきく」というのは、その訓読から生じた言葉とされています。

「親鸞聖人における信の構造」5月(中期)

さて、ここで釈尊と法然聖人の説法を重ね、私たちにとっての「浄土真実の行」とは何かを考えてみることにします。

この浄土の法を最初に必要とした凡夫が『観無量寿経』に登場する韋提希(イダイケ)です。

よく知られていますように、釈尊の晩年、王舎城に悲劇が起こりました。

王子の阿闍世(アジャセ)が父王の頻婆娑羅(ビンバシャラ)を殺害して王位を得ようとしたのです。

頻婆娑羅の妻であり、阿闍世の母である韋提希はなんとか夫を救おうと努力したのですが、その行為が発覚して、韋提希自身もまた阿闍世に捕らえられて牢獄に幽閉されました。

このどうしようもない恐怖と苦痛と悲嘆の中で、韋提希はこの心を救って下さいと釈尊に願うのです。

この時、釈尊は一般に考えられる

「韋提希を牢獄の中から外に救出する」

という在り方ではなく、韋提希をそのままにして、しかも瞬時に苦悩する心を破り、永遠の安らぎを与えておられます。

具体的には、

『観無量寿経』

に説かれているように、南無阿弥陀仏の説法が、韋提希の心を浄土を願う無限の喜びに転ぜしめたのです。

法然聖人と親鸞聖人の関係にも、全く同一の構造が見られます。

では、いったい韋提希と親鸞聖人において何が起こったのでしょうか。

両者の共通点は、釈尊と法然聖人に出遇う以前に、人間苦の根本問題を自らの力で解決しようと懸命の努力を重ね、しかもその結果、努力の一切が根底から破れて、かえってどうすることもできない苦悩に陥っている点にあります。

ここで、この二人に明らかになった真理は、自分はあらゆる迷いを一つも欠くことなく具えた

「煩悩具足の凡夫」

であり、この世は無常であり、殊に人間世界には一つの真実もなく、それ故に完全なる安らぎなどあり得ないということでした。

したがって、この時の二人は、心の奥底において、今こそこの苦悩を解決してほしいと願いながら、自らの意識面では、もはやどのような行為も成り立つことはなく、ましてや努力しようとする意志さえ完全に消え失せてしまっていたのです。

ところが、不思議なことに、韋提希も親鸞聖人も、真実の道を求めて懸命に努力し、この絶望的な状況に陥った時に

「南無阿弥陀仏」

の真の声を聞いておられるのです。

「ヒトの意識が生まれるとき」(中旬) 敏感にとらえる

 センスのよいお母さんは、赤ちゃんがむずかっていると

「あらあらどうしたの」

というような感じで、普段よりも高い声がさっと出るんです。

それに対してセンスの悪いお母さんは、地声で言うんですね。

だから赤ちゃんに対してぱっと高い声を出すというのは、敏感に赤ちゃんは高い声が好きだということを無意識に感じているということなんですね。

赤ちゃんは、どうもこういう高い声が好きみたいなんです。

まだ生まれた直後ですよ。

何も教えられていないのに、そういう感性を持ってスタートするんです。

さて、赤ちゃんは非常にいきいきと動いているのに、大人はしっかりと応えているかということですが、先ほど

「若いお母さんが赤ちゃんをあやすときに、ぱっと声を高くしているかどうかよく見ましょう」

という話をしましたが、実は東京大学の正高という先生が実験をしているんです。

まだ子育てとか全く経験のない女子大生を対象に実験をしたんですけども、一歳ぐらいの乳児を形どったお人形をそこに置きまして、

「はい、このお人形さんに絵本の読み聞かせをしてください」

とお願いをしたんです。

その時の女子大生一人ひとりが発声する音の高さを測定しました。

そうすると、その正高という先生はすごい発見をしました。

その女子大生が末っ子や一人っ子だというのを、ほとんどピタリと当てたんです。

女子大生はみんな子育ての経験がないけれど、その女子大生に妹や弟がいたら、あやした経験が何度かある訳です。

そのあやした経験が自然に、意識していないのに出てくるということなんですね。

少子化の中で、今の子ども達は赤ちゃんをあやす経験がとても少なくなってきています。

これは、少子化社会で育った子ども達が大人になったときの子育てにも、どこか影を落とすこともあると思います。

つまり、子育ては頭でするものではないということです。

昔を思い出されるとお分かりになると思うんですが、年を重ねるごとに家庭電化製品の性能が非常に良くなり、お母さんたちの苦労は確かに減ってきています。

その一方で、子どもとの関わりに手が抜かれ始めたら、これはもったいないと思うんです。

なぜなら、実際に関わることで、私たちはいろんなことを学んでいるからです。

これが私の今日の結論なんですが

「素晴らしい応答から生まれる親子のきずな、そして『ヒトの意識の誕生』」

ですね。

私自身の問題意識は、赤ちゃんのことだけのつもりじゃないんですよ。

今のいろんな子どもをめぐる状況を考えてみると、どうも「きずな」ということが気になってしょうがないんです。

そうすると、私たち大人はいま子ども達にどれだけ敏感に関わろうとしているでしょうか。

赤ちゃんでさえ、あれだけたくさんのメッセージを大人に出している。

それを、どれだけ私たちは敏感にとらえて応答していくかということではなかったか。

そう思うと、ここに

「ヒトの意識の誕生」

というのをあえて演題にしたのは、そのようなことを考えたからなんです。

「応援上手な大人になる」

ということでまとめさせていただこうと思うんですけど、まず応援のタイミングはどうなのかなぁということを考えてみますと、今日私がお話する中で、大変たくさんの方々がうなずきながら聞いて下さいました。

つまり、私にものすごく勇気を与えて下さいました。

私はこういう図体をしていますけど、心臓は非常に小さいものですから、ドキドキしているんです。

そこでみなさんがうなずいて下さると、良かったと思いながらお話することが出来るんです。

こういう

「うなずき」

というのは、相手に力を与えるんだということを、多くの方々に気付いていただきたいと思います。

そして、妙な言い方ですが、戦後の教育の中で、

「親は欲目を持つな」

というふうにたくさん言われてきました。

でも親が欲目を持たなくなったら、いったい誰がその子のことをひいきして下さるんですか。

親だからこそ、

「あなたが一番」

というような部分があるんだと思います。

これは大事なことだと思うんです。

だから、みんなが客観的に見ようとする。

そういう中で、みんなが何か温かいものを忘れてきているような気がするんです。