投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

「親鸞聖人における信の構造」6月(前期)

 ここにおいて、親鸞聖人の思想には、なぜ自らの力による往生のための行を求めないかが明らかになります。

迷える凡夫には、本来的に清浄真実なる心は存在しないからで、真実の心がなければ、真に阿弥陀仏を信じる心は生じませんし、純粋な心で往生を願う念仏も称えることは出来ません。

したがって、もしこの愚かな衆生に対して、阿弥陀仏が本願にその衆生を摂取するための条件として、信じ方や行じ方を求めたとすればどうでしょうか。

真実の信も行もない衆生を救うための本願に、真実の信や行を成就せよと誓われていれば、その本願は

「具悪なる衆生は救わない」

という本願になってしまいます。

けれども、本願がそのような矛盾を起こすことは決してありえません。

したがって、阿弥陀仏が本願に、衆生を救うための条件として、信じ方や称え方を求められることはありえないのです。

「南無阿弥陀仏」と称える。

その念仏が阿弥陀仏が衆生を摂取している大行なのですから、称えるその時に、無条件で衆生の迷いの心の闇は破れ、悟りへの志願は満たされているのです。

では、衆生はただ口先で南無阿弥陀仏を唱えれば、それで衆生の往生は決定するのでしょうか。

宗教的実践において、その行為に自分の心が関わらない宗教は存在しません。

救いの心が成り立たないからで、称えている念仏に自らの全人格が関わり、念仏の真実を信知して、心の奥底から歓喜に包まれなければ、やはり往生の決定はありません。

その歓喜する心が信心なのです。

では、愚かな凡夫にこの信心はどのようにして生じるのでしょうか。

「人生の答え・本当の安心」

======ご講師紹介======

宮崎幸枝さん(みやざきホスピタル副院長)

☆ 演題 「人生の答え・本当の安心」−医療現場の念仏者たち−

宮崎幸枝さんは、茨城県にあります、みやざきホスピタル副院長をお務めです。

東京生まれの宮崎さんは、みやざきホスピタル副院長として小児科で患者さんのお世話をされる一方、理事長として病院経営もしておられます。

また、宮崎さんご自身、熱心な聞法者であられ、お忙しい中、東京の築地本願寺や、時には京都まで足を運んでおられます。

そして「患者さんに仏法を」と、病院内に聴聞の場を設置、月数回の聞法会を開催しておられます。

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−医療現場の念仏者たち−(上旬)ものすごい形相

平成九年のお正月に、生まれて初めて本当に嬉しい年賀状を頂きました。

それは「あけましておめでとうございます」のあとに、

「人間に生まれさせていただいて、本当によかったと思えるようになりました。

有り難うございました」

と書いてあったんです。

「人間に生まれて本当によかったと思える」、

これなんですね。

ここに到達したというんです。

それは前の年、平成八年十二月十三日のことを書いているんです。

トミちゃんという、うちの看護士さんなんですけど、その日彼女は重症室の受け持ちでした。

この重症室には戸田さんという男性の患者さんがいらっしゃったんです。

七年ぐらい前に胃ガンの全摘出をされましたが、肺にも転移していて重症室で酸素吸入をしていたんです。

その日の十日ぐらい前、私が戸田さんのところで

「今度は治らないかもしれませんよね」

と言ったら、

「そう」

と当たり前のようにおっしゃいました。

この方はずっと精神分裂病で長く闘病生活をしておられました。

そのとき精神症状はなく

「戸田さんの命が今終わったとしても、これでおしまいじゃないよね」

と言いますと、

「うん」

と言うんですね。

そして、しばらく阿弥陀さまのお話を二人でしました。

ところが、その十二月十三日の日は、戸田さんが重症室に入ってそれどころじゃない。

私が行くと、戸田さんはペッドに寝ていました。

よく見ると、彼の耳がものすごく紫色なんです。

これはかなりの酸欠だなと思いました。

そばに行くとものすごい形相で眉間にしわを寄せ、ぎらぎらした目で人をにらんでるんです。

トミちゃんから、戸田さんは最悪の状態だということを聞きました。

戸田さんがあんまり不安そうな顔をするので、どこが一番苦しいのか聞きました。

戸田さんは「全部」と言いましたね。

「何が一番不安ですか」「全部」。

それ以外のことは何も言いようがありません。

全部苦しくて、全部不安なんです。

そのとき自然に阿弥陀さまのお話が、まるでこの前の続きのように出てきました。

「お念仏はね、

『私を頼りにしておくれ。

必ずあなたを浄土に迎えるよ』

という阿弥陀さまの声なのよ。

今、戸田さんは阿弥陀さまに抱っこされているから心配ないよね」

と言うと、

「うん」

と答えるんです。

「戸田さん、お浄土があってよかったね」

「うん」

「阿弥陀さまと一緒だから心配いらないよね」

「うん」「戸田さん、お念仏しましょう」

って言ったら、今までギュッと寄せていた眉間のしわが、パッととれたんです。

びっくりしてアレッと思いましたら、そこに満面の笑顔が現れたんです。

そして、

「ナムアミダブツ。先生、有り難う」

っておっしゃいました。

そのとき、もっとビックリすることが起こったんです。

今まで点滴を見ていたトミちゃんが、いきなり戸田さんの枕元に走り寄って

「戸田さん良かったね、安心できて良かったね」

って叫ぶんです。

 びっくりしてトミちゃんの顔を見ると、大きな目に涙がいっぱいたまっていました。

トミちゃんは点滴を見ながら聞いていたんです。

「人間」

 日常会話の中で

「あの人は人間が出来ている」

といわれる時には、それは人柄や人格を指す言葉です。

また

「人間は考える葦(あし)である」(パスカル)

とか、

『人間−この未知なるもの』(アレクシス・カレル著)

といわれる時の「人間」は、人それ自体を指す言葉です。

 ところで、「人間」とは人・間と書きますが、「間」という意味はどこにあるのでしょうか。

 実はこの人間という言葉は、もともとは仏教語であり、単に人柄や人という存在だけを指す言葉ではありませんでした。

 仏教文献には、迷いの世界とその中に生存するもののありさまを説いて

「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天」

といっています。

その六つの世界、六道の中の一つが「人」つまり人間です。

このように、人間とは、人が関わり合って生きているこの迷いの世界を意味する言葉だったのです。

それで「人」に「間」という字がつけられている訳です。

「親鸞聖人における信の構造」5月(後期)

「南無阿弥陀仏」とは何でしょうか。

この念仏を親鸞聖人は「不回向の行」と理解されます。

この「不」とは、念仏は人間から仏に向かって救いを求めて唱える行ではないということを意味しています。

なぜなら、親鸞聖人は仏果に至るために、一心に浄土往生を願って念仏を唱え、ただひたすら阿弥陀仏の救いを求めながら、結果的にはどのような救いの確証も得られず、苦悩の奈落に陥ってしまわれました。

けれども親鸞聖人自身において、仏に向かっての、行も信も成り立たなくなったまさにその時に、阿弥陀仏からの声として

「南無阿弥陀仏」

が聞こえてきたのです。

ここで「南無」の語が非常に重要な意味を持ちます。

南無とは帰命という意味で、そのものを信じ、自らの一切をまかせる心だと解されています。

『正信偈』は、

「帰命無量寿如来 南無不可思議光」

の語に始まりますが、この冒頭で親鸞聖人はまず

「阿弥陀仏に対し帰命したてまつる」

と表白されます。

そうしますと、阿弥陀仏と私の関係は「南無」の語によって結ばれる訳ですが、ここに阿弥陀仏が衆生を「南無」する場合と、衆生が阿弥陀仏に「南無」する場合の二種の関係が生じることになります。

その後者がいま『正信偈』にみられる、親鸞聖人の阿弥陀仏に対する帰依の心となります。

ところで、親鸞聖人にこのような「南無」の心が生じたのは、阿弥陀仏からの

「あなたを救う」

という声を聞かれた後です。

親鸞聖人が法然聖人の前に跪いておられる時、親鸞聖人の心はただ苦悩するのみであって、そこでは親鸞聖人から阿弥陀仏への信も行も成り立ってはいません。

その親鸞聖人に対して法然聖人は、阿弥陀仏の大悲を説法されました。

「阿弥陀仏があなたを救おうとしておられます。

阿弥陀仏があなたを救うために、南無阿弥陀仏と呼んで下さっているのです」

法然聖人のこの弥陀招喚の教えによって、親鸞聖人は阿弥陀仏の大悲を獲信されたのです。

そうであればこそ、衆生が阿弥陀仏に「南無」する以前に、阿弥陀仏が衆生を「南無」する働きがあるのであり、その「南無」こそが、選択本願の躍動のすがた、つまり

「南無阿弥陀仏」

なのです。

「ヒトの意識が生まれるとき」(下旬) 循環が生まれる

 私がちょうどあるコンビニの前に立っていたときのことです。

そのコンビニには、十センチぐらいのちょっとした段差があったんですけど、目新しい三角のスロープが付けてありました。

おそらく

「バリアフリー天文館」

の一環でしょう。

そこに車椅子の若い方がやって来て、上がろうとしていました。

私はちょっと離れたところにいたんですが、その方がグッと顔をしかめられたので、走り寄って行ったらその瞬間にパッと上がれたんです。

女性の方でしたけれども、私の方を見てコニッとされたんです。

私もニコッと返しました。

実際に押したかどうかということではなくて、そういうことでの「きずな」みたいなものが、私たちの周りにたくさんあるはずだという気がするんです。

ところが、コンビニの前にたむろしている若い子たちは、たとえ知っている子がいても、そういう状況ではなるべく目を合わさないようにして通り過ぎていたりすることがあります。

そのような、大人でも距離をおいてしまっている。

つまり「きずな」を作らないようにしているのです。

子育て一つとってみても、昔はいろんな意味で忙しかったりしたら、お母さんは家事洗濯のときも赤ちゃんをおぶっていました。

今と違って遊園地に連れて行くとか、そんなことを全然しなくても、ある意味で常に赤ちゃんはお母さんの温もりを背中を通して感じ、お母さんは赤ちゃんの様子を背中を通して感じていたのです。

そういうものがあったのに、どうも最近の親子の様子を見ますと、何かちょっと違ってきてはいないでしょうか。

鹿児島県内にも、各地にたくさん公園が整備されています。

時々行くんですけど、「健康の森公園」であるとか、「錦江湾公園」であるとか、若いご夫婦が就学前の幼児、あるいはそれ以下の乳児を連れてたくさん遊びに来ています。

こういう場所があっいいなと思うんですけど、よく見ると、親がベンチに座っているだけで、子どもだけを遊ばせているというようなことがあまりにも多いような気がします。

そしとて時間が来たら、「帰るよ」という感じで、子どもたちを車に詰め込んでいます。

はたして、これで「きずな」作れるんだろうか、というような気がします。

一緒に過ごす時間というのは、ただそこにいるだけじゃなくて、お互いに循環が生まれるような関わり合いすることだと思うんです。

赤ちゃんの子育てというものはそういうものだったと思います。

それをいつの間にか、私たちは一方通行の子育てに変えてきて、そして子どもが見えなくなったと言っているのです。

循環がずっとあれば、なんとなく感じられる部分があるような気がするんです。

「仏教というのはどんな宗教」

仏教はお釈迦さまを開祖とする宗教です。

キリスト教・イスラム教と並んで世界の三大宗教の一つに数えられます。

仏教は仏(真理に目覚めた人)の教えであり、仏(真理に目覚めた人)になる教えであります。

人間として、命を頂いたならば、必ず年をとっていかなければなりません。

そして縁がととのえば、病気にもなっていかなければなりません。

そして遅かれ早かれいつか必ずいのち終わっていかなければなりません。

年をとり・病気になり・死ぬという人間の根本の苦しみを真正面からしっかりと引き受け、乗り越えていく道を説いたものが仏教という教えであります。

人間は自分に都合のいいように判断する自己中心の眼によって物事を見ているために物事の真実の姿をついつい見誤ってしまう場合があります。

お釈迦様は、自分に都合のいいように判断してしまうその色眼鏡をはずして、ありのままに物事をみていくことの大切さをお説き下さいました。

ありのままにものごとをみていくこと。

それが「智慧」といわれる能力であり、仏教のさとりとは、この智慧を得ることでした。

この智慧の眼によって物事を見ていく時に、すべてのものは消滅変化し、とどまるものは何もないということ。

すなわち「無常」であるという真理に目覚めていくのです。

この「無常」という真理に目覚めていく時に、ついつい

「生きているのは当たり前」

と思っていたこの私のいのちが、いかに尊いものであったかに気付くことでしょう。

また、すべてのものが複雑に重なりあい、支えあいながら成り立っていること。

つまり「縁起」の関係にあることも智慧の眼によって知らされます。

「縁起」という真理を知ることによって、私は一人で生きているのではなく、多くの人に支えられて、多くのいのちの犠牲の上に成り立っている。

生きているというよりも生かされているいのちであったということに気付かされることでしょう。

これらの真理に目覚めていくことにより、私たちがお互いがお互いを輝くいのちとして認め合い、尊重しあえる世界が広がってくるのではないでしょうか。

そこに仏教の教えの目的があるのです。

たくさんのいのちある中で、受けがたい人間としての尊いいのちを頂いてこの世に生を受けた私たちです。

この世にいのち頂いたその意味を一生涯をかけて仏教の教えの中に問うていきたいものです。