投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

あるご法事の折りのことです。

あるご法事の折りのことです。

読経と法話も終わり、お茶を頂いておりますと、お参りに見えているご親戚の方が、

「あの〜、ひとつお尋ねしたいことがあるのですが…」

と言われました。

どのようなことかと伺ってみますと、それはこれまで聞いた中で一番の難問でした。

「実は、毎日お仏壇にお参りする時に、最後にひとつだけお願いごとをしています。

それは、私の周囲にとんでもない人がいるので『○○さんが、早いことくたばりますように!』と」。

さらに続けて、その人がいかに悪人であるかということを説明され、しかもその願い事を日課にしているとまで言われるのですから、正面切って

「それはダメですよ!」

と言うのもいささか勇気がいりますし、だからといって

「どうぞ!」

とお勧めする訳にもいかず、何とお答えしたものやら…と、困ってしまいました。

そこで申し上げたのが、次のような事柄です。

ご存知のように、テレビ・映画ではいろいろな人の人生が取り上げられて、それが物語になっていますが、私たちの人生もみんなそれぞれに波瀾に満ちています。

そうすると、一流の脚本家の手にかかれば、誰の人生でもそれなりのドラマが成り立つと思います。

一般に、テレビのドラマでは、みんな良い人ばかりが登場する内容よりも、とてつもない悪役が縦横無尽に?活躍している時の方が視聴率はかなり高くなるようです。

そのような意味では、あなたの人生の物語がテレビドラマになるとすると、かなりの高視聴率が期待出来そうですね。

そう考えると、今の人生もそれほど悪くないのではありませんか。

私たちは、自分のことは誰よりも自分が一番よく知っていると思っていますが、

「他人の悪口は嘘でも面白く、自分の悪口は本当でも腹が立つ」

と言われますが、なかなか自分の過ちや欠点については曖昧にしがちで直視しませんし、また他人から注意や指摘を受けると、感謝するどころから怒りだす人さえもいたりします。

このように、自分の姿をあるがままに見つめることは容易ではありません。

けれども、他人の姿は長所も欠点もあるがままに見えたり、気が付いたりします。

そうしますと、他人の良い点が見えたら、素直に見習うようにしたり、一方欠点に気付いたらそれに自分を照らして反省することが大切だと思われます。

いま、あなたの周囲にいる困った人も、考えようによれば、

「こんな生き方だけは、決してしないように」

と、自らの生き方を通して、あなたに教えてくれている貴重な存在だと言えはしないでしょうか。

それに…、

「憎まれっ子、世にはばかる」

と言いますし、案外そんな人は長生きするかもしれませんので、

「くたばれ」

と願っても、いつまでもお元気だとかえって自分がストレスを感じてしまうことにもなりかねません。

どんな人も、きっと私にないものを何か持っています。

なかなかに、自分の眼で自分自身を見通すことの出来難い私たちであればこそ、周囲の人々のそれぞれの生き方に照らして、私のあるべき姿を明らかにしていきたいものです。

『渇いた大地に雨 渇いた心に法雨』

最近、テレビや新聞等では、子どもが親を殺したり、親が生後間もない赤ちゃんを捨てたりと、これまでなら想像もできなかったような痛ましい出来事が報じられています。

このような事件が起きる度に、とても寂しい思いがします。

確かに、私たちの生活は豊かになって来ていると言えますが、それに見合うような心の豊かさをも持ち得ているでしょうか。

そのような意味で、まさに今は心の有り様が問われているように思われます。

経典の伝えるところによれば、お釈迦様が托鉢を行っておられた時にひとりの男がお釈迦様に向かってこう問いかけたそうです。

「修行者よ、私は田を耕し、種をまいている。あなたも自分で耕し、食を得てはどうか」と。

それに対して、お釈迦様は「私も田を耕し、種をまいている」と答えられました。

すると、それを聞いた男はまたお釈迦様に尋ねました。

「私たちの中には、誰もあなたが田を耕したり、種をまいたりしている姿を見たものはいません。

あなたの鋤はどこにありますか。

また、どんな種をまくのですか。」と。

お釈迦様は「私は私の心の田を耕している」と答えられたそうです。

私達は、物質的・経済的には豊かになりましたが、その反面、「見えるもの」にだけ関心を寄せた結果、いつの間にか心が荒廃してしまったのではないでしょうか。

それは心の田を耕すこと、具体的には「人間として生きること」の基本とも言える「ご恩」とか「お蔭様」とか、目には見えない世界に心を寄せることに無関心になってしまっているということです。

それは、周囲の人々や自然の恩恵によって生かされていることに気づかないままに、全てを「当たり前」と思って生きていることに他なりません。

「心の田は、放っておくと荒れてしまう」ということに気付くことが大切です。

心が渇ききってしまう前に、仏法を聞いて心を潤し、人として豊かな心になるよう耕したいものです。

「花をみる花もみている 月をみる月もみている」(上旬) あたり前のこと

======ご講師紹介======

浅井成海さん(龍谷大学名誉教授)

☆ 演題 「花をみる花もみている 月をみる月もみている」

浅井先生は、龍谷大学講師、助教授、教授を経て、平成十六年三月に定年を迎えられ、現在は同大学名誉教授として真宗学の研究を続けておられます。

また、福井県敦賀市にあります浄光寺のご住職でもあられます。

著書に『法然とその門下の教義研究』『浄土教入門』『浄土教入門』『法に遇う人に遇う花に遇う』等、多数ご執筆しておられます。

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 今日は「花をみる花もみている 月をみる月もみている」という題でお話をいたします。

実はノーベル文学賞をもらわれた川端康成さんが、スウェーデンでしたかノルウェーでしたか、賞をもらうと講演をしなければいけないということで、向こうへ言って「美しい日本の私」という題でお話をされました。

そのお話の中に、「月をみる月もみている」という言葉がありまして、それを演題としてお借りいたしました。

「花をみる花もみている」というのは、私がそれに付け加えたものです。

 みなさん方は、仏さまを拝んで下さいますが、仏さまからも拝まれている。

南無阿弥陀仏と仏さまに手を合わせますけれども、それはまた仏さまも拝んで下さっている。

それが仏教の心ですので、念仏の心、あるいは浄土教の心を申し上げたいと考えています。

 そこで、お釈迦さまのことを最初に申し上げたいと思います。

お釈迦さまはカピラという国の王子としてお生まれになりました。

感受性のみずみずしいお方で、小さい時に田畑を耕す農耕際があって。そこへ出かけて行かれた時に、みなさんが畑を耕しておられる。

そうするとミミズが出てきますが、木の上で取りが待っていて、上から降りてきてそれをついばむ、それをご覧になって「弱肉強食」の世界はなんと悲しいことだろうと、たいへん心を痛められたのです。

お釈迦さまはお優しいお方でしたから、たいへん傷つかれたと聞いております。

 ご存知のように、小さいときは、大事に大事に育てられまして、四つの門から遊んで、老人に遇い、病人に遇い、葬列に遇いました。

そして、修行者の行列に遇いました。

心重くなってお城にお帰りになりました。

ですから、仏教は「老」「病」「死」という人生の避けられない課題をどう解決していくか、というところにそのテーマがあるのです。

それは結論ではないのですね。

どのようにその悲しみや苦しみを解決していくか、それをお釈迦さまは最も恵まれた時、最も充実した時にその問題に気付かれて、そしてその道を求めていかれたと、このように私たちは聞いています。

 お釈迦さまは、結婚されてお子さんが生まれられてからは、もう跡継ぎができたということで、安心して城を出られて出家の道に入っていかれました。

六年間ご修行なさってお悟りを開かれたのです。

全てのものは関わり合って存在している。

自分一人で生きているものは誰もいないとお悟りになられたのです。

仏教は難しいと考えている人がいますが、実は当たり前のことをお釈迦さま溶いておられるということになります。

 お釈迦さまはお悟りを開かれた時に、菩提樹の木の下で、長いこと思いを巡らされたそうです。

そして四つの真理を説かれます。

「人生は苦なり」

「苦しみの原因は私が可愛いという我執にあり」

「その我執を砕いてゆく」

そうすると「そこに我にとらわれない考え方や生き方が身についてくる」と、お釈迦さまは私たちに教えてくださいました。

 人生は苦なり。これが結論という訳ではないのです。

そこから、どうその課題を乗り越えていくか。その事実をきちっと見ていこう、逃げないで事実をきちっと見ていこう。

こういうことを仏教は説いているのです。

 お釈迦さまは四つの真理、それは人生を見極めて、明らかに見ていくということです。

それは悲しみ苦しみなのだけれども、仏教は悲しみ苦しみを乗り越えて行く道を説いている。

こういうふうに見ていくことができると思います。

そして行を積んで、だんだん我執が砕かれていきますと頭を下げていく世界が知らされていくということになります。

頭を下げるということは支えられているもの、願われているもの、そういうものに気付いていく世界ということになります。「実るほど 頭の下がる 稲穂かな」という言葉がありますね。

あの実るということは、いろいろなことが身に付いてだんだん頭を下げさせていただく。

その謙虚な姿をおっしゃっておられるのです。

「冥福」

 葬儀の弔辞や弔電で

「ご冥福をお祈りします」

という言葉が使われます。

何気なく耳にしている言葉なので、

「お元気で」とか「さようなら」

といった日常の挨拶程度の言葉と受け止めて、あまり気に留めてはおられないことと思われます。

「冥福」の冥とは冥界のことで、冥土・冥途とも言われます。

仏教辞典によると、冥界とは

「死後の幽冥の世界をいう。六道(地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天)の中の三悪道(地獄・餓鬼・畜生)、特に地獄道に通ずる」

と説明してあります。

『十王経』という中国で作られた偽経によって、中国から日本に鎌倉時代に広まった俗信における死後の世界です。

昔は地獄絵図を子どもに見せて、

「嘘を言うと閻魔(えんま)さんに舌を抜かれるよ」

と諭したものですが、閻魔とはこの冥界の王であり、閻魔王の前で亡者の生前の善悪の業(行為)のすべてが鏡に映し出され、その罪の裁きを受けると言われます。

「嘘を言うと舌を抜かれる」

というのは、その裁きのひとつと考えられ、また

「地獄の沙汰も金次第」

というのは、罪を軽減してもらおうとする際の閻魔王への賄賂を意味しているのだと考えられます。

 このように、冥福と言った場合の死後とは、亡者がさまよい行く所であり、地獄に通じる世界で、決して望ましい世界ではありません。

その望ましくない世界に亡き方を送り出して、そこでの幸せを祈るというのは、いかがなものでしょうか。

「冥福を祈る」というと、死後の幸せを祈るということで、何となく良い言葉のようですが、その行く先を勝手に冥界と決めつけているのですから、亡くなられた方やご遺族に対して配慮を欠いた言葉だと思われます。

あるいは、そのような望ましくない世界に行かれた方のために追善の供養をするのだと言われる方もあるかもしれませんが、浄土真宗では

「本願を信じ念仏を申さば仏になる」

と説かれるように、

「念仏せよ、救う」

という阿弥陀如来の誓いを信じて、念仏に生きる人は、一人の例外もなく、必ずこのいのち終わるその瞬間に一切の迷いを断ち切られて仏さまになるのです。

「ウチナーユー(沖縄世)、アメリカユー(アメリカ世)、ヤマトユー(日本世)」(下旬) 今こそ言葉を…

 「人間は万物の霊長である」 

これは、人間という存在が地球上で一番偉い存在であるという人間至上主義とでもいいましょうか、これは二百年前頃から世界の思想を表す言葉です。

この考え方は、二百年ほど前のイギリスにおけるジョンロックやフランシスベーコンなどの哲学者によるものですが、これが今地球破壊の根元のようになっていますね。

人間が一番なんだから何をしてもいいということです。

彼らは言葉のことを「言葉とは人間同士のコミニュケーションの道具にすぎない」と言っています。

道具に過ぎないということは、機械化がいくらでもできるということです。

機械化をわかりやすく言いますと、自動販売機で缶コーヒーを買うとき、機械が「ありがとうございました」と言うでしょう。

電話を使ってもそうですし、銀行や郵便局のATMも全部機械が応えます。

これが機械化の典型ですね。

 例えば、銀行の窓口でお金を払えば、受付の人と一言でも話をしますね。

そうすると、この人はこんな人だったんだとか、いい人だなというのがわかる。

人間相手だとそういう楽しみもあるんですが、機械相手では何もない。そういう機械化の時代になってくると、言葉は意味を持たなくなってきます。

パソコンや携帯電話のメールというのは、言葉を伝達の道具としてか使っていない。

「ごめんなさい」と謝るにしても、メールでは文字が出てくるだけです。

心からのごめんなさいも、軽い気持ちでのごめんなさいも全く一緒になる。

言葉の持つ魂が、相手に伝わらない時代になっています。

 言葉が滅ぶということは、大きく言えば人間も滅ぶということなんです。

言葉が機械化され、単なる記号に過ぎなくなってきた今こそ、言葉を大事にしていきたい。

これは日本だけでなく、外国も同じような状況にあるそうです。

カトリックの人と話をしましたけど、一番の問題は言葉が乱れているということだそうです。

救いの根本である言葉が乱れるということは、人間が救われない時代になっているということであり、人間が滅びる時代なんだということを言われました。

「カネは何回鳴らしたらOK?」 

 「私は家のお仏壇にお参りする時は、まず数回カネを鳴らしてからお念仏し、合掌礼拝をしますが、本当はどこで何回鳴らすのが正しいのですか」

と質問されたことがあります。

 カネは読経を始める際にまず、2回鳴らします。

そして最後に3回鳴らします。

途中で1回あるいは3回鳴らす場合もあります。

要するに、カネは読経の前後や中間に定められた回数を打ち鳴らすものです。

ですから本来、読経以外の時はむやみやたらに打ち鳴らしてはならないものです。

 カネを打つのはお釈迦さまがご在世の頃から、釈尊の説法を聞くときの合図だったといわれます。

現在、ご家庭のお仏壇では鳴り物はリンだけですが、お寺では読経の時に用いるリン以外に、梵鐘・喚鐘等があり、法要などが厳修されることをお知らせする合図として使われます。

お仏壇の前でリンを打ち読経するときは、今まさにお釈迦様が私に法を説いて下さっていると味わいたいものです。

<参考文献>

◎『仏事のイロハ』末本弘然著(本願寺出版社)

◎『門徒もの知り帳』(上・下)野々村智剣著(法蔵館)