投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

去年からカンボジアという国とご縁を結ばせていただいております。

去年からカンボジアという国とご縁を結ばせていただいております。

私の友人がNGOの活動をしており、毎年カンボジアを訪れる中で、現地の日本語学校に学びに来るカンボジアのお坊さんたちと親しく付き合いを重ねる中

「みんなでもっと何か出来ないか」

との思いから私も誘いを受け、去年の3月、初めてカンボジアを訪れるご縁をいただきました。

本願寺で共に学んだ7人の仲間と、首都プノンペンの王立仏教大学で、カンボジア宗教省の大臣やカンボジア仏教界のトップ、さらにたくさんのお坊さん方を前に、声明(お経)と、雅楽の演奏をいたしました。

いつの間にかこの活動が、こんな大ごとになっているとは誰も知りません。

日本とカンボジアの仏教交流…。

野球の王ジャパンやサッカーオシムジャパン。

スポーツの分野において「日本代表」といえば、華々しい響きがありますが、しかしこの時の私たちも、大袈裟ですがお坊さんの「日本代表」として迎えられていました。

というのも、カンボジアではこれまで日本のお坊さんと国を超えた交流会の機会がもたれるということがなく、意外にも私達が初めてであったということを聞かされました。

なるほど思い返してみますと、ここ数年までカンボジアといえば、内戦や地雷、ポルポト派の粛清等によってたくさんの人命が失われ、その悲しい過去から今まさに復興の途上にあります。

これまでに交流がなかった、いや、出来なかったという言い方が事実を物語る適切な言葉かもしれませんが、筆舌には尽くしがたいほど辛いカンボジアの負の歴史の一端を垣間見たような気がしました。

友人の何気ない誘いから、日本代表になることなど思いもしなかったこの私が、「日本のお坊さん」代表として今カンボジアで紹介され、同時に私たち7名が「日本」という国を背負いカンボジアのお坊さんたちの輪の中にいる。

そんな責任重大とでも言わざるを得ないような場に身を置くご縁をいただく中で、「お坊さんとは?」「仏道とは?」「自分とは?」等々、改めて自分の原点、姿勢を問いたださずにはおれませんでした。

『他力 私を支える仏の力』

よく「他力」という言葉を

「他人まかせにする」、

「他人をあてにする」

という意味で一般的に使われていますが、本来他力という言葉はそのような意味で使うのではなく、

「私が成仏するかどうか」

という時に語られる言葉なのです。

親鸞聖人によれば

「色もなく、形もなく、言葉で言い表すことも、想像することも出来ない」、

「如」

と言い表される真実なる存在が、生きとし生けるものに対して、自ら

「南無阿弥陀仏」

という名をなのり、

「仏の国土に生まれたいと願い、南無阿弥陀仏と称えよ」

と呼び続けていて下さるのだそうです。

そして、その仏さまのみ教えに出遇う者は、厳しい修行を行うことによって自ら迷いを断ち切るのではなく、仏さまの側からの

「念仏せよ、救う」

と誓われた尊い願いのはたらきによって、間違いなく仏と成らせて頂けるのです。

この願いの働きのことを、

「他力」あるいは「本願力」

というのです。

そうすると、他力とは世間一般で誤解されているような

「他人まかせ」

のことではなく、迷いのただ中にいる私を救うはたらきのことであるといえます。

言い換えると、私の身の事実に目覚めさせると共に、真実を喜ぶ心を起こさせて下さる願いのはたらきのことであると言えます。

また、この仏さまの願いとは、私たちが日頃考えているような

「病気が治りますように」

とか

「(自分勝手な)願いがかないますように」

という自己中心的なものではありません。

煩悩にまみれ、自己中心的な生活を送っているこの私を

「間違いなくお浄土にまれさせずにはおかない」

と、まさにこの私のために誓われたものに他ならないのです。

私が願うに先立って、既にして私を願いの目当てとし、私を支えて下さる無限なる働きを、「他力」という言葉で味わい、喜んでいきたいものです。

なぜいま念仏か(1)7月(前期)

親鸞聖人の教えの特徴は何かと尋ねられますと、すぐ「他力本願」とか「悪人正機」といった言葉が思い出されます。

阿弥陀仏の本願をただ信じるのみで救われる教えだととらえることもできれば、また念仏の一道を説いている教えだといえるかもしれません。

確かにそういった思想に、親鸞聖人の教えの特徴を見ることができるのですが、もっと具体的に私たちの日常生活で身近に感じられるものを探してみますと、それは

「迷信をもたいないことだ」

といえるようです。

このことは西本願寺で、浄土真宗という教団の特徴を

「深く因果の道理をわきまえて、現世祈祷やまじないを行わず、占いなどの迷信にたよらない」

と示していることから見ても明らかです。

真宗信仰に生かされているものは迷信をもたない。

これはまさしく当たり前のことなのですが、この点をよく考えていただきたいのです。

これは、世界における宗教の最大の不可思議さの一つと見てよいほど、非常に重要なことであるといえます。

また、いかに評価してもし過ぎるということはありません。

ここで「因果の道理をわきまえる」という言葉に注意してみます。

因果の道理とは何でしょうか。

原因と結果の法則にほかなりません。

この世には眼に見えないさまざまな不幸があります。

また今日ですでに原因ははっきりしているのですが、人間の力ではどうにもならない、突発的あるいは不可避的な災難にも出会います。

家族や自分が、不慮の出来事に遭遇したり、原因不明の不治の病にかかることは前者ですし、地震や雷、台風などに襲われることは後者です。

「私の北極物語」(上旬) 二時間に一度の甘いお茶

======ご講師紹介======

和泉雅子さん(女優)

☆ 演題 「私の北極物語」

昭和22年東京生まれの和泉さんは、14歳の時に日活映画会社に入社、数々の青春映画に出演。

中でも昭和37年の映画「非行少女」ではモスクワ映画祭で金賞を受賞されました。

テレビドラマにも多数出演。

レポーターとして訪れた南極に魅せられ、平成元年には日本人女性として初の北極点到達の偉業を成し遂げられました。

主な著書として『私だけの北極点』『ハロ−・オ−ロラ!』などがあります。

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北極では、二時間に一度はお茶の時間がありました。

なぜかといいますと、あんな寒いところで、二時間以上は頑張れません。

もしも、時間がもったいないといって、休憩もしないでどんどん先に行ったとしたら、どうなると思いますか。

極限状態に陥ってしまって、場合によってはそれが死亡事故につながってしまうんです。

ですから、どんな遠征隊でも、どんなに時間が惜しくても、必ず二時間にいっぺんは立ち止まって、お砂糖を五杯も入れた甘いお茶を飲んで、元気を出して頑張ります。

その方が安全性が高いんです。

それからお弁当です。

私たちの遠征隊は「食べる遠征隊」というあだ名がついたぐらいですから、年中食べておりました。

北極点に向かう途中、北極海が広がるところがあります。

実際は、スタート地点からずっとこの海の上の氷を歩いてきた訳ですね。

ですがこれは海ですから、さすがに歩くのは無理です。

そういう場合は、幅の広いところは渡らないようにします。

こういうのも川と一緒でして、必ず細いところがあるんです。

そこを渡るために、ソリを五メートルの長さにしました。

それを橋にして渡ったんです。

乗り物の場合はどうするかというと、遠くから勢いをつけて走らせます。

スピードを出して走ると海の上を浮かぶ浮力が出ますから、ジャンプして渡るわけです。

そして橋をかけて、全員でソリを引いて前進します。

簡単なようですけど、実はけっこう大変なんですよ。

失敗ができないんです。

もし誰かがうっかりこのソリを海に落としてしまったら、私たちはもう助かりません。

もちろんこのソリにはSOS、「助けてください」という緊急発進装置がつけられています。

海に落ちれば装置の信号が人工衛星に届いて、北極海の周りを取り巻く各国の基地のどこかから助けが来てくれます。

ただ残念ながら、飛行機の窓から見た人間というのは、特にこの北極海では見つけにくいんです。

どんなに正確に場所がわかっていても、合図してもわかりにくいんです。

その間、食べ物も、着るものも、飲み物も、テントも寝袋もストーブも何もありませんから、私たちは生きてはいけないんです。

ですから、失敗は決して許されません。

一日一回ならいいほうです。

ひどい時はなんと一日に十八回も海を渡るんです。

大変な重労働です。

そうやってある程度進んでくると、平らで走れる面が広がります。

私たちは、高速道路とよんでいました。

私の遠征隊もやっとこの面をとらえましたので、進む距離が一気に伸びました。

一日に五十キ、七十キロも前進できたんです。

北極で五月を迎えました。

実は五月はダメなんです。

必ずお天気と氷の状態が悪くなってしまうんです。

今回も案の定、天候が悪くなりました。

気温がどんどんあがってしまって、本来は大量の雪が積もっている場所が水浸しになっていたんです。

また、空の上の方にグレーの雲がかかりまして、雪の下に明るい帯状の空、その下に氷と海という風景になりました。

ぐるりと見渡してみても、これしか見えないという景色が二カ月間ずっと続きます。

だから、そうとう強い精神力がありませんと、頭がおかしくなってしまうんです。

私は、相性が良かったのか、全然気になりませんでした。

「出世」

 成功して、社会的な地位が上がることを「出世」といいます。

勉強に、仕事に、多くの人々は出世するために頑張っているように見えます。

 ところが、この言葉は出家して仏道修行することを意味すると共に、もともとはブッダ(覚者)が世の中に現れることを示す仏教用語で、経典には次のように説かれています。

 「釈尊がこの世に出られたわけは、教えを明らかにひらいて、雑草のように群れて生きている衆生を救い、真実の利を与えるためである」(大無量寿経)

 「真実の利」

とは、この世の中において、自分の欲望がかなうことではなく、どのような環境にあっても自分自身の存在の尊さ、厳かさに気付いて、喜びをもって今を力強く生きるという利益です。

釈尊が目覚められた真理を説くのが仏教ですが、また

「釈尊はその真理を説くためにまことの世界(如)からこの世に出現された(来)のである」

と経典には示されてきました。

 それは、今日用いられている「出世」とは全く反対の意味です。

この言葉から

「自分がこの世に生まれ出たのは、本当に何のためだったのか静かに考えよ」

という呼びかけが聞こえてくるような気がします。

「花をみる花もみている 月をみる月もみている」(下旬) 愛を受ける一生

 その療養所には十五年も入院しておられる方がおいででした。

高畑さんという女性で、学校の先生をしておられた方でした。

結核をこじらせて腹膜という病気になって、十五年も山の療養所に生活をしておられました。

 その方のお母さんは、療養所に毎日二時間かけて弁当を持って来られるんです。

お母さんは何年もの間、十一時頃のバスに乗って療養所においでになって、弁当を届けて二時頃のバスを乗り継いで帰って行かれるんです。

このことに私はたいへん感心させられました。

ある時に「よくされますね。たいへんですね」と申し上げたら、学校の教員をしておられた時に発病されて、今療養所におられるわけですから「もう一度娘を社会復帰させたいんです」とおっしゃられたのです。

 私は少しずつなら動いてもいいと許可がおりましたので、俳句会に入りまして俳句を作り始めました。

月に一回俳句の先生がおいでになりまして、元気なものは重症の病棟におられる方々の俳句を集めて回ります。

それでその高畑さんも俳句を作っておられまして、ある時にこういう俳句を出されました。

「雪降るや 受けるのみなる 母の愛」

「母といて 苺を分ける 銀のさじ」

とてもきれいな良い句ですね。

 結核というのは暖めてはいけないのです。

ですが、何十年も前の、しかも山の中の療養所でしたから、冬には雪が降って寒いんです。

当時は湯たんぽを足下に置いて暖をとるくらいしかできないのです。

高畑さんは雪を見ながら、果てしなく雪が降ってくるけれども、私は何も母に返すことができない。

ただただ母の愛を受ける一生です、というのが「雪降るや 受けるのみなる 母の愛」なんですね。

こんな病気になって不幸です、辛いんです。

だったらもう死にたい、というような悲壮感はこの歌からは全然感じられません。

 では何が感じられるかというと「お母さんありがとう、お母さんのはたらきでこうして療養しています」と、お母さんを拝んでおられる世界ですね。

それからもう一つの句も美しい句です。

他の方が見たら「お気の毒ですね」「不幸ですね」とおっしゃる方も中にはいらっしゃるかもしれません。

でも高畑さんは「お母さんの愛に恵まれて療養していきます」と、こういうようにおっしゃっておられるのです。

 この高畑さんは、親鸞聖人の『歎異抄』をベッドのしたに入れておられまして、ときどき「『歎異抄』を読んでるんですよ」と語ってくださったことがあります。

そういう世界を持っておられて、そして生かされている、願われている、そういう心を受け止めておられる。

私自身も人生の挫折でありましたけれども、そこで深い、柔らかい、あるいは強い心をそこでお教えいただいたことであります。