投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

お位牌はどうしたらいいのでしょうか。

「仏壇に安置しているお位牌が増えすぎて困っているのですが、どうしたらいいのでしょうか。」

と聞かれることがよくあります。

本来、浄土真宗ではお位牌は用いません。

お位牌というのは中国の儒家で故人の生存中の官位と姓名を書き記した牌でそこには神が宿ると信じられて用いられたものでした。

それが日本に伝わり祖先崇拝を結びついて仏教にも用いられるようになりました。

お位牌は「霊の宿ると所」という仏教とかけ離れた意識があるといえます。

よく見るのがお位牌の前に故人の好きだった食物などがお供えしてあり、又、仏壇のご本尊の前や両隣に置いてあるのがそうだといえます。

浄土真宗でお位牌を用いないというのは仏教とかけ離れた霊魂観があるからといえます。

では仏壇に置いてあるお位牌をどうしたらいいのかと言いますと、お寺の住職に相談して過去帳に記してもらうようにしたらいいです。

過去帳は先祖の記録帳であり、故人の法名、俗名、死亡年月日を記します。過去帳に記してもらったらお位牌は処分しても構いません。

又、過去帳は命日や法事のときには台などにのせて開けご本尊が見えなくならないように仏壇の中段脇か下段に置くようにしたらいいです。

何より大事な事は先祖を拝むのではなく、ご先祖が還られたお浄土を偲び、阿弥陀如来の本願のお心を味あわせていくことにあります。

参考文献

「仏事のイロハ」 末本弘然著 (本願寺出版社)     

「門徒もの知り帳」(上・下) 野々村智剣著 (法蔵館)

『渇いた大地に雨 渇いた心に法雨』

経典に「降る雨は同じであっても受ける草木によって異なる」という言葉があります。

これは、

『すべての人々を我が子のように等しく慈しむ仏の大悲は平等であるが、人びとの性質の異なるのに応じて、その救いの手段には相違がある。

ちょうど、降る雨は同じであっても、受ける草木によって、異なった恵みを受けるようなものである』

という経文の一節です。

また、経文には「牛 水を飲めば乳となし、蛇 水を飲めば毒となる」という言葉もあります。

水は私たちの生命を保つ一つの根源です。

清らかな水を飲み、生物は生きているといえます。

ところが、同じ水を飲みながら、牛が飲めばその水が乳となって他のものを生かし、蛇が飲めば毒となって、他のものを殺してしまいます。

同じように

『一つの教えを聞いても、もし智者が学べばこの教えが覚りに導くが、愚者が学べば同じ教えがそのものをかえって迷わせてしまうことになる。

だからこそ、人は仏法を一心に学び、その教えにしたがって、過ちのないように行道に励むことが大切なのだ』

と説かれるのです。

渇いた大地に雨が降り注ぐように、私たちの渇いた心に仏さまの教えの雨は降り注いでいます。

けれども、その「渇き」が自分の欲望を満たすことや、楽しい生活が出来る方法を求めるものであると、せっかくの仏法の雨も私たちの心を潤すことなく、ただ心の表面を流れ去ってしまいます。

私たちは誰もが老い、病を得て、死んでいくのですから、地位・名誉・財産などの幸せを手にしたとしても、所詮それは一瞬のことに過ぎず、それらは自らの死によってすべて粉々に打ち砕かれてしまいます。

私たちがこの人生において「問うべき問い」とは、「死によっても砕かれない確かな幸せとは何か」という問いであり、そのような真実を求める心の渇きを、仏さまの教えは潤して下さいます。

「意地」

 「意地」という言葉は、一般には自分の思うことを通そうとする心という意味に使われています。

日常では、

「意地をはる」

「意地を通す」

「意地になる」

あるいは

「意地悪」

など、「強情」と同義で、どちらかと言えばあまり良くない意味に使われているようです。

「意地」はもともと仏教語で、人間の五官による認識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識)の次に来る第六意識(心)のことです。

それは、あらゆるものを成立させる根源になる大地のようなものであるとされています。

人間の心は、ちょうど大地のように、あらゆるものを生み出し、またおさめる無限の可能性を持っています。

しかし、人は人間関係において、どうしても自分中心にものを考えるものです。

その心が日常語でいういわゆる「意地」という感情を生み出し、思うようにならないとき、被害者意識がはたらき、怨みが発生し、そこに争いが生じます。

 心は思い通りにならないということは、人間の歴史が始まって以来の大きな問題であったと思われます。

釈尊も、もちろんこの問題に正面から取り組まれ、人生が思い通りにならないこと、つまり苦の生起する原理を発見されました。

釈尊は心について次のように説かれます。

 遠くさすらい、独り行き、形もなく、洞窟に隠れた、この心を制御する人は、魔王の束縛より脱する。

 仏教は、まさにこの心の制御の道を教えてくれます。

人間の心を分析すると、誰にもある絶えず自己を愛してやまない領域の深層意識から、思い通りにならない心(意地)が生じ、それによって人生のさまざまなトラブルが発生していきます。

そのような紛争をもたらす自分の心をコントロールする方法を追求していくのが仏道です。

その心を制御するのも大地のような心にほかなりません。

 今日、いわゆる意地によってさまざまな紛争が起こっていますが、実は意地という言葉そのものの奥に、いわゆる意地という言葉そのものの奥に、自らの心の制御という紛争解決の鍵が隠されているように思われます。

「花をみる花もみている 月をみる月もみている」(中旬) 生きてるんだな

 私の体験を少し申し上げます。

私は三十四年と十カ月、龍谷大学に勤めておりました。

その前に神戸の女子学園の高校で八年間教員をしておりました。

ところが、六年目の四月に保健の先生から

「先生、この間学校の集団健診をしたのですが、両方の肺が曇っています。精密検査をしてもらわないといけません」

と言われ、精密検査をしましたら、保健の先生から

「すぐ入院して下さい。かなり進んでおります」

ということでした。

 大阪と京都の間にある高槻の療養所で、一年十カ月療養いたしました。

もう結核は怖い病気ではありませんでしたが、それでも病状が進んでおりましたので、手術はできない、絶対安静だといわれました。

明けても暮れても個室でじっと寝ておりました。

基本的には、ひたすらじっと寝ているという生活が続きました。

その時に気付いたんですが、今までは忙しい忙しいと向こうばかり見て走っていました。

ところが病気をして五月に入った頃、美しい山の中の療養所ですから、いろいろな花が咲き始めます。

その窓から見える外の景色をじっと見ておりました。

家内が鉢の花を持ってきて安静の時間に水をやるんです。

その時に「あらゆるいのちが生きているんだな。花も草も庭の木々も、みんな一生懸命生きているんだな」と思ったんです。

 それまでは忙しいので、立ち止まって緑や花の美しさに心を止めるというようなことはありませんでした。

ところが、今そうしてこの自然の周りに私が身を置いて六月、七月と経ちまして、草花がまた形を変えて行くのを目にしますと

「全部が一生懸命生きているんだな。

その生きているいのちの真っただ中に私が生活しているんだな。

今まで気付かなかったけれども、その中に自分があるんだな」

と気付かせて頂きました。

 その時期はある意味で人生の挫折の時でありました。

しかし今思いますと、あらゆるいのちに生かされているんだなということを教えて頂いた時期だと思えるのですね。

友達も心配して見舞いに来てくれますし、学生さんも見舞いに来てくれました。

お焼香の作法は

焼香は仏事においてはかかせないものであります。

しかし、葬儀、法事、本堂での読経中の焼香を見ていますとそれぞれのやり方になっていて正しい作法が伝わっていないと感じます。

浄土真宗本願寺派においての焼香の作法は、

【1】焼香卓の二・三歩手前で一礼。

【2】前に進んで右手で香をつまみそのまま香炉にくべ、(本堂などでは正座して)

【3】合掌・礼拝、

【4】二・三歩下がって一礼し退出

と決められています。

ここで注意したいのは香をつまんで香炉に入れる際におしいいただかない。

香をつまむのは一回のみです。

又、法事などで香炉をお盆に載せ参列者に焼香をしてもらう回し焼香もありますが、作法も右手で一回香をつまみ、おしいいただかずにそのまま香炉にくべ、合掌・礼拝をして隣の人にまわす。

以上が焼香の正しい作法でありますが、大事なことは焼香をするということは清らかな浄土を思い、さらには誰かと差別することなくいきわたるお香の薫りから如来さまのわけへだてない御慈悲の心に触れさせていただくことにあります。

参考文献

「仏事のイロハ」 末本弘然著 (本願寺出版社)

「門徒もの知り帳」(上・下) 野々村智剣著 (法蔵館)

「迷惑」

「他人に迷惑をかけないようにしましょう」

とか

「多大な迷惑を被った」

などと言われるこの迷惑という言葉は、不利益とか不都合という意味に使われるようです。

しかし、迷は本当の道に迷うことを意味し、惑は途方にくれてとまどうことを意味します。

両方の字が示すように、この言葉も本来は迷い戸惑うことを意味する仏教語です。

 私たちはともすれば目先の利益だけにとらわれて、しかもそれが一番大切なことであるかのように錯覚しています。

仕事でも、家庭でも、その場その場の目的に向かって一生懸命に努力することは大切なことですが、人生を貫く真理に目覚めることが出来なければ、その全体がなぜか空しく感じられ、同じことの繰り返しの中で流されていくことがあります。

 仏法に出会わなければ、自身が迷いの身であることにさえ気付くこともなく、知らず知らずのうちに自分を傷つけ他人を踏みつけにして生きるほかはありません。

このような自他を傷つけるという意味が転じて、この言葉が不都合という意味に使われるようになったのでしょうか。