投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

「安心安全なまちづくり」〜治安回復は健全な家庭の構築から〜(中旬) 世界一安全な国

警察研修社会長 田宮 榮一 さん

これは、犯罪はどうやって広まっていくのかという犯罪の感染理論なのです。

どういうことかと言いますと、最初は犯罪でも何でも、単なるいたずらだからと、小さいことだからといって放置しておくと、いずれそれが大きな犯罪に結びついていく、という理屈です。

一枚であっても、割られた窓が修理されることもなくそのまま放置されるということは、そのビルが管理されていないこと、その地域にはコミュニケーションがなくてほったらかしにされていることを物語るものです。

これをアメリカで実践した都市がニューヨークでした。

その時の市長は、まずささいなことから取り締まりを始めようということで、ニューヨーク市警の警察官を大量に増員しました。

そして何を取り締まったかといいますと、まず世界に名だたるニューヨークの地下鉄の落書きでした。

それから酔っぱらって寝込んでいる人、ドラッグを使用してふらついている人、さらには街頭での物もらいですね。

ニューヨークの物もらいはたちが悪いです。

例えば、赤信号で止まると近寄って来てバックミラーを布きれでちらっと拭いて「一ドルよこせ」と言ってきます。

そこでお金をやらないと、コインで車体に傷を付けていくんです。

そういうたちの悪い物もらいがいます。

このような、強盗や強姦といった罪に比べればたいしたことのないようなことを徹底的に取り締まったんです。

そうしたら、殺人、強盗、強姦といった凶悪犯罪が一気に少なくなったといいます。

そこでニューヨークは世界に向けて安全都市宣言をしたんです。

その一方で日本は、世界一安全な国から、犯罪が横溢する国家に成り下がっていったんです。

最近の傾向を見ると、そう思えてなりません。

この「割れ窓」のようなことが、各家庭の中にないかどうか。

子どもを非行化する要素が家庭に中にあるなら、それは「割れ窓」の一つではないかと思います。

最近は、親殺しという事件が多くなってきました。

いろんな現場で耳にします。

つい最近では、大阪大学の学生で三男坊が母親を殺したとか、その前は千葉県で娘さんが火を付けて親父さんが死んじゃったとか、そういう事件が非常に多い。

子どもは親を殺めることをどう思っているんでしょうか。

昔は尊属殺人罪というのがありました。

実はそのころの尊属殺人罪というのは、一般の殺人よりも罪が重いとされたので、普通の懲役というのはなく、死刑と無期懲役しかありませんでした。

昭和四十八年に、最高裁判所がそれは憲法でいう法の下の平等の原理に反する、すなわち憲法違反だという判断を下したんです。

そして平成七年に刑法を変える際に削除されてしまいました。

ただ、これがなぜ削除に至ったのかという背景を調べて参りますと、実は親が子どもに殺されても当然だという事件があったんです。

栃木の実父殺しという事件です。

栃木県で父親が十四歳になる実の娘に暴行をはたらき、家を出て行った女房の代わりに昼夜問わずこき使ったあげく、五人の子どもを産ませたのです。

最近、インターネットで検索していたとき、あるホームページの投稿欄に

最近、インターネットで検索していたとき、あるホームページの投稿欄に

「ある母親が学校に対して、『うちの子には給食時間に「いただきます」を言わせないで下さい。

給食費を払っているのですから。』と意見した。

またある学校のPTAは、学校に対して『こっちがお金を払っているのだから給食時間に「いただきます」を言わせないようにしてほしい』と申し入れた。」

という内容の書き込みがありました。

一方、学校で教師が「いただきます」は「宗教的な儀礼の押しつけになるから」との理由で、代わりに太鼓をならしたり、笛をならして給食を開始したりしているという話しを聞いたことがあります。

また、私の友人が友達とレストランで食事をしていたときに、手を合わせて「いただきます」と言ったら、「そんなことを言うの?」と、びっくりされたことがあるという話したことがありました。

いずれの事柄にも、私は驚くとともにこのような風潮が当たり前となっていることに危機感を持ちました。

「いただきます」というのは、日本人が動物や植物の「いのち」をいただいて、自分の「いのち」を長らえさせていくことへの感謝。

また、米や野菜を苦労して作ってくださったり、食事を作ってくださった人への感謝の言葉ではないでしょうか。

このひと言は、私たちにとってかけがえのない言葉であり、心を育んでいくことにもなります。

この言葉をなくすということは感謝の心を無くすことにもなります。

もう一度、私たちは「いただきます」、このかけがえのない言葉を見つめ直していくべきであり、子ども達に伝えていくことが大事であると思います。

『私の「ものさし」と違う 仏さまの教えの「ものさし」』

ある農家のおじさんが、鍬を片手に畑仕事に行った時のお話です。

一生懸命鍬(くわ)で畑を耕していたら、なんと鍬の柄が折れてしまったそうです。

おじさんは困って、鍛冶屋に走って行き、鍬の鉄の穴を拡げて柄を押し込んでもらうことにしました。

おじさんは、また元通り鍬が使えるようになって「めでたし、めでたし」と思ったそうですが、このお話どこかおかしくありませんか?

普通、鍬の柄が折れたら柄の方を削って、穴に合わせて入れようとするものです。

わざわざ鍛冶屋に行って、穴を大きくして柄に合わそうとするなんて!

でも、実はこのお話は、私と阿弥陀様の関係と全く同じなのです。

試みに、鍬の穴を私、柄を阿弥陀様に置き換えてみましょう。

私たちは、阿弥陀様の願いを聞かせていただいているにもかかわらず、迷信に惑わされたり、占いに頼ったりと、拡がらない穴を、拡げよう拡げようとして、なかなか素直な心で阿弥陀様のお言葉に耳を傾けることが出来ません。

ところが、そんな私の姿を見抜いて「あなたは、あなたのままでいいんですよ。

そのままのあなたを、私は救わずにおきません。

」とおっしゃられたのが阿弥陀様なのです。

まさに自分の身を削ってまで、阿弥陀様の方から私に合わせて頂いているのです。

このことを、お念仏を心から喜ばれた方が「ご恩尊や南無阿弥陀仏。

お慈悲かたじけなや南無阿弥陀仏」と嘆じておられます。

「親鸞聖人の念仏思想」 (4)9月(前期)

たとえば、ある人が仏教以外の教えに導かれて、一生懸命に善に励むとします。

この人には、教えに基づいた主義や主張があり、また理想があります。

それは、この人にとっては時間し場所をこえて真理であり、その教えは不変です。

この点で、この教義は仏教の無常の教えと正反対になり、常住であることがこの教えの欠かせない条件になります。

そうしますと、この人はどこへ行っても自分の教えこそが正しいと主張することになり、しかもその正しい教えにしたがって、自分の考えたところの善を、一生懸命に実践することになります。

ところで、ここにもうひとり、先の人が信じている教えとは異なる、仏教以外の教えに信順している人がいるとします。

そうなると、この人もまた、その教えに導かれて自分の教えこそが正しいと主張することになります。

さて、そうなるとどのようなことが起こるかというと、どちらも自分の教えの真実を論じて、一歩たりとも譲らないということになり、そこに大きな争いが発生する可能性が多分にあります。

実際、歴史を振り返ると、国を滅ぼすような戦争はこのような互いの信じる正義と正義のぶつかりあい、言い換えると善と善とのせめぎあいが、多くの悲劇をもたらしてきたことが知られます。

宗教戦争や民族紛争などは、その典型といってよいかもしれません。

ここでは、悪をしようとして悪をおこすのではなく、善をもたらそうとして悪がおこなわれているのです。

この悪の背後にあるものは何かというと、自分こそ正しい、自分が絶対であるという自己中心性であるといえます。

「安心安全なまちづくり」〜治安回復は健全な家庭の構築から〜(上旬) 不心得者を監視

======ご講師紹介======

田宮榮一さん(警察研修社会長)

☆ 演題 「安心安全なまちづくり」−治安回復は健全な家庭の構築から−

昭和七年山形県生まれ。中央大学法学部卒業後、昭和二十七年から警察官としての道を歩まれ、平成元年の退官までに成城署長、鑑識課長、捜査第一課長、新宿署長、警察学校校長、警ら部長などを歴任されました。

警視庁退官後は、平成十一年までヤマト運輸株式会社に勤められ、現在日本テレビで事件報道の客員解説者をお務めになりながら、各メディアで事件捜査の解説をしておられます。

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警察研修社会長 田宮 榮一 さん

治安をよくするということは、警察や検察官だけで出来るものではないですね。

やはりみんなが力を合わせて、わが町を安全にしよう、安心できるまちづくりをしようという思いで励むことが大切なんじゃないでしょうか。

ところが、残念ながら何かあるとすぐに反対する者がいっぱいいるのが現実です。

例えば、安心安全な町づくりのために監視カメラ、防犯カメラを設置するとします。

この防犯カメラが今までにいかに犯人を絞り込んでいくときに役に立ったかというのは、たくさん事例があります。

長崎で子どもが子どもを殺した事件がありましたが、あれも商店街に設置された防犯カメラが記録していました。

しかし、あれは子どもを捕まえるために付けていたわけではなく、店が閉まった後のシャッターに落書きをしたり、蹴飛ばしたりする不心得者を監視するために設置していたようです。

この防犯カメラが世界で一番多いのは、イギリスのロンドンです。

ロンドンに行きますと、防犯カメラがありまして「あなたは監視されている」と書いてあったりするんです。

以前イギリスで起きた地下鉄テロ事件は、比較的早く犯人が検挙されました。

それは設置された防犯カメラが犯人の姿をいたる所で記録しており、その映像を分析することで犯人を割り出すことが出来たからなのです。

ですから、本当に必要な時に防犯カメラの映像を活用することは、非常に重要なことだとお分かりいただけることかと思います。

ところが、防犯カメラなどは「プライベートの侵害だ」と反対する人も大勢います。

表を歩いていれば、カメラに自分の姿が写るのは当然じゃないですか。

それが嫌なら表に出るなと言いたくなりますよ。

あるいは表でよほど悪いことをしているかでしょうね。

後ろめたいものがあると思っているからこそ、カメラに写っては困ると思うんでしょう。

あくまでカメラの映像が垂れ流しになって、誰でも見れるようになる状態が悪いのであって、存在そのものがいけないわけではありません。

運用方法の問題であり、ちゃんとした管理をしながら使うということは、とても重要なことだと私は思います。

次に、アメリカで提唱された「割れ窓の理論」のことをお話します。

あるビルの窓ガラスが一枚割られたとして、たった一枚だからと何もせずに放置しておけば、いずれそのビルの窓は全部割られてしまうという、これが「割れ窓の理論」です。