「お邪魔虫」とか、「邪魔だからどいて」などという時は、邪魔は「余計もの、目障り」といった意味ですが、この邪魔は「魔」の一種です。
「魔」は、サンスクリット語「マーラ」の音写語「魔羅」の略で、人の命を奪い、善事を妨げるものという意味です。
古くは、磨や摩で写しましたが、後に魔をあてるようになりました。
本来、欲界の第六天というところに住んで、正しい教を破壊する悪鬼神です。
それが内省的に解されて、自己の内から生ずる障害をも指すようになりました。
邪魔は、その上に邪を加えた言葉です。
「お邪魔虫」とか、「邪魔だからどいて」などという時は、邪魔は「余計もの、目障り」といった意味ですが、この邪魔は「魔」の一種です。
「魔」は、サンスクリット語「マーラ」の音写語「魔羅」の略で、人の命を奪い、善事を妨げるものという意味です。
古くは、磨や摩で写しましたが、後に魔をあてるようになりました。
本来、欲界の第六天というところに住んで、正しい教を破壊する悪鬼神です。
それが内省的に解されて、自己の内から生ずる障害をも指すようになりました。
邪魔は、その上に邪を加えた言葉です。
浄土教の念仏者は、聖道の仏道に破れた者ですから、この世での悟りではなく、浄土への往生を願って、そこでの悟りを求めています。
したがって一心に仏道を行じ悟りに至りたいとの心は、聖道門でも浄土門でも、全く同じです。
その浄土教者に阿弥陀仏はいま
「念仏せよ、そこにあなたの往生の道がある」
と教えています。
だからこそ衆生は、いまこそ喜んで阿弥陀仏の本願を信じ、自分の能力に応じた念仏道に励み、心を清らかにして、一心に念仏を称えて往生を願うのです。
『観無量寿経』は、そのような往生の道を説いています。
そこで浄土教者はまず『観無量寿経』の教えに従って、往生の行を修します。
ここで特に注意しなければならないのは、この念仏行は阿弥陀仏の本願に誓われている「念仏」と離れてあるのではなくて、本願の念仏とまさしく呼応するために、衆生は『観無量寿経』の念仏を行じるのです。
したがって、比叡山ですでに浄土教者であった親鸞聖人は、当然の仏道としてこの念仏行に励んでおられたと考えられます。
ところが、この念仏行によって、親鸞聖人は結局どうにもならない苦悩に陥ることになられたのです。
では、親鸞聖人にとって何が問題だったのでしょうか。
「真実清浄なる心でもって念仏し往生を願え」と説かれているのですが、その「真実清浄なる心」を親鸞聖人はどうしても成就することが出来なかったのです。
『観無量寿経』は、決して無理なことを人々に求めている訳ではありません。
聖者は聖者として、上品者は上品者のごとく、下品者は下品者のままで、至心に念仏を相続して、一心に往生を願えと勧めているに過ぎません。
下品下生者の場合は、悪行のためにその臨終は苦悩に苛まれています。
そこで、この悪業から逃れるために、
「今こそ一心に浄土を願って念仏を称えよ」
と教えられるのです。
けれども、果たして愚悪なる凡夫に、真実の一心があるかを親鸞聖人は問われます。
そして、その不可能性を知ったとき、親鸞聖人はどうにもならない苦悩に陥ってしまわれたのです。
〜地球・いのちへの視座〜(下旬)
死を自然の摂理として受け止める
ドイツに
「共に苦しめば半分の苦しみ。共に喜べば倍の喜び」
ということわざがあります。
一緒に苦しみ、一緒に喜び、一緒に悩む。
それが大事だと思います。
ホスピス緩和ケアというのは、ともに歩むことで生の充実を支える。
限りあるなかで意味を見出す。
そして最後には安らかな死を迎えるということなのです。
「画竜点睛」という故事成語をご存知でしょうか。
これは中国からきた言葉ですが、もとになった故事というのは、ある有名な絵描きが壁に竜を描いたとき、最後の仕上げにその竜に瞳を描き入れたところ、壁の竜はたちまち天に昇って行ったというお話です。
これは物事の仕上げとして、肝心なところに手を入れることをたとえたものですが、それが私たちホスピス緩和ケアでしていることかなと思っています。
やはり一番最後というのは、本当に人生にとって大事ですし、最後はいい形で終わらないと辛い思いはずっと続くということです。
人生には、良いことだけではないですよね。
苦しいこともたくさんあります。
「苦楽共存」というように、苦しいことと楽しいことは共存しています。
そして試練や悲しみ、失敗を通して成長することが出来るんです。
逆にそういう苦しみや挫折がないと、人間が本当に成長することは出来ないんです。
写真のネガとポジの関係のように、写真のポジというのはネガがないと出来ないですね。
それと同じように、物事の対となるマイナス部分がないとプラスにならないということです。
そうやって、いろんな意味で視点を変え、視野を広げていく。
時間軸、そして家族、地域、地球というような空間的な視点で物事を見るということです。
私たちが今ここに生きているということは、実はとても不思議なことであると気付かされます。
自分がこの世に誕生するまでに、どれだけのご先祖がいのちをつないでくれたか想像してみてください。
もしそのうちの一人でも欠けていれば、自分はここに存在しえなかったのです。
そのことを思うと、私たちがここにいることは決して当たり前なことではありません。
奇跡に近いことなのです。
そして、あらゆる環境に感謝して、長い歴史と循環を考えましょう。
生と死はつながっています。
死を自然の摂理として受け止める。
それは、今ここで一つひとつを大切にしていきましょうということです。
たまに、どんな宗教でもすべて「救い」を説くのだから、最終的にはたどり着くところは一緒だとか、どの教えも突き詰めていくと同じようなものだといわれる声を耳にすることがありますが、これは宗教を哲学や道徳の延長として見ていて、宗教としてとらえていない方々の意見ではないでしょうか。
人は生まれ、老い、病み、死んでいきます。
それを苦しいこと、悲しいこと、辛いこととは分かっていてもどうすることもできない。
しかし宗教(お釈迦様のみ教え)はそのどうすることもできない悲しみさえもありのままの私の姿であると気づかせ、その自らの事実を受け入れることにより生きる糧へと、力へと変えていくはたらきをします。
一日中あれが欲しいこれが欲しい、あの人がどうしたこの人がどうしたといった煩悩にまみれ、どうすることもできない私たちだからこそ必ず救うぞ、とお誓い下さった阿弥陀如来の世界が西方極楽浄土です。
その願いとお働きが至り届いている姿こそ、私の口からこぼれてくる南無阿弥陀仏のお念仏です。
他の宗教にはそれぞれ他の世界があります。
仏教にも様々な仏様がつくられた仏国土があります。
しかし自分でどうすることもできない私たちは阿弥陀様のお呼び声をただただ聞かせていただくしかないのではないでしょうか。
私の実家は、浄土真宗の門徒です。
けれども、お寺に嫁ぐ前は、観光でお寺を拝観することはありましたが、所属しているお寺に行って聴聞することはなく、浄土真宗の教えについて、深く考えることもありませんでした。
しかし、お寺に嫁いで生活し、お聴聞していくうちに思うようになったのは、浄土真宗は色々な苦しいことや不幸なことが起こったとき、それの解決策を他にもとめようとする教えではないということです。
というのは、例えば何か不幸なことが起これば、他人のせいだとか、祟りや霊のせいだとか、また、どこかのお寺や神社で祈願すれば良くなるとか、ご利益があるとか、そういうものがまったく入り込む隙のない教えだと気づかされたことです。
それは、私が持っていた宗教全般に対する感じ方に、衝撃を与えるものでした。
大切なことは、仏様の教えを聞くことによって、自分の真実の姿に気づかされ、それを受け止めて生きていくことが大事であることと。
そして、何よりもこの私のために仏法があるのだということを知らされました。
これからも日々を生きていくなかで、うまくいかないことがあり、その中で真実の自分を受け止めていくことは難しく、つらいことだと思いますが、そんな愚かな私にも見守ってくださる存在があるという安堵感をもちながら、精進していきたいと思っています。
親鸞聖人の書かれたものの中に「空過」という言葉がよく出てきます。
「空過」とは、本当の幸せを得ることがない限り、自分の一生というものは無駄に終わってしまうことを物語る言葉です。
私たちは、誰もが自分のいのちを精一杯に輝かせて生きたいと願っています。
けれども、なかなか人生は自分の思う通りにはならないものです。
長く生きればその分だけ、愛する人や大切な人達と「死別」という形での悲しい別れを経験しなければなりません。
その反対に、社会生活を営んで行く上では、内心嫌だなと思う人とも表面的にはにこやかな顔で付き合いをしていかなくてはなりません。
あるいは、自身が病気をして苦しんだり、不慮の事故や災害に見舞われるたりすることさえあります。
しかも、これらの出来事は、いつどこから私を襲うか全くわからないのです。
そのために、私たちは災厄を免れようと神仏に祈りを捧げたり、常に日や方角の吉凶を確かめたりするなど、自分に不幸をもたらす目に見えない何かをおそれ、その呪縛によって不自由な生き方をすることを余儀なくされています。
けれども、どれほどそれらを忌避しようともがいても、愛する人との別れや、悲しみ、苦しみは予期しない形で私の人生にふりかかってきます。
親鸞聖人が「空過」という言葉で問題にされたのは、私の人生におきる事実の全てが空しいものに終わってはならないということだと思います。
つまり、たとえ苦しくても悲しくても、その苦しみが本当の意味で空しくない、悲しみの中に人生の意味が見出され、苦しみの中にも無駄ではなかったと言えるものが感じられない限り、人間の一生というものは「生きた」と実感することが出来ないのではないか、これが親鸞聖人のお心持ちだったのではないでしょうか。
ほんとうの幸せとは何なのか。
人生を無駄に終わらないような生き方とは何なのか。
それを限りなく求めていかれたのが、親鸞聖人のご一生であったように窺えます。
そして、このことを真摯に求めていかれる中で、私が願うに先立って、既にして私のことを願い、よび続けていて下さる仏さまの声に目覚めていかれたのだといえます。
そして、仏の智慧に導かれて生きていることを深く自覚しておられたが故に、日や方角の吉凶、災厄から逃れるための神仏への祈祷・占いなどに縛られることなく、なにごとをもおそれることのない自由の大道を歩いて行かれたのだと言えます。