投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

「法事は延ばすより引き寄せる方が良いと聞いたのですが…」

先日、ご門徒さんから

「去年が三十三回忌だったのですが、ついうっかりしていて、忘れてしまっていました。

今年行ってもよいでしょうか」

という質問を受けました。

そこで

「大丈夫ですよ」

とお答えをいたしました。

一周忌・三回忌等はめったに忘れることはありませんが、月日が経つにしたがってついつい忘れてしまったということは、よく聞くことです。

「法事は延ばすより引き寄せる方が良い」

といわれるのは、ともすると故人のご命日をうっかりと忘れてしまうことのある私たちに

「故人のご命日を忘れることのないようにしなさいよ」

という戒めの意味でいわれている要素が強いようです。

ですから、親族が集まり易い土日に法事を行う場合に、ご命日より前の日曜日より、ご命日より後の日曜日がみんなの都合がよければ、その日に決めて法事を勤めても何ら差し支えはありません。

とはいえ、やはりご法事は本来、故人のご命日に行うことが本義であることだけは、しっかりと心に留めておきたいものです。

なによりご法事は、一人でも多くの方々が仏縁に出遇って頂く大切な場であります。

ご命日以外にお勤めされる場合、故人のご命日の前後を気にすることなく皆さんが集まり易い日を選定し、故人を偲びつつ、私いのちにかけられている仏さまの願いをしっかりと聞かせていただきましょう。

「道場」 

 昔、お釈迦さまは35歳の折り、インドのブダガヤの菩提樹の下で覚りを得られました。

このお釈迦さまの覚られた所(サンスクリット語:ボーディマンダ)は道場の原義です。

 道(さと)りの場から学道または修行をなす場所、法が説かれ実現される場所、仏道を修める場所、本尊を安置し修行する場所、また初期浄土真宗に見られる念仏者が集まり念仏を称える場所を指すようになり、さらには武術などの稽古の場所を指すようになりました。

 いずれも、この世に生まれ出た私たちが、人生の真の意味を追求するための大切な場所という意味合いがあります。

私の机の上には百円ショップで購入した香炉があります。

私の机の上には百円ショップで購入した香炉があります。

それで、これまた百円ショップで購入した線香やコーンタイプのお香を焚いて香りを楽しんでおります。

 仏教の伝来と共に日本にも入ってきたお香ですが、仏道作法により定着し、平安時代にはまず貴族の間で香の香りを楽しむようになりました。

やがて江戸時代に入り、中国より線香の製造方法が伝わるや広く一般庶民にも普及していったそうです。

 お香の原料の種類ですが、私たちがもっとも親しんでいるのは香木でしょうか。

香木には白檀(ぴゃくだん)、沈香(じんこう)、伽羅(きゃら)などの種類があります。

そのほかにも草の根や木の皮、動物から採るお香などもあります。

仏教では、体臭などの悪臭を除き、かぐわしい香りで心を落ち着かせ、清々しい気持ちで仏さまに接するということで早くから用いられてきました。

また、浄土真宗ではお香の香りを嗅ぐことによって清らかなお浄土の世界に思いをはせると共に、誰彼と差別することなく行き渡るお香の香りから、阿弥陀さまの分け隔てないお慈悲の心を表すとも言われています。

お寺で使うお香には、線香や刻み香の他に常香盤(常にお香が燃えている盤)に用いる抹香や登礼盤作法の時用いる塗香(体や衣に塗って使う)等があります。

またお焼香の作法ですが、土香炉に燃香(線香に火を付けてお供えすること)するときには線香は立てずに、左端から右端の方に燃えていくよう寝かせて置きます。

金香炉に焼香するときにはお香は一回だけつまみ、頭上に押し頂くことなくそのまま金香炉にくべて合掌礼拝するのが正しい作法です。

『張りすぎた糸は すぐ切れる 柔軟心(にゅうなんしん)』

3月まで放送されていたNHK朝の連続テレビ小説「ちりとてちん」。

ご覧になっていた方も多いのではないでしょうか。

落語の世界をモチーフとしたドラマで、その中でも特に「愛宕山」の一節はドラマの本筋として頻繁に引用されました。

『野辺へ出てまいりますと春先のことで、

空にはひばりがピーチクパーチクさえずって、下には蓮華、タンポポの花盛り。

陽炎がこう萌え立ちまして、(中略)〜その道中の、陽気なこと』

 この一節は幾度となくドラマの中に登場し、そしてその都度、お話の情景を頭に思い浮かべることでした。

思うに今、頭に思い描く、深く物事を心に思案するといった場面が生活の中に少なくなってきたようにも思われます。

テレビやパソコンが普及した今日、私たちの目には様々な情景を映像として見ることが出来ます。

しかし、落語を始め「聞く」という行為には、聞く側の想像力、そして何よりもその真意を受け伝えていく姿勢が求められてきます。

 テレビドラマでありながら、しかしその一方で聞くということ、目には映らないけれども、いろんなことに想いを馳せるといった、人間としての心のありようを、このドラマが私たちに問うていたように今振り返ることです。

 今月の言葉の最後に「柔軟心」とあります。

これは、仏さまの心を言い表した言葉です。

何となくやわらかく、やさしく、そしてあったかくなるような仏さまの広大なお慈悲を表しているような気もします。

けれども、この仏さまの柔軟心というお心は、私たちが安易に思いはすれるようなものではなく

「全てを平等に受け入れる心」

「自他の区別を超えた心」

を「柔軟心」と呼ぶのだと教えられています。

 私たちは、常に自我の心に執われ、自分の都合で相手を選び、自分の物差しで物事も考えてしまいがちです。

なかなか、全てを平等にとらえることは難しいものです。

知っていながら、現実にはそうはなれない、そのまま受け入れられない自分であることを、

「柔軟心」

を通して思い知らされます。

この言葉に込められた、私たちの生きざまに対する厳しい問いかけに耳を傾けられる、そういう心を忘れない生き方でありたいと思うことです。

「親鸞聖人における信の構造」5月(前期)

 ここにおいて南無阿弥陀仏が、仏教における唯一最高の法ということになるのですが、この法の真理がまた唯一の例外を除いていかなる人々も知り得ないのです。

では、唯一の例外とは誰でしょうか。

それが、その国土の仏なのです。

仏のみが仏の心を知りうるからで、それ故に無限に輝く真如(阿弥陀仏と呼ばれる仏)は、十方世界の一切の生きとし生けるもの(衆生)を救うために各々の仏国土の仏に、まず

「南無阿弥陀仏」

の法を廻向し、その諸仏をとおして、南無阿弥陀仏を称え讃嘆せしめて、一切の衆生を救うべき本願を成就されたのです。

 ある時、釈迦仏は耆闍崛山(ぎしゃくせん)で三昧に入っておられたのですが、その釈尊が今までになく不可思議に輝き始められました。

そのお姿の輝きを不思議に思い、弟子の阿難が釈尊に

「仏は常に諸仏と念じあわれています。

今日のように清らかで悦びに満ちた世尊の輝きを、私は未だかつて見たことがありません。

必ずや最高の仏の法の中に住せられていることと思います。

その仏の法をお教え下さい。

とお願いしました。

 この阿難の問いに釈尊が

「自分がいま念じている仏法こそ、まさに不可思議にして、一切の衆生を悟りに至らしめる、唯一の大乗仏教の究極の教えである。

この教えに勝る仏法はなく、この無限の大悲の法を説くために、自分はこの世に生まれてきたのだ。

とお答えになり、ここに阿弥陀仏の本願が語られます。

 では、どのような法が阿弥陀仏から釈尊に廻向されたのでしょうか。

ここに「南無阿弥陀仏」と、一声の念仏が釈尊によって称えられ、釈尊の説法が始まるのです。

 阿弥陀仏は、一切の衆生を阿弥陀仏の浄土へ往生させるために、阿弥陀仏の名号を衆生に称えさせています。

阿弥陀仏がその本願において、仏法の中から最高の宝を選択されましたが、その宝こそ仏果に至るための一切の善行を修め、仏果の功徳の一切を具している「南無阿弥陀仏」という名号だからです。

それ故に、衆生が一声「南無阿弥陀仏」と称える時、その称名は、衆生を惑わす一切の無明の闇を破り、仏果を願う衆生の志の一切を満たされるのです。

このように「南無阿弥陀仏」は、阿弥陀仏より廻向された、選択本願の大行であり、真如そのものの功徳が満ちている宝の海です。

だからこそ、釈迦仏は説法において、南無阿弥陀仏を称え、その名号の法を明らかにして、釈迦国土の一切の衆生を阿弥陀仏の浄土へ往生せしめられたのです。

「ヒトの意識が生まれるとき」(上旬) 女性の声が好き

======ご講師紹介======

大坪治彦さん(鹿児島大学教育学部教授)

☆ 演題 「ヒトの意識が編まれるとき」

大坪先生は、昭和五十八年に鹿児島大学教育学部心理学科に就職。

以来、教育心理学を専門に様々な研究を重ねてこられました。

「新生児の認知発達」「学校不適応児への臨床援助」「教育及び心理学におけるコンピュータ利用」「交通安全」を研究テーマとしておられます。

また、日本心理学会等にも所属され、多忙な日々をお過ごしです。

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 みなさんと一緒に赤ちゃんことを考えてみたいと思います。

赤ちゃんのお話をするのは、たとえば少年非行の問題であるとか、いろんな子ども達をめぐる状況、これを「きずな」という言葉で考えたいからです。

そうすると、お父さんお母さんと赤ちゃんの関係、あるいはおじいちゃんおばあちゃんと赤ちゃんの関係、ここがある意味で「きずな」のスタートだと思うんですね。

こういうデータがあります。

「男性・子ども・女性の各呼びかけ声に対する新生児の反応」

というものですが、三十歳前後の男性の方、三歳過ぎの元気な男の子、そして二十歳代中頃の女性にお願いをしました。

すべて同じ言葉をテープに吹き込んでもらい、それを生まれたばっかりの赤ちゃんたちに聞かせます。

私たちは赤ちゃんの胸に心臓の鼓動を計る装置を付けて、赤ちゃんたちの心拍数を計りました。

この中で、正期産児というのは、およそ受胎から四十週して生まれてきた赤ちゃんで、それに対して早期産児と言われている赤ちゃんがいます。

みなさんも時々聞かれると思うのですが、

「八カ月で早産だったのよ」

とか言ったりしますね。

つまり、十月十日ではなくて、それよりも一カ月とか二カ月とか三カ月とか、早く世の中に生まれてきた赤ちゃんたち、その早期産の赤ちゃんたちを対象に私たちは研究をしています。

まぁ、正期産児も早期産児も似たような結果になったんですけど…。

実は、男性の声の時、赤ちゃんの心拍数が一番高くなったんです。

「おっ、男性の声で一番心拍数が上がっとるじゃないか」

と思われる方がおられるかもしれませんが、男性の声はほとんど役に立ってないんですね。

けれども若い女性の声では、赤ちゃんの心拍数がだんだんゆっくりになって、落ち着いてくるんです。

男性の大人の声に比べたら、子どもの男の子の声の方がまだ効果があるというような感じなんです。

どうも赤ちゃんは声のえり好みをしているみたいなんですね。

どんな声が好きかといいますと、女性の声が好きという言い方よりも、子どもの声を頭に入れると、少し高い声が好きということが言えるようです。

例えば、若いお母さんが赤ちゃんをあやしているとき、よく見ていてください。

センスのいいお母さんは、普段みなさんとしゃべっている声とは違う声で赤ちゃんと対話しています。