投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

『仏壇を北向きに置いては行けないの?』

 門徒さんの自宅にお参りに行きますと、たまに

「うちは仏壇が北向きなんですけど、本当はいけないんですよね」

ということを言われます。

そこで

「なぜ北向きだといけないんですか?」

と聞き返しますと

「他人からそういうことを聞いてからです」

というような答えが帰ってきます。

 つまり、ただ他人から聞いたというだけのことで、そこに明確な根拠はないのです。

では、なぜ仏壇についてそのようなことを言われるのでしょうか。

もしかすると、死者を北枕にして寝かせるという昔からの風習があることから、北は死を連想する方角だと思っておられるからかもしれません。

 そこで仏壇の意味について改めて考えてみましょう。

仏壇は、極楽浄土の様子を象徴的に表したものであり、その中心には阿弥陀如来がご安置されています。

また、この浄土は私たちのいのちの帰する世界だと説かれています。

そうしますと、いのちの帰する世界であるお仏壇を家庭に置くということは、まさに仏壇が日常生活の中心にあるということす。

しかも、その仏壇は亡くなられた私たちの縁ある方々が先に往かれ、この私を待っていてくださる浄土をかたどったものですから、そのような方々とのつながりを感じ、このいのちを生き抜くための心の支えとしてはたらく場所だともいいえます。

このような意味で、

「北向きの仏壇は行けない」

などという全く根拠のない言葉に惑うことこそ、私たちは心しなくてはならないのだと言えます。

もし仏壇の置き場所を問題にすることがあるとすれば、それは方角ではなく

「家庭の中で一番良い場所に置く」

ことに留意するということではないかと思います。

「世界」

 サンスクリット語の「ロ−カ・ダ−トウ」の訳語です。

「世(ロ−カ)」は元来、仏の世界に対する俗世間、有為転変のこの世を意味し、「界(ダ−トウ)」は禅定(心の安静)の段階を意味します。

 したがって、この世のみならず、三千大千世界や、仏の世界が実在の場となるのも、自分の心のありさまに依ることを示しています。

 後代、中国の解釈では、「世」は過去・現在・未来の時間(遷流)を、「界」は東西南北上下などの方位空間を意味するとされました。

2月に仏教国といわれるタイに行ってまいりました。

2月に仏教国といわれるタイに行ってまいりました。

バンコクについて、2日目に今回の旅行の目的場所であるアユタヤに向かいました。

アユタヤでは世界遺産となっているアユタヤ遺跡を参拝しました。

まずワットヤイ・チャイ・モンコンという全長16メ−トルある涅槃仏が安置されている寺院に向かいました。

この寺院は観光だけでなく、タイの人々にとって崇敬を集めるとても大切な寺院であり、涅槃仏の隣にある寺院の中には高僧の剥製が安置されていました。

次に、向かったのは有名なワット・マハタートです。

ここには、菩提樹の中に仏顔がありました。

そこを訪れた後、顔のない仏像群を見ました。

ここは、アユタヤ王朝の時代にミャンマー(ビルマ)との戦争で寺院が破壊され、そのときに仏像も破壊されてしまったとのことです。

私は、この話を聞いたときに、日本で明治時代初頭に起きた廃仏毀釈と似通っているものがあることを感じました。

最後に行った遺跡は、ワット・プラシーサンペットというアユタヤ王朝の3人の歴代の王の墓のあるところでした。

そこには高い塔が三つあり、墓の大きさから、在世時の王の偉大さを感じたことでした。

初めて見たアユタヤ遺跡でしたが、そのどれもが歴史を感じさせるものでした。

また寺院にしても、国をあげて仏教が手厚く保護されていることがよく分かりました。

またアユタヤは日本人にとっても、戦国時代末期にこの地で活躍した山田長政や日本人町などを通して、深い関わりを思い起こさせる場所です。

今回の参拝を通して、ぜひとも御門徒の方々ともご一緒したい場所と感じたことでした。

そして、機会があればタイの僧侶の方々とも何らかの形で交流し、仏教をお互いに深く味わいたいと思わった意義深い今回の旅行でした。

『春彼岸 仏の光のあたたかさ』

今年も春のお彼岸の時節となりました。

お彼岸は昔から

「暑さ寒さも彼岸まで」

と言われますが、暑くもなく寒くもなく昼夜の時がほぼ同じで、日は真東から昇り真西に沈むこの好時節に仏徳を讃嘆するという日本独特の仏事です。

朝起きてから夜寝るまで、時には寝ている間でさえも

「あの人がどうだ、この人がどうだ」、

「あれが欲しい、これが欲しい」

と煩悩のつきない私たちに、

『あなたは、あなたのままでいいんですよ。そのままのあなたの姿を必ず仏になる身にさせますよ』

とよびかけていてくださるのが、阿弥陀如来の摂取(摂めとって捨てない)の光明(救いのはたらき)です。

親鸞聖人は、「摂取」の左訓に

「摂はもののにぐるを追はえとるなり」

と説明しておられます。

これは、阿弥陀如来の摂取の光明は、正しい道を求める者は勿論のこと、煩悩にまなこをさえぎられている私たちだからこそ

『救わずにはおれない』

というお心を示されたものです。

そのお心がどんな時も、私がどこにいようとも、この私に向けられていると気づかされたとき、ただ ただ報恩感謝のお念仏を称えるばかりです。

阿弥陀如来の救いのはたらきが、いつでもどこでも私に至り届いて下さっていると思うと、今か今かと待っている新芽のように生きる勇気が湧いてきて、身も心も春の陽気のように温かくなる気がいたします。

「親鸞聖人における信の構造」3月(前期)

 聖道の行者は、この世において心を清浄にして、悟りに至ろうとします。

それはあたかも釈尊が双樹林下で涅槃に入られたその境地を理想としています。

ところで『観無量寿経』に説かれる往生は、聖道の行者と同じ心を臨終の時に求めていると親鸞聖人は見られます。

けれども、愚かなる凡夫にそのような心を作れるはずなどありません。

けれども、もし経典が真実心を求めているとすれば、実際は真実心を持ち得ていないにもかかわらず、真実心があるかのように振る舞わなくてはなりませんが、それは誤魔化し以外の何ものでもありません。

 そこで親鸞聖人は、まず『観無量寿経』の教えにしたがって往生を求める念仏道を、双樹林下往生と呼ばれました。

そして、この者は懈慢界(けまんがい)に往生するとして、この教えには真実の往生は見られないと、この往生の道を否定されました。

 「真実清浄なる心をもって、念仏を称え往生を願う」

常識的には、ここに浄土教者の道があります。

ところが、その道を求めながら、もしこの念仏者に「真実清浄なる心」が生じなければどうなるでしょうか。

当然、苦悩に苛まれるか、ここでいま一度、本願の声を聞くことになるのだと思われます。

本願には「念仏せよ、あなたを救う」と誓われています。

だとすると、この本願にただすがりつけばよいことになります。

 『阿弥陀経』では、釈尊が

「阿弥陀仏の教えを聞き、本願を信じ浄土に生まれたいと願って、ただ一心に名号を称え続けよ、必ず往生する」

と説いておられます。

『観無量寿経』と『阿弥陀経』との大きな違いは、『阿弥陀経』では『観無量寿経』で求められている

「真実清浄の心になること」

が求められていない点にあるといえます。

既に見た通り、凡夫にはそのような心を作ることは不可能だからです。

 ただし、死を前にした場合、その恐怖のために誰でも必然的に、必死になって助けてほしいと願います。

ここに意味する一心の称名は、まさしくこのような心で称える念仏だといえます。

したがって、一心に阿弥陀仏の本願を信じ、往生を願って必死に称名念仏することは、どのような凡夫にでも可能となります。

こうして、親鸞聖人の心は、

『観無量寿経』

による往生の道が破れた時、必然的に

『阿弥陀経』

の教えに導かれることになったのです。

「穢土と浄土」(上旬)

======ご講師紹介======

青木敬介さん(播磨灘を守る会代表世話人)

☆演題 「穢土と浄土」

昭和7年、兵庫県生まれ。

昭和31年龍谷大学文学部を卒業。

昭和46年に荒れた海と自然環境の浄化と回復を願い、漁師や労働者と「播磨灘を守る会」を結成。

磯浜の復元、海岸清掃やゴミのリサイクルなどの活動を展開されました。

現在は播磨灘に限らず、環境破壊の危機にさらされる土地を守る活動をしておられます。

浄土真宗本願寺派西念寺住職。

著書に詩集『播磨灘』、随筆集『大痴魚記』、その他紀行や論集など多数。

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 生き物の中で嘘をつくのは人間だけ

煩悩という言葉を聞かれたことがあろうかと思います。

お釈迦さまは三毒という言葉でこの煩悩を三つに分類しておられます。

まず「貪欲(とんよく)」。

これは、限りのない欲望です。

あってもあってもまだ欲しい。

満足することを知らないということです。

その欲望を満足させるために、怒りや憎しみを抱いて人を傷つけ殺す。

こういう世界を「瞋恚(しんに)」といいます。

怒りと憎しみですね。

それから、もうひとつが「愚痴(ぐち)」です。

愚痴という字は、どちらも愚かという意味の文字です。

つまり、愚かで恥ずかしいことを恥ずかしいと思わない。

そして自分の利益を増すために、自分だけが儲けるために平気で嘘をつく、これを愚痴といいます。

お釈迦さまは、ご丁寧に欲望に振り回されている人たちのことを「餓鬼(がき)」と呼んでいらっしゃいます。

死んでから先のことではなく、今現在欲望に目がくらんで、うろうろとしているのを餓鬼というんです。

それから、怒りと憎しみに狂って、平気で人を殺したり傷つけたりする。

これを「修羅(しゅら)」といいます。

そして、愚かで恥ずかしいことを恥ずかしく思わず、平気で嘘をつく、これを「畜生(ちくしょう)」といいます。

みなさん、お孫さんやお子さんのことを「このガキ」と叱ったことはありませんか。

実は、それは逆なんですよ。

大人と子どもとどっちが欲が深いでしょうか。

子どもの欲なんて、たかが知れています。

大人の方が欲の塊(かたまり)ですよ。

本当の餓鬼は、大人の方なのです。

それから、犬や猫、牛や馬のことを畜生といいますけど、それも逆ではないでしょうか。

彼らは確かに、火の使い方も知らないし、言葉も知りません。

しかし、決して嘘をついたりはしません。

自宅でペットを駆っている方、ペットが嘘をつきますか。

嘘をつくのは人間の方ですよ。

二世紀後半から三世紀にかけてのインダス川の中流域には、当時その地で活躍された龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)という方がおられました。

この方は、縁起という考え方をきちんと定義付けられた方ですが、同時に世界の生き物の中でも、嘘をついたりするのは人間だけではないかと指摘して下さっています。

残念なことに、私たちはものの見事に世の中の真実を語って下さっている教え耳を傾けようとはしません。

そういう人間が作り出している世界を穢土(えど)と呼ぶのです。

穢土とは、汚れた世界ということです。

その穢土を百八十度ひっくり返した世界が、浄土と呼ばれる世界です。

浄土とはどのような世界かといいますと、お互いに分かち合える世界です。

一緒に頑張って生きていこう、助け合って生きていこうという世界、何も言わなくても信頼できる世界が浄土なのです。

つまり、浄土とは悟りの世界なのです。

悟りというのは、世の中の本当のことをわからせてもらうということです。

真実を見る目が開かれた方を仏さまといいます。

仏とは、亡くなられた方のことではなく、悟りを開いた方をいうのです。

浄土は、そういう仏さま方がいらっしゃる世界です。

私たちがその悟りの目を開かせていただく世界、仏さまにならせていただく世界。

本当のことが通っていく世界。

そして、自由自在に迷いの世界に還ってきて、人々にお念仏を勧めることのできる世界。

それがお浄土であり、お釈迦さまの理想です。

龍樹菩薩や親鸞聖人もそういう世界を歩まれたのです。