投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

「親鸞聖人の念仏思想」 3 8月(後期)

 人間の願いは、一般的には現世での幸福と、その幸福が永遠に続くことを願う「現当二益」が中心です。

それゆえ、そのような私たちにとっては、自分達の幸福を約束してくれて、それが永遠に続くと保証してくれるような教えが一番魅力的な教えとして心が引き付けられるのです。

しかし、親鸞聖人はそのような私たちの現当二益への願いそのものが、悪を好む姿だといわれ、そういうことを餌にして人々を引き入れようとする教えが、偽であるといわれます。

 では、なぜそのようにいえるのでしょうか。

それは、このような願いは人間の自己中心的な我の考えに根ざしたものに他ならないからです。

そして、そのような願いをかなえることが出来るといって人々を導く教えは、まさに人間の自己中心性を助長するだけで迷いを重ねさせるだけに過ぎません。

だからこそ、その行為は悪であり、その教えは偽なのです。

自己中心的な願いは、人間をけっして真実の幸福に導かないばかりか、むしろ破滅に導いてしまいます。

それゆえに、このような教えは、その外観とは裏はらに、悪を好むものになってしまうことになるのです。

表面的には好ましい教えに見えながら、その実、悪を助長するものになっているので、偽の教えは恐ろしいのです。

 そして、その教えにしたがって生きている人々は、先に見た五逆、十悪の悪人たちよりも一層注意が必要だといえます。

そこでこの「悪」の規定は、自己中心的に一心に善に向かって生きることだというべきでしょうか。

とにかく、この「悪」を見抜くことは、私たちの心には善に向かっているかのような錯覚を与えるだけに、容易ではないといえます。

「カウンセリングと仏教」(下旬) 無能だとわかる

 カウンセリングと宗教についてですが、まず自分をダメなやつだと思い悩んでいる人がいるとします。

そり人がカウンセリングを受け、自分をわかっていくことで、自分自身に可能性があることに気付いていきます。

その可能性で前向きの人生を歩んでいこうというのがカウンセリングです。

だから人生にはカウンセリングなのです。

 ところが宗教というのは、自分が頑張って仏さまの話を聞いたら分かるようになるんじゃないか。

助かるんじゃないか。

そういう思いから一生懸命頑張ります。

しかし、実際にはどんなに頑張って聞いてもなかなか悟れません。

頑張っても年はとるし、死からは逃れられません。

そうして、自分はダメなんだと、無能なんだとわかるというのが宗教なんです。

 だからカウンセリングと同じように、自分がわかるというのは一緒なんですけれど、わかる方向が違います。

カウンセリングは自分に能力や可能性があることに気付いて頑張り、この世の中で生きる力にするというものです。

 それに対して、聞いていけば聞いていくほど、実際には自分には能力がなく、何事も思うようにはならないということが本当にわかり、それがわかると自分がすでに助けられていたということに気付く。

この矛盾が矛盾でなくなるのが宗教であり絶対界です。

 自分のいい所に気付くか、自分にはいい所なんかなく、悪い所だらけだったとわかるかの違いが、宗教がカウンセリングと違うところです。

 「自己に目覚めてあやまり果て、本願に目覚めて喜びいさむ」。

自分で頑張ってどうにかなるのであれば、阿弥陀さまは必要ありません。

自分ではどうにもならないからこそ、阿弥陀さまが必要なのです。

阿弥陀さまが五劫思惟の願をたてて、我々を救ってくださるのです。

カウンセリングと宗教は、自分を見ていくということにおいて非常に似ていますが、やはり違いはあるということですね。

『お盆 縁に導かれ手を合わす』

 ものごとは結果から見ると、必ず原因があります。

例えば、美しく咲いた花という結果には、必ず種という原因があります。

けれども、ただ単に原因となる種があっても、そこにさまざまな条件が整わなければ花という結果は生じません。

 よく知られているように、種を埋める土や養分、水や日光などの条件が揃うと、種はやがて芽を出し、葉が出て花を咲かせます。

この土や養分、水や日光などの諸条件を「縁」といいます。

「縁起」という言葉は、物事が縁によって起こっていくので縁起といい、その反対は縁によって滅していくので「縁滅」といいます。

 例年お盆には、ご家族で亡くなられた方や先祖の方々のお墓にお参りしたり、お仏壇を飾りつけたりします。

ところで、「年間を通して、いつもこのように亡くなられた方や先祖の方々に心を寄せていますか?」と問われると…、いかがでしょうか。

日頃はさまざまなことに追われるような日暮らしをしていると、それこそ「自分のことだけで精一杯」といった感じで、「なかなか…」といったところだと思われます。

 そうしますと、お盆は「私が亡き方や先祖のために…」というよりも、むしろ亡くなられた方や先祖の方々の「ご縁」によって導かれ、仏前や墓前に手を合わせることができているのだと言えるのではないでしょうか。

亡き人を案ずる私が、実はいつも亡き人やご先祖の方々から案じられ、拝まれていることに心を寄せ、尊いご縁に導かれていることを感謝申し上げたいものです。

「親鸞聖人の念仏思想」 3 8月(中期)

 よく考えてみたいのですが、人は誰もが表面的には「悪を好む」どころか、「善を一生懸命に励んでいる」といえます。

けれども「偽の教え」に基づいてなされている善は、究極的には悪でしかないというが、親鸞聖人の結論なのです。

 そこで、人を迷わせる偽の教えと、仏教の教えとの違いがどこにあるかを明らかにするために、仏教の教えの特徴を述べてみたいと思います。

親鸞聖人は、仏教に出会っている人は「善を好む人」だと言われますが、ではいったい仏教の何が人をして善を好ませているのでしょうか。

 仏教の教えには、三つの特徴があるといわれています。

一つは「無我」ということ。

二つには「無常」ということ。

そして三つめには「涅槃」ということです。

この三つの柱の有無が、一つの教えを仏教であるかないか見分けるための重要な目印となるのです。

したがって偽の教えとは、とりもなおさずこれら三つの柱を説かない教えであると言い得ます。

もし私たちが仏教以外の教えを信じるとしますと、それはまさに無我と無常と涅槃に反することを願っていることになります。

「カウンセリングと仏教」(中旬) 相対界と絶対界

 宗教の場合には、やはり死ということをもってきます。

カウンセリングの場合には、死ということではないわけですね。

世の中をどう生きていくか、周りとどう上手に適応し仲良くしていくか、そういうことであって、どう死ぬかということでは決してありません。

 ところが、宗教的なことになってくると、人間を超えた智慧に遇うということになります。

それはどういうことかというと、死というものを超えていくということなんです。

難しく言えば、相対界から絶対界と言うんですけども、我々の世界は相対界と言って、常に比較の世界なんです。

 いくら賢いといっても、そこにもっと賢いものをもってきたら、それは賢いとはいえなくなります。

また、この水は冷たいとかいっても、本当はわからないんです。

なぜなら、普通の水はこんなもんだという勝手な概念がありますけども、そこに氷の入った水を持ってきたら、元の水は冷たくないというでしょう。

我々が幸福であるかどうかというのも周りと比べてのこと、相対界の中にあるんですね。

絶対界とは、そうではなくて比較するものを超えた智慧の世界なんです。

 我々の世界では生と死、生きることと死ぬことは矛盾する全く別のものとしてあります。

しかし宗教では「生死一如(しょうじいちにょ)」と言います。

矛盾しているものが矛盾でなくなるというのが宗教です。

我々の世界では、矛盾しているものは矛盾でしかありません。

好きと嫌いは一緒にはなりません。

ところが、自分はダメな人間だったと思うと同時に、救われていたという喜びがそこにある。

この本来あり得ないことがある世界を宗教というのであって、それは信じること、体験することによって決まる世界なんです。

 自分を無神論者だという人が「神も仏も絶対にいない」と言うのは、絶対にいないことを信じているということです。

いるとするにせよ、いないとするにせよ、自分がそう思って信じるかどうかです。

そのときに単に頭の中で思うか、体験するかの違いがあります。

その体験というのが、ここでいう「廻心ということただひとたびあるべし」ということです。

 世の中のこと、例えばお金もうけや健康ばかりに執心して、それを増やそう、保とう、残そうとしても、どちらもいずれ必ずなくなります。

もちろんそんなことはみんな頭の中ではわかっているんです。

そうではなく、それが本当に自分のもの、現実のことだと「目覚める」ことを廻心というんです。

 その時がきて、死ぬということ、財産はおいていかなければならないということ。

そういうことを頭だけで理解したつもりでいるか、本当に「目覚める」かの違いがあるということです。

その経験をされた人のことを、浄土真宗でいえば阿弥陀さまにお遇いした人、ご安心を得た人、妙好人といいます。

先日、長男が誕生しました。

先日、長男が誕生しました。

初めての子供でした。

10ヶ月もの間、母の胎内で育ち、産みの苦しみを経てはじめて生まれてくる命。

まだ生まれて間もない、生命のかたまりのような我が子を抱き上げると、想像以上にズッシリと重く、感慨深くいのちの重さを実感いたしました。

 一方、最近の新聞やテレビでの数々の報道をみると、いのちが重いどころか、軽くなっているのではないか、そう思わされるような事件等がとても多い気がします。

物欲に溺れ、形ばかりを追い求める現代。

いつの間にか我がいのちの生かされて生きる不思議を思い、恵みや慈しみに感謝する心を全く喪失してしまいました。

お互いの命のつながり、縁というものがどこかバッサリと断ち切られてしまい、結果「いのち」が軽くなっているのではないでしょうか。

「ありがとう」「おかげさま」「もったいない」いつの間にか聞こえなくなった言葉です。

たった一言でも、心をこめて言えたなら。

自分勝手な自分だからこそ、心がけたいものです。