投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

『耳を澄まし 心の眼を開く』

 浄土真宗は「聞法の宗教」であるといわれます。

阿弥陀様のお心を疑いなくそのまま聞かせていただくことを、何より大切にするからです。

ですから、ご法話を聞かせていただくことを「聴聞」といいます。

 ところで、この「聴」と「聞」は、どちらも「きく」と読む語ですが、厳密にいうとその意味合いは少し違うようです。

「聴」は「私が○○をきく」というように、自分を中心にして耳を澄まし、ものをきく、ということです。

それに対して「聞」というのは私が聞くのではなく「きこえてくる」というように、私が中心ではなく、相手が中心なのです。

 金子大栄先生のお言葉に、次のようなのがあります。

  聞かなければ 聞こえない

  聞こえてみれば 私が聞いたからではなかった

 例えば、普段は会話やテレビの音など日常生活の音にかき消されていた、小鳥のさえずりや風の音などの自然の音が、ふと立ち止まって耳を澄ましたときに聞こえてくることがあります。

それらの音は、確かに耳を澄ましたから聞こえたのですが、実は小鳥はいつも鳴き、風はいつも吹いていたのです。

 浄土真宗は「一定回数を聴聞すれば信心に到達する」というような教えではありません。

近道を探すのではなく、まずはじっくりと仏様のお心を聞かせていただく。

その過程にこそ実は意味があるように思われます。

耳を澄まし、当たり前と思っていた私の「いのち」を支えんとする、久遠の彼方よりのよび声を聞かせていただくのです。

「親鸞聖人の念仏思想」 (5)10月(前期)

 私たちは、親鸞聖人が「悪」とされる「自分こそは正しい、自分が絶対である」とする自己中心性を破るためには、仏教の無常とか無我という教えに出会う必要があります。

なぜなら、この教えに出会うということが、真の意味で「善を好む」ということになるからです。

 それでは、善を好むとはどういうことなのでしょうか。

それは一言でいえば、無常と無我の実践ということだといえます。

仏道に即した実践においてのみ、実は善を好む姿があるのです。

無常の実践とは真実の智慧を持つ以外にはありません。

それは、何も頭の中で考えて、自分が生まれてやがて死ぬのだということが分かっているというようなことではありません。

そうではなくて、まさしく自分が無常のなかにあるということを、体の全体で知って、智慧の実践をすることです。

これが無常の実践です。

 それに対して無我の実践ということは、真実の慈悲を持つということです。

これが無我の実践です。

我を中心とした自分が、世の中で働くのではなくして、無我という立場で世の中に出ていくことが、慈悲の実践ということになるのです。

そして、このような実践においてのみ、まさに仏教の行が真の意味で成り立つといえるのです。

「教育と宗教」みんなが評論家

======ご講師紹介======

田中教照 さん(武蔵野女子学院学院長)

☆ 演題 「教育と宗教」

昭和二十二年山口県生まれ。東京大学文学部卒業後、昭和五十一年に浄土真宗本願寺派の宗門校・武蔵野女子大学講師に就任、現在は武蔵野女子学院中学高等学校校長もお務めです。

ご専門は仏教学で、特に初期仏教と真宗を中心に研究しておられます。

また、山口県美祢市・西宝寺に所属する僧侶でもあられます。

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武蔵野女子学院学院長 田中教照 さん

目に見えない仏様を後ろにいただいて、先生も生徒もお互いにお礼を言う。

それが我々の学校の教育です。

先生が偉いから生徒を教えるのではございません。

生徒は未熟だから先生の言うことを聞かなければならないわけでもございません。

先生も生徒も偉くはないんでございます。

お互いに仏様の智慧の鏡に自らの身を照らしながら、生徒は生徒のなすべきことをし、教師は教師のなすべきことを一生懸命にさせていただく。

その中で日々、自分を振り返ります。

そして

「仏様、私はこれでよろしいのでしょうか。まだまだ至らない点があると思うんですが、お気づきの点があったらぜひ教えていただきたいのです」

という気持ちで、教師も生徒も謙虚さを失わずに学びの道を進めていく。

こういうことが教育の基本になければいけないと思っているんですね。

それを踏まえて考えますと、現代社会には一つの問題が見えてまいります。

それはみんなが評論家になってしまっていることです。

おそらくテレビの悪い影響でしょう。

人の悪い所をあげつらって、ああでもないこうでもないと言っています。

でも人の欠点をどんなにあげつらっても、事態はよくならないと私は思います。

親鸞聖人がおっしゃっている通り、わかっているけどやめられないのが人間なんです。

人を非難することよりも、その人を私たちがどう支えていくか、どうカバーできるかということを考えた方がずっといいです。

「あいつができないから悪い結果になった」

と批判することは、結局人の欠点を探して悪口を言ったりさげすんだりすることで、自分は正しいと思い込んでいるだけなんです。

自分は正しいとどれだけ言ったって、周りの人が悪かったら結果は出ません。

結果を出していくには、お互いにどうやって協力していくかを考えるべきでしょう。

なのに人をおとしめることばかりに一生懸命になっているのは、お互いに足を引っ張るだけでちっとも生産的ではないと思います。

今学校で起こってることは、まさにこういうことではないでしょうか。

具体的に申しますと、親の方は「あの先生が悪い」と学校を批判しています。

逆に学校の先生はどうかというと、「あの子は家庭教育がなっとらん」すなわち家庭が悪いと言ってるんです。

それじゃ子どもがよくなっていく道に全然つながらないじゃないですか。

せっかく子どもが学校に入っていながら、親の方があの先生はダメだとか、この学校はダメだとか言っていたら、子どもはその学校で自分を高めていこうという気にならないでしょう。

「安心安全なまちづくり」〜治安回復は健全な家庭の構築から〜(下旬) 親子のつながり

警察研修社会長 田宮 榮一 さん

その娘も年頃になって恋人が出来た。

そし、恋人と結婚したいと父親に言いましたら、この父親は怒り狂って「てめえら、みんな叩き殺してやる」と暴れたんです。

それで娘は、忍ぶに忍びなく、酒を飲んで眠っている父親の首を絞めて殺した後、自首したという事件です。

情状酌量など、どういう場合に罪を軽くすることが出来るかということは法律で決まっています。

そして、この犯罪の場合、背景に殺されて当たり前だと言える親がいます。

そして子どもは自首しました。

しかし、そういったいろいろな事情、理由を並べて情状を酌量しても、裁判官は法律的な問題で執行猶予が付けられませんでした。

どけだけ罪を軽くしていっても、元々この尊属殺人罪には死刑と無期懲役しかなかったからです。

執行猶予を付けるためには、これが尊属殺人ではなくて普通の殺人でなければならない。

そこで裁判官はこの娘は気の毒だ、何とかしてやりたいという温情から、尊属殺人罪は憲法違反だという判断を下したと、こういういきさつがあったんです。

親が子を殺し、子が親を殺す。

その家庭はどうなっているのかというと、まさしく家庭の治安が一番乱れているのではないかという所に行き着くわけですね。

ですから、国や県、町の治安といったことを考える前に、自分の家庭の治安を考えなければならないんです。

しかもこの家庭の治安悪化は、外からの侵入者によるものではなく、自分を含めた親族で自ら乱してはいないかということが問題なのです。

家はあっても、家庭内の治安を考えず、また隣の家庭と力を合わせることもしない自己主義に、現在の多くの家庭が陥っているのではないかと思うんです。

小さくとも自分の家をしっかりまとめて、人に迷惑をかけない、そういうことから地域、町、県、そして国を想う心に繋がっていくのだと思います。

だとすると、まずはやはり家庭内のコミュニケーションが重要です。

そのための一言、一秒間の言葉を忘れていませんか。

一秒間の言葉をバカにしちゃいけません。

「おはよう」「こんにちは」「おやすみ」「がんばったね」「また明日」すべて一秒です。

この言葉をそれぞれの職場や、地域、そしてまず何よりも親と子の間で、会話としてつながりを作っていくことが大切なのではないでしょうか。

『私の「ものさし」と違う 仏さまの教えの「ものさし」』

私たちは無意識の内に「自分の中にはいつも正しい私がいる」かのように思い込んでいます。

ですから、その「正しい私」が世の中の様々な物事を見て、考え、判断を下し、ものを言い、行っている訳ですから、その結果はいつも自分の思い通りにいくはずだと信じています。

ところが、私の意に反して現実の前にはその正しいはずの判断が覆されたり、物事が思い通りに運ばないことがしばしばあったりします。

なぜなのでしょうか。

それは、私が下している判断の基準、ここでいうところの「私のものさし」は常に自己中心的なものでしかないからです。

「自利利他」という言葉があります。

仏さまは、悩み苦しむ私たちを救うこと、言い換えると他を利することがそのまま自分を利することになるという立場にたたれます。

つまり、仏さまのものさしは、自分の行いが他の人のためになるかどうかということが基準となっているのです

私たちは、なかなか自己中心的な生き方を離れることは難しいものです。

なぜなら、誰よりも自分が可愛く、いとおしいと思っているからです。

けれども、社会生活を営む上では、常に周囲の人々から何らかの恩恵を受けていると同時に、気付かないうちにさまざまな迷惑をかけていることもあります。

そんな私の姿に目覚めさせてくださるのが、仏さまの教えの「ものさし」だといえます。

私たちは一生涯、身勝手な私のものさしを捨てることは出来ませんが、仏さまのみ教えを聞くことを通して、少しでも自分の都合の良いように伸び縮みするものさししか持ち得ないことの自覚を持ち続けることが大切なのではないでしょうか。

「親鸞聖人の念仏思想」 (4)9月(後期)

親鸞聖人がいわれる悪とは、このような自分ひとりが正しいとする自己中心性をとらえられたものです。

そうしますと、人間の自我というものを否定しない、仏教以外の教えは、表面的にはどれほど人々に善の姿をみせているとしても、究極的にはその善の中に悪を生み出す構造をもっているのです。

それゆえに、この教えは「偽」であるといわれるのです。

人間の自我を否定せず、永遠の生を願う人間の欲望に迎合する教えは、どれほど人の耳にやさしく響くものであっても、結局は人間を破滅に導くものでしかありません。

この自己中心性が悪であるということは、卑近な例では、夫婦の間における争い、会社や同族のいざこざにおいても見られるもので、私たちはいかなる場合でも、常に自分を中心に置いて判断を下しているのです。

したがって、何か誤りがおこれば、間違っているのはいつも相手の方であると考えてしまうのではないでしょうか。

そうしますと、人間の世界には、迷いに属する人間と悟りに属する人間、という二種をみることになるのですが、いま迷っている人間は「悪を好む」といわれるのは、何も常に意図的に悪いことをしているというのではなく、自分自身の思いとしては、一生懸命に善をしているのですが、その善意が本当の意味での無常とか、無我とかを知らないために、善がそのままかえって悪を好むすがたになっているということなのです。