投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

「利益」

 「利益」は、利得、もうけといった意味で使われています。

宗教においても、人の祈りに応じて利益をもたらしてくれるのが、よい宗教であると考える人が多く見られます。

人の祈りにも、集団における共同祈願と個人的な祈りがあるといわれます。

例えば、雨乞い、日乞い、疫病送りとか、息災延命、課内安全、商売繁昌など、多種多様の祈りがあります。

人は、現実の生活苦からの離脱を求めて祈り続け、その恵みとして与えられた恩恵を、ご利益といっています。

 けれども、利益ということには、自分が利益を得るということだけでなく、他の人を益するということ、恵みを与えるということがなければなりません。

仏教では、仏の教えに生きて得られた恩恵を、自利・利他の益として明らかにしています。

自らの利益を得ることは同時に、他の人々を利益することでなければなりません。

それが菩薩の精神であり、実践なのです。

 仏の教えによって得られる利益とは、金銭上や物質上の利益ではありません。

自らのいのちの尊さに目覚めて生きる私となることが出来るということです。

教えのもつ最も深い意味での利益は、一人ひとりが、仏の本願に喚び覚まされて、最も尊いものとして自己を生きる自身を獲得することです。

そこに自ら人々を利益して、ともに生きるという、本当の共生の生が開かれていくことと思われます。

「親鸞聖人における信の構造」(2) 念仏と信心 4月(後期)

親鸞聖人は『無量寿経』を釈尊の出世本懐の経と呼んでおられます。

釈尊がお生まれになられたのは『無量寿経』を説き、阿弥陀仏の本願を明らかにして、

「南無阿弥陀仏」

の真理をこの世に伝えるためであったと見られたからです。

では、阿弥陀仏とはどのような仏さまなのでしょうか。

親鸞聖人はこの仏を

「光明無量・寿命無量」

ととらえられます。

一切の空間と時間を覆って、光輝いている仏が、阿弥陀仏なのです。

そうすると、このような功徳を有する仏は、ただ真如のみだといわなくてはなりません。

ただし、真如は虚空であって、この法性(法の真実性・法のすがたそのもの)は衆生には知り得ませんし、見ることも出来ません。

ところで、仏の大悲心とは、迷える人々を救い続ける心です。

そうすると、最高の仏である真如にこそ、真に無限の大悲心がましますのであり、したがってこの仏がまさに一切の迷える衆生を無条件で救い続けていかれるのです。

では、無限に輝き続けるこの仏は、どのようにして人々を救おうとされるのでしょうか。

真如法性のままであれば、私たちとの接点は存在しません。

たとえ人々を救おうとして真如が人々を覆うとしても、人々はその仏を知り得ないからです。

ここにおいて真如は、人々を摂取するために、真如の功徳のままで人々の現前にその姿をあらわさなくてはなりません。

ではそれは、どのような「すがた」なのでしょうか。

そのすがたこそ

「あなたを救うために、無限に輝く仏がすでにあなたの心に来っている」

と伝える言葉だといわなくてはなりません。

この「あなたを救いたい」との仏の願いが「南無」と発音され、また無限に輝く仏が「阿弥陀仏」と発音されるのです。

そうすると、まさに「南無阿弥陀仏」こそが、真如そのものの人々を救う姿なのだと言えます。

「念仏のうちに千の風」―いのちの尊さ・医学・仏教音楽からー(下旬) 無数のいのちが私一人を支えてくれている

 仏さまは、人の一生はとても不確かなことばかりで、どこでどんな縁があって新しいいのちが生まれるかわからないし、どんなことで死を迎えるかもわからないと教えてくださっています。

特に最近は、殺人事件などいろいろ物騒なことがあって、本当に大変です。

人生の終わりを迎えるときは、無事に死を迎えることは簡単なことではないんですね。

 それでも私は、おばあちゃんが「千の風」のメッセージのように、仏さまになって私を導いてくれていると思い、

「仏さまのおかげで日々を元気に生かされて、本当に有り難いことです。

どんなことがあってもこの辛い山を越え、幸い海を渡ることもできます」

とおばあちゃんに語りかけて毎日を生きています。

 不思議なことですが、

「今日は楽しいね」

と思えば楽しくなりますし、

「今日は疲れた」

と言っていると、やっぱり顔も疲れてきます。

「毎日そんなにきれいにするのは恥ずかしい」

と思われるご年配の女性もいるかもしれませんが、そうではないのです。

 朝起きたままの姿、顔でご主人にあいさつするよりも、ちょっとだけきれいにして

「おはようございます」

と言葉を交わした方が

「あぁ美しいなぁ」

と、お互いにその一日の始まりが楽しいものになると思いませんか。

それが本当の一日の始まりですよ。

 そのように毎日を生きていられるのも、いのちが自分一人のものではなく、お父さんお母さんから引き継がれた尊いいのちだからです。

そして両親にもお父さん、お母さんがいます。

そういうふうに、十世代前までさかのぼりますと、1024人のご先祖から今の私のいのちが成り立っているわけです。

 また、私たちは生まれてから今まで毎日、肉や魚、野菜を食べてきました。

数えられないほど多くのいのちが、私というたった一つのいちのを支えてくれているのです。

ですから、自分のいのちを大切にしなければ、このたくさんのいのちに怒られてしまいます。

 『ハートフル大学』の会員の皆さんが、たくさんの先生のお話から勉強してこられたのは、本当に素晴らしいことだと思います。

私もみなさんを見習って努力しますので、皆さんも頑張って勉強して下さいね。

『死んだ人はお墓の中にいるの?』

 お墓参りは私たちの日暮らしの中で、身近な宗教的営みとして、多くの人々が大切に心がけていらっしゃることと存じます。

よく知られていますように、お墓や納骨堂には、先に亡くなっていかれた方々のお骨が納められています。

しかしながら、お骨そのものが仏さまや礼拝の対象となるのではありません。

また、故人がそこに眠っているというわけでもありません。

私たちの浄土真宗では、この命が終わると同時に、阿弥陀如来の願いのはたらきによってお浄土に生まれ、阿弥陀如来と同じ悟りを得て仏さまとならせていただくことを味わいとします。

したがって、亡き方々は、今は残された私たちを真実へと目覚めさる仏さまとして、常に私の上にはたらいてくださっているのだと言えます。

もちろん、だからと言って、決して遺骨やご先祖を粗末に扱ってもよいということを述べているのではありません。

亡き方を偲ぶ中に、脈々と受け継がれてきた私の命であること、そして限りある命として、いつかはこの私も亡くなっていく事実を、遺骨を形見として私自身が気づかせていただくことが大切なのです。

亡くなった方へ向けて私がお参りしているのではなく、私が喚ばれて、そして今こうして手を合わせ仏さまを拝む身にお育ていただいたこのご縁を、「おかげさま」として味わいたいものです。

阿弥陀さまに心から手を合わすことが、すなわちそのままご先祖を敬い感謝することになるのです。

ある寒い日の早朝。

ある寒い日の早朝。

その日は、祖母がデイサービスに行く予定でした。

 いつもより早く起きた祖母は、洗顔のために自室より洗面所に行き、帰り際、足を滑らせて転んでしまいました。

家中に物が倒れたような音とともに、祖母の「痛い!」という悲鳴が響きわたりました。

家族中が心配する中、祖母は自らの力で起き上がることもできない状態で、誰もが

「骨折しているかも…」

と案じる思いがあったので、念のために救急車をお願いすることにしました。

 時を置かずして到着した救急救命士の方が素早く手当をして下さり、担架に乗せられ車上の人になった祖母は顔面蒼白といった状態でした。

病院に着くとすぐに診察して頂き、レントゲン撮影の結果「大腿部骨折」の診断が出て、それから入院生活が始まりました。

 「手術をして、金属2本を入れる方が回復が早い」

とのことでしたが、祖母は百一歳。

手術そのものが、心身ともに大変な負担であることは、考えるまでもなく明白なことでした。

 術前、祖母の顔面は緊張で強張り、痙攣をおこしていました。

 術後、認知症が入ったでのはないかと思わせる言動がみられるようになりました。

 けれども、現在祖母は日を追うごとに元に戻ってきています。

「すごいよ!おばあちゃん」

と、いつも、いつも頭が下がります。

 祖母は、若い頃から聴聞に励んでいたそうです。

その影響もあってか、私が身の周りの世話をした帰り際には、必ず両手を合わせて

「ありがとう!」

と私を拝んでくれます。

その姿は、なんともいえず美しく見え、私は温かい気持ちになります。

 『合掌とは拾うことであり、丁寧な表現をすれば頂戴することで、仏様に手を合わせることは、お慈悲を頂くことである。

また、合掌の手の形は蓮の蕾を表している』

と、祖母が話してくれたことがありました。

 今、祖母の中に仏様から頂いたお慈悲が蕾から花へと開かれたのでしょうか。

拝まれている私が、祖母の心の中に鮮やかに咲いている白蓮の花、その花を拝みに病院へと足を向けている思いがします。

 「私の足を祖母が、白蓮の花へと向けさせ、繋がっているのだな…」

そんなことを味わう、今日この頃です。

『人は独りでは生きられない』

以前、ある新聞に

「電車の中で、女性がお化粧をすることをどう思いますか」

ということについて、二人の方(男性と女性)が対談をされた内容が掲載されていました。

先ず男性の方が、若い人がこのごろ電車の中で平気でお化粧をしている姿を見ると、私たちの社会から

「恥じらい」

という感覚や言葉は消え去ってしまったのだろうか…と、感性の喪失を憂える気持ちを率直に述べられました。

それに対して女性の方が、電車の中でお化粧をすることが気にならない理由は

「基本的には、周りの方を人とは思っていませんから」

と応えられました。

重ねて

「でも、好きな人の前では化粧はしません。

会う前に完成させておきたいと思います。

でも、その途中で出会う人は自分の人生には何も関係がありません。

いわば風景のような自分にとっては意識外のものなんです」と。

つまり、周囲の人を

「人とは思っていません」と言われるのです。

さらに

「だいたい

『電車の中は公の場なのだから、そのような意識を持った上でみんなが振る舞わなくてはならい』

というのはおかしい。

公の中に、それぞれが自分の空間を持って、そこでは当然自分の好きなことをしてよいのではないか。」

また

「暗黙の了解でつくっている個人の空間をジロジロと見る方こそ、むしろマナー違反ではありませんか」

とまで主張しておられました。

けれども

「自分に関係のない人は、たとえ隣り合わせても風景と同じ。

人とは思わない。」

というような社会においては、

「いのちのぬくもり」

というものを人々が持ち得るとは思えません。

確かに、若くて元気な間は、あるいは他に迷惑をかけないかぎり

「それぞれに自分の好きなことをする」

ということで良いのかもしれませんが、これはバリアフリ−を推進して行こうとする考え方とは対極をなすものだといえます。

いろんなハンディを持っている人にとっては、周りの人が自分を風景としてしか見てくれない、関係がないから…と、何の関心も寄せてくれないということになりますと、これはまことに寂しい社会だといえます。

一般に、動物にはテリトリーがあるといわれています。

「ここは自分のナワバリだ」

ということを自分のにおいを刷り込んで、主張して、たとえ同じ仲間であってもそこに他のものが侵入してきたら、争ってでも追い出すということがあります。

そうしますと、電車の中で平気でお化粧が出来てしまうのは、電車の中でも街角でも、そこに自分のテリトリーを持ち込んで、まるで自分の部屋にいるのと同じ感覚や態度で、同じことが出来てしまうからではないでしょうか。

けれども、まさにこれは人間の動物化現象の表れだといえます。

言い換えると、非人間化の現象が顕在化していることの象徴的出来事だといえます。

自分と自分の仲間だけを受け入れて、関係ないもの、あるいは自分の気分に反するものを受け止めて行く力が衰えてしまっているのが、今の私たちの姿だといえます。

しかしながら、そこには人間としてのぬくもりなど、全く感じられません。

人と人の間を生きるからこそ、私たちは「人間」なのです。

人間は、決して独りきりでは生きられません。

経典に

「お互いに敬愛して生きなさい」

という言葉がありますが、私たちは多くいのちに支えられて生きていることを心に留めて、周囲の人たちとの出会いやご縁を大切にしていきたいものです。