投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

『お墓にひびが入ると、良くないことが起こる?』

 3月は彼岸会の季節です。

この時期はお墓参りをされる方も多いことでしょう。

 そのお墓参りですが、もしお墓にお参りした際、その墓石にひびがはいっていたとしたら、どう思われますか。

さぞかし

「縁起が悪い」とか

「不吉なことが起こった」

などと大騒ぎになって、もしや良くないことが起こるのでは…と、不安を感じられるかもしれませんね。

 確かに、お墓にひびが入っていたら誰でも驚きます。

けれども、それをそのままわが身によくなすことが起こることの前兆だと結びつけてしまうのはいかがなものでしょうか。

 もしかすると、たまたまお墓であったがために、亡き方々への畏敬の念からそのような思いになられたのかもしれません。

なぜなら、自分の家の塀とか、壁にひびが入っていた場合、地震または老朽化によるものだと、冷静に判断することが多いからです。

 仏教では「因果の道理」を説きます。

これは結果からみると、必ずその原因があるということですが、ひびが入ったという結果だけを見て、なぜひびが入ったのかという原因をみなければ、いつまでたっても不安を抱えたままの人生を過ごしていかなければならなくなります。

 もしお墓にひびが入ってしまったのなら、墓石店に相談すればよい訳で、良くないことが起こるなどと不安を感じる必要はありません。

因果の道理をわきまえて

「形あるものだから、ひびが入ることもある。それよりも早く修復をしなければ…」

と改善策を講じることが大切だといえます。

うちには子供が3人います。

うちには子供が3人います。

一番下は去年生まれたばかりの赤ちゃん。

無邪気な子供の寝顔をみていると、一日の疲れもあっという間に吹っ飛びます。

目の前のことに一生懸命で、その一瞬一瞬を精一杯生きている子供。

遊びも精一杯で、遊び疲れたら死んだように寝る。

そのオンとオフの切り替えの見事さと言ったら

「明日は忙しいから、今日はこれぐらいで…」

などと、ペース配分をしている自分が恥ずかしくなってしまいます。

 ふと「この子たちは今がいちばんいいときかな」と思えてきます。

大きくなるということは、いろんな悩みや問題を抱えていかなければならないということです。

それは当たり前のことなのですが、親であるが故に「当たり前のことと」思うにはちょっと切なさを感じたりもします。

私のおなかから出てきたこの子も、今は一人の人です。

「小さい赤ちゃんも、すでに誰にも肩代わりのできない自分自身の人生を歩き始めているんだな〜」

なんて、遠い目になったりして…。

 先日、年配の方がテレビのインタビューに答えて

「自分の生きてきた人生はよかった。」

そして

「これから生きていく人たちは大変だと思う。」

とコメントしていました。

それを聞いて、私はちょっと腹が立ちました。

「あなた達が作った社会で、大変な人生を歩まなければならないんですよ。これから生きていく人達は。」

などと言ってやりたい気もしました。

 豊かな生活の中にも生きにくさを抱えて、自死が交通事故の数倍もの数に上る国。

そんな中を生きていかなくてはならない子供たちに

「私たちは何をしてあげられるのだろうか」

などと思ってしまいます。

せめて

「あんな大人になりたいな」

と、我が子に思ってもらえるような人でありたい。

そんな自分でありたいな…と思う、今日この頃です。

『春彼岸 仏の光のあたたかさ』

 親鸞聖人は南無阿弥陀仏という仏さまを「光」の仏さまとして受け止めておられたことが、その著述から窺い知ることができます。

「光如来とは阿弥陀仏なり」

という言葉がそれです。

 これは、まず阿弥陀仏という存在があって、その阿弥陀仏自身があたかも灯台のように周りに光を放っているということではありません。

光のほかに阿弥陀仏という存在があるのではなく、光そのもののはたらきが阿弥陀仏なのだということです。

では、その光は私たちの上にいったいどのようにはたらくのでしょうか。

 たとえば、いま自分のいる部屋から全ての光が取りはらわれて、真っ暗になったとします。

その時、私たちに出来ることと言えば、手さぐりで部屋を出て行くことくらいのものです。

まさに、光がない時の私たちの生き方は、手さぐりをしながら生きる他にはありません。

今ここでいう

「手さぐりの生活」

とは、自分の判断、自分の体験だけを頼りにして生きていくということです。

 ところが、自分の判断、自分の体験だけを唯一の頼りとして生きて行くということになりますと、私たちはどうしても物の見方が一面的になってしまいます。

つまり、自分の体験にとらわれてしまって、なかなかものごとの本質が見抜けなくなってしまうのです、しかも、その手さぐりの生活では、周囲のことだけでなく、自分自身の姿さえも実のごとく見ることが出来ません。

また、自分が見えないということは、ひいては自身の人生そのものを受けとめ、見通す目が持てないということにもなります。

 

阿弥陀仏が

「光の仏である」

ということは、そのような私に、この人生において何が根本問題であり、何が枝末の事柄かを見通す目を与えるはたらきをして下さるということです。

親鸞聖人は、南無阿弥陀仏を「尽十方無碍光如来」という言葉でも讃嘆されますが、これは南無阿弥陀仏が

「あらゆる世界(尽十方)、あらゆる存在(無碍)をことごとく光あらしめる」

仏さまだからです。

そして、私たちはその

「尽十方無碍」

なる光によって、人生の全体を見渡し、見通す目をいただくことによってはじめて、人生における確かな方向を持った歩みを成すことが出来るのです。

このような意味で、もし阿弥陀仏教えに出遇い、その光に照らされるということがなければ、何に躓(つまず)いたのかわからない、何にぶつかったのかわからないままに、右往左往しながら、この一度限りの人生を空しく過ごし、終えてしまうのだと思われます。

「有頂天」

 「有の頂きである天」の意味です。

「頂点に有る」ではありません。

 「有」とは存在の世界。

私たち一切の衆生の住む世界のことで、欲界・色界・無色界に分かれ、総じて三界と称します。

その三界の絶頂にある天、三界の最高の世界を有頂天といいます。

 そこはまだ、迷いの世界なのですが、生きとし生けるものの至りうる世界としては最も高い位置にあることから、そこに上り詰めることに譬えて、得意の絶頂にあることを

「有頂天になる」

というようになりました。

 この用法は江戸時代からのものですが、明治になると、さらに得意の意味を強調した

「有頂天外」

などの造語もあらわれました。

「親鸞聖人における信の構造」3月(中期)

 『観経往生』から『弥陀経往生』へ、その流れは必然です。

ただし、親鸞聖人はこの『阿弥陀経』の教えによっても、最終的に救いは得られませんでした。

なぜなら、ひとたび『阿弥陀経』に説かれる往生の道を歩み始めると、ここにも解決のつかない大問題が横たわっているからです。

 『観無量寿経』の教えに破れた時、親鸞聖人の心は動転していました。

しかも、その動転する心の中で、親鸞聖人は必死になって阿弥陀仏の大悲にしがみついておられました。

心から阿弥陀仏を信じ、一心に往生を願って、ただ念仏を唱えることに専念する、このように念仏が相続されると、心はおのずから正常心に戻ります。

この時、親鸞聖人は西方にまします阿弥陀仏を信じ、その浄土に生まれたいと願って必死に救いを求めて念仏を唱えておられます。

この時、その親鸞聖人を平常なる心で見つめているもう一人の親鸞聖人がここに生じることになります。

真如を説く仏教の「空」の原理からして、はたして西方にましますという阿弥陀仏を、その通りに信じられるかどうか。

また、『観無量寿経』に説かれる極楽の荘厳を、真の浄土と見ることができるか。

心からそのような浄土に本当に生まれたいと願っているのか。

平常な心で自分自身を見つめると、当然のこととしてこのような疑問と同時に、念仏を唱えても心から喜びが生じることなく、病にでもかかれば、かえって死を恐れてこの世にしがみついている自分を見ることになります。

 このような疑いの心で、いかに一心に念仏を唱え、救いを求めて必死に往生を願ったとしても、浄土への往生はかないません。

そこで親鸞聖人は、この疑惑心を根底から断ち切るために、さらに懸命に念仏を唱え、より一心に往生を願い続けられます。

けれども、その努力は結果的に親鸞聖人の心から疑惑心を消滅させることはなく、かえって信じようとすればするほど、心に疑惑を募らせることになりました。

 「穢土と浄土」(中旬)

多くの生き物が行き場を失わないために

 私たち人間は多くの環境破壊をしています。

海や山を破壊することによって、私たちを支えてくれているたくさんのいのちが虐殺されます。

そうしますと、人間自身がまともに生きていけない世の中になっていくわけです。

その最たるものが、地球温暖化という状態です。

地球温暖化なんて、遠い世界のことのように思われる方もあるかもしれませんが、実はもう目の前まで来ている大きな問題なんです。

一九九七年に京都議定書が決められました。

今年の一月一日から五年間、二○一三年の暮れまで京都議定書を実行していきましょうという約束ができている訳です。

これは、もっと早くから取りかかっておかなくてはならない問題だったんですが、日本は一九九○年、二酸化炭素を六バーセント減らそうと約束したにもかかわらず、二○○五年の段階で逆に六・二パーセント増えてしまっているんです。

これは、しっかり取り組んでいないという証拠ですよ。

これでは、地球の危機がますます深まるだけです。

この地球上のたくさんの生き物が行き場を失ってしまう訳です。

そういうことが起こらないようにするためには、我々が早くから餓鬼道、畜生道、修羅道から抜け出さないといけません。

 地球上だけでなく、この宇宙で起こる出来事の結果は全て、いろんな原因と無数の条件とが寄り集まって生まれてきています。

例えば、人間が一人生まれてくるにはどれだけの条件が揃わないといけなかったのか。

ちょっと考えてみただけでも、数えきれないほどの無数の条件が揃わないと、一人の人間は生まれてことないことが分かると思います。

 また、たとえ生まれてきたとしても、一人の人間が一日を生きて行くために無数のいのちを頂いて生きている訳ですよね。

今晩、食事をされる際、どれだけのいのちを頂くか数えてみて下さい。

お米、お野菜、お魚、お肉、鳥。

たくさんのもののいのちを頂いて、やっと一日をつないでいる訳です。

決して自分の力で生きているのではないのです。

 たくさんのいのちを頂く。

そういうご縁によって、生かされている訳です。

生かされている身ですから、我を張ったらいけないのです。

いのちを頂いているものに対して、申し訳ないことです。

ですから、ご飯を頂くとき、私たちは手を合わせるんですよ。

これは私のためにいのちを捧げてくれたものへの深いお詫びの印なんです。

 もう十五年も前のことですが「本願寺新報」という新聞に、北海道の函館のある母親が投稿した詩が掲載してありました。

どういうものかといいますと

「カニを食べた。

カニの一生を食べてしまった。

カニに頂いた今日の私のいのち。

芋を食べた、芋の一生を食べてしまった。

芋に頂いた今日のいのち。

それをおもうと、手を合わさずにはいられない」

という内容でした。

 この詩は、私の心にグサッと突き刺さりました。

多くのものによって生かされている私のいのち。

であれば、私もまた他のいのちを生かしてはたらきをさせてもらわないといけないのです。

それが穢土を浄土へとひっくり返して行く、大きな原動力になる訳です。