投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

「秘密」

サンスクリット語「グフヤ」の訳語で、教えの内容やその説きかたについて述べる語です。

仏の教えが奥深くて、その境地から遠い凡夫には理解できないこと、あるいはそのような深遠な教えの事。

また、仏がその教えを寓意や隠喩の形で説くことをいいます。

 それが一般語彙に入って、単に隠して人に知らせないことの意味として用いられるようになりました。

このような用例は平安時代にも見られますが、一般に流布するのは中世以降で、室町時代の末期には「秘密する」という語もありました。

なお、これは単なる「隱し事」の意味です。

「親鸞聖人における信の構造」2月(中期)

親鸞聖人は浄土教に三種の往生の求め方があると語っておられます。

一は『観無量寿経』、

二は『阿弥陀経』、

三は『無量寿経』の教えに添った往生観です。

三者はいずれも阿弥陀仏の浄土への往生を願っていますから、その意味では三者の心は共通しています。

しかも阿弥陀仏の浄土への往生を願うということは、阿弥陀仏に救われたいと願い、その本願力を増上縁としていることにおいても、三者の心は一致しています。

さらにその本願力が、第十八願に誓われている。

阿弥陀仏の本願力であることもまた同一なのです。

では、阿弥陀仏は第十八願に何を誓われているのでしょうか。

第十八願には「至心信楽欲生我国乃至十念」と誓われていますが、善導大師はこの願の心を、十声「南無阿弥陀仏」と称えることであると解釈されました。

つまり、阿弥陀仏は本願に

「念仏せよ、その一切の人々を救う」

と誓われているので、ただ称名念仏を相続することが往生の行であると説かれたのです。

ただし、善導大師はこの本願の心を『観無量寿経』の教えと重ねて衆生に説かれました。

本願には一切の衆生を全て平等に救うために「念仏せよ、救う」と誓われています。

では、衆生は本願によって救われるためには、どのように念仏を行ずれば良いのでしょうか。

救われるためには、阿弥陀仏が衆生を救いたいと願っている心と、衆生がまさに阿弥陀仏に救われたいと願っている心とが完全に一致しなければなりません。

阿弥陀仏の願いに応じて、衆生もまた一心に往生を願い念仏を相続しなければならないのです。

この場合、この世には様々な衆生がいます。

これら『観無量寿経』では、心を統一し清浄にして、阿弥陀仏を見ることの出来る者と、心の統一が不可能な者とに分けます。

後者が凡夫ということになりますが、この凡夫をさらに能力に従って、上の上から下の下まで九段階に分け、それぞれの能力に応じた念仏の称え方を『観無量寿経』は説いています。

この能力に応じた念仏行の説示は、教えとしてはまことに正しいといえます。

阿弥陀仏は本願に

「念仏せよ、あなたを救う」

と誓われていますが、もし衆生がその教えを信じないで、ただ南無阿弥陀仏と唱えただけであれば、そのような念仏はあたかもカエルの声と同じであって、その行為には宗教的な意味は何もありません。

衆生が本願に応じるためには、各々の心にかなった念仏がやはり求められなくてはならないのです。

「ホスピスの現場から」

〜地球・いのちへの視座〜(中旬)

現実であるものをきちんと見る

 病気などで患者さんに本当のことを伝える告知というのがありますね。

外国語では告知とは事実を告げるという意味なんです。

本当のこと、例えば余命あと何年と言われたときと、あと数カ月と言われたときとでは、残された馬韓の意味と重みが全然違います。

やはり本当のことを言わず、対話の中に嘘が介在する患者さん、ご家族、そして我々医療者の中で本当の信頼関係は築けません。

 そういうこともあって、内容としては辛いことですが、本当のことを言って、残された時間を患者さんが自身どのように使いたいかということをみんなで聞いて、それを支えてあげるということが望ましい形なんだと思います。

ホスピスケアでも、患者さんが知りたい程度にお伝えします。

 病状について、患者さんが詳しく知りたければ詳しく伝えますし、おおざっぱでよければそのように伝えます。

また、悪い情報は知りたくないという方には、あえて伝えないようにしています。

本当のことを知っていただくと、納得して医療を受けることが出来ます。

それから患者さん自身の自己決定権を尊重出来ます。

自分の身体について本当のことがわからないと自分で決めることは出来ません。

 そして、いろんな問題があればそれを解決したり、仕事とか財産などの問題を整理して、残された時間を有意義に過ごすことも出来ます。

そうはいっても、すべてがすべて良い面だけではありません。

知ることによって患者さんがショックを受けて、立ち直らないということもあり得ますので、すべて伝える必要はない訳です。

 ここで、ホスピスの事例を紹介したします。

最初は、五十代のある女性の方です。

この方は乳ガンの骨への転移で当院へ来られました。

抗ガン剤などを拒否してホルモン剤を飲んでいましたが、腰が痛くなって歩けなくなりました。

焼け火箸を背中に押しつけられたような強い痛みを訴えられて、とても歩くことは出来ず、ずっとベッドに横になっていました。

 そんな状態でしたが、一週間の間に痛み止めを使うことで歩けるようになったんです。

この方は生け花がお好きで、亡くなる一週間前まで自分でお花を生けていました。

最初見たときは、余命三カ月かなと思いましたが、六カ月ほどもって、そうして最期は眠るように、穏やかに亡くなっていかれました。

 それから、小説家の白石一郎さんという方がおられました。

この方は

「病気にかからないことを目的化したり、戦々恐々と暮らすことだけはしたくない。

今は陰も陽も醜いものも、現実であるものはきちんと見ないといけないと思うようになった」

と言っておられます。

 また、スイスのポール・トゥルニエという方は、

「生きる目的は苦しみを無くすことではない。苦しみを実りあるものにすることである」

と言われました。

苦しみというのは、この世の中から消えることはないですよね。

その苦しみを実りあるものに転ずるということが大事だと思うのです。

『法事を勤めたいのですが…。(法事の日取り)』

 法事と言えば、すぐに年忌法要のことをイメージされると思いますが、法事とは仏法の行事のことですから、初参式や結婚式など年忌法要に限らず仏前で行われる行事は全て「法事」と言うことができます。

年忌法要の名称は、亡くなられてから1年後が一周忌。

2年後が三回忌、6年後が七回忌、12年後が十三回忌、16年後が十七回忌、24年後が二十五回忌、32年後が三十三回忌、49年後が五十回忌、以後五十年ごとにお勤めしていくのが一般的です。

ただし地域によっては、二十五回忌を行わないで、二十三回忌と二十七回忌を勤めるところもあるようです。

なお、亡くなられた年が一回目のご命日ですから、翌年は二回忌になるのですが、まる一年ということで一周忌といい、それ以降は亡くなられた年から数えはじめますので一周忌の次は三回忌といいます。

この年回法要の意義ですが、一般には

「亡くなられた人のため(追善)に勤めるもの」

と思われている方が多いようですが、年回法要とはあくまでも亡くなられた方のご命日を通して、私が仏法のご縁に合わせていただくものです。

複数の方の年回法要を一緒にお勤めすることを「併修」といいます。

法事は、仏滅など日の善し悪しなどを言わずにお勤すめるのが本来の姿ですが、お仕事の都合などでどうしても期日を変更しないといけない時には、早めにお寺に連絡して住職と打ち合わせ下さい。

「ありがとう」

 普段、なにげなく使っている「ありがとう」というお礼の言葉は、「有り難し」という仏教語です。

出典は『法句経』の

「ひとの生はうくるはかたく、死すべきものの、生命あるもありがたし」

という、人と生まれた生命の驚きを教える教説です。

 「有り難し」とは、その仏説を聞き、人の生命の尊さに目覚めた大いなる感動を表す言葉です。

それがいつしか、感謝の意に転用されるようになりました。

先人のこのような宗教的心情を想うとき、これからも大切にしていきたいと言葉であると感じられることです。

ある先生から頂いた年賀状のお言葉です。

ある先生から頂いた年賀状のお言葉です。

『≪「求めない」すると、何かが変わる(加島祥造著)≫という本に出会いました。

欲望過多の世に流され、求めるように促されている自分にハッとさせられます。

「どうしようかと迷ったときは、求めないと心に言い聞かせ、口に出してみると気が楽になる」

のだそうです。

日々お念仏を申しつつ、本物の楽を求めたいと思います。』

(年賀状の言葉ここまで)

 いつもやってもらうことを自分がしなくてはならなくなると、

「何で俺がしなくちゃいけないの」

とグチが出て、相手を恨んで、苦しみの生き方を選んでしまいます。

 誰かにして貰おうなどと考えずに、自分ができるなら自分でやろう、と心を入れ替えれば、思い通りにならないこともありますが、「求めない」と言い聞かせてみれば、心の重荷が軽くなるようです。

 「求める」ということは、結局「不満だ」という言葉の裏返しなのではないでしょうか。

 「求めよ、されば救われん」という言葉を聞きますが、「求めるな」というのは、なんとも仏教的で、この厳しい言葉が心地よいのは私だけでしょうか。

 そこで、「精進」です。

野菜を食べることではありません。

精を出して進め、が本来です。

もちろん、悪いことに精を出すのはおかしいことです。

仏道に精を出して進め、です。

 ですから、「求めるな」と口ずさみ、心に言い聞かせてがんばる方は、日常を仏道に変えて修行されている方だといえます。

それを精進といいます。

自覚すれば…、きっと誰でもできますね。