投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

『お盆 縁に導かれ手を合わす』

連日寝苦しい日々が続いています。

こうも暑いと早く冬がくればいいのにとついつい思います。

しかし冬がきたらきたで、こんなに寒いのなら早く夏がきてほしいと思うことでしょう。

暑くても・寒くても愚痴の減らない自分だなあと味わう今日この頃です。

お盆には、多くの方々が渋滞の高速道路を古里へ帰って行かれる様子がテレビ等で放送されます。

お墓参りをしたり、家族団欒や旧友との時間を楽しんだり…と、それぞれに日頃の忙しさから離れて心と体を安心して寛げる場所が古里であり、またお盆のひと時でしょう。

庄松というお念仏を喜ばれた方は「わしは死んでも、墓石の下にはおらんぞ」と言われたそうです。

お墓参りをする姿は敬虔であり、亡き人を偲ぶという意味でも大切なことです。

しかし同時にこの方の言葉も大切に頂いていかなければならないと思います。

「私は仏さまのおはたらきによって浄土へと生まれ往くのです。

皆様も自分の生まれ往く所をしっかりと聞いてくれよ」と庄松さんが仰っているように感じられます。

お盆をお墓参りだけで終わらせず、自らの命の行方を仏法に聞いていく時間とさせて頂きたいものです。

「親鸞聖人の念仏思想」 3 8月(前期)

親鸞聖人は、五逆とか十悪に見られるような、具体的に社会を乱している悪人をあまり問題にしてはおられません。

なぜなら、それは人間の常識の問題だからです。

意図的に悪をなす人たちは、確かに世の中を乱します。

けれども、これらの人々の行っている行為は、人間が本来最も大切にしている社会の調和を意図的に破っているのですから、これは人間の常識の力で必然的に社会から排除されてしまう悪だといえます。

いわば法律や人倫の道にはずれた人たちは、社会の力で必然的に社会から取り除かれてしまいますし、またその行為が人々の目に悪だとはっきりわかりますので、これらの類の悪は人々にとってそれほど恐れることはないのです。

もちろん、これらの行為はたしかに悪いことではあるのですが、しかし、この人たちが国を滅ぼすとか、社会にのさばるとかいうことは、一般的にはありえません。

ですから、そのような意味でも、こういう直接的な悪人は、それほど問題にする必要はないのです。

むしろ問題は、自分は悪をしているという意識は全くなく、むしろ自分は善をなしていると思っている人がなす悪こそ、最も恐れなくてはならないのです。

親鸞聖人がことに問題にしている悪とは、まさに他人も自分も、悪を犯しているという意識のないまま、悪をしている人々の「悪」のことなのです。

「カウンセリングと仏教」(上旬) 人が超えたもの

======ご講師紹介======

友久久雄さん 龍谷大学文学部教授

☆ 演題 「カウンセリングと仏教」

昭和十七年姫路市生まれ。神戸大学医学部卒業後、同大学院医学研究科を修了。

以後、京都教育大学教授、文部省海外短期研究員、京都大学客員教授を経て、平成十三年に龍谷大学文学部教授に就任。

平成十五年から、龍谷大学院臨床心理相談室(大人と子どものこころのクリニック)室長を務めておられます。また、精神科医、臨床心理士とともに、浄土真宗本願派の僧侶でもあられます。

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龍谷大学文学部教授 友久 久雄 さん

 本当の自分を知っていくという点でカウンセリングと宗教はよく似ていますが、それではどこが違うのかと考えると、「傾聴」と「聴聞」ということなんです。

 カウンセリングでは「傾聴」と言います。

お話をしっかり聞くということで効果が上がってきます。

その聞き方はどうなのかというと、聞かれた質問で、その人が自分の方を向く質問でなければならないわけです。

「こうなの? ああなの?」ということではなしに、「どうしてそうなったのだろうか」ということを、カウンセラー側からいえば聞いていくのです。

 聞かれた側はそれを聞かれることによって、また自分が考えていくことによって、「ああそうだったんだ」と思うわけです。

だから、ある意味の「自分探し」ということですね。

ここでは自分の一生をずっと見直していくことが重要になるわけです。

 それに対して仏教、特に浄土真宗の場合では「聴聞」と言います。

「聴」というのは耳で聴く、理屈で聴く。

自分で一生懸命お話を聞いていくわけですね。

それが「聞」となってくるのはどういうことかというと、「ああそうだったんだ」と心で聞くことなんです。

これを宗教では「目覚め」と言うんです。

 カウンセリングの場合には「気づき」と言います。

これは、人が人によって気付かされるということでね。

宗教的な目覚めというのは、人が人を超えたもの、我々はそれを「阿弥陀さま」と言いますが、そのような人間を超えた智慧によって目覚めさせられる。

こういうことがあるから、我々はお釈迦さまを大切にし、親鸞聖人の体験を大切にして、その同じような体験が出来ていくわけです。

それが人間を超えた智慧に目覚めるという体験なんです。

 カウンセリングでも同じような体験があるんです。

例えば飛行機が落ちて、そのことで身内が亡くなって悲しんでいる人を見たら、かわいそうだなと自分も同じような痛みを感じますよね。

このようなことを追体験と言います。

これで聞いてもらった人は、わかってもらったというふうになるわけです。

 あるいは、自分の子どもが死んで悲しんでいる時に、その話をしたからといって、相手の人が子どもを生き返らせてくれるわけではないんです。

そんなことはわかっているわけです。

しかし、極端な言い方をすれば、同じ苦しみを味わった人に話をするとお互いがわかりあえる。

お互いが追体験しあえるんです。

別にその体験がなくても、そのようなことは出来ますよね。

自分の子どもが先に死んでなかったらわからないかといったら、そんなことはないんです。

 人が人への場合は追体験、人が仏と出遇った体験という場合は「目覚め」と言います。

これを「廻心」とか「悟り」というような表現を仏教はするんです。

だから同じことなんですけども、相手が違うわけです。

人と人とのわかりあいと、人を超えたものとの関係、これが宗教であるか、カウンセリングであるかの違いなんです。

「親鸞聖人の念仏思想」 (2)7月(後期)

 私たちは、親鸞聖人が「悪を好む」といわれるときの「悪」と、私たちが日常的に語る「悪」という言葉から連想する悪と、その内容が大きく異なっていることに注意する必要があります。

仏教では五逆罪を厳しく戒めているのですが、これは父や母を殺したり、僧侶を殺したり、あるいは人の和を破るようなことをしたり、仏法を謗るといった行為をいいます。

また十悪というのは、生きものを殺す、盗みをする・姦淫をする・嘘をいう・二枚舌をつかう・悪口をいう・おべっかをいう・貪る・怒る・邪見にふける、などの人間の最も行ってはならない十の行為をいうのです。

 普通私たちが悪を好むというときには、このような五逆や十悪を進んで行っているように考えます。

けれども、親鸞聖人が悪を好むといわれる場合の悪とは、基本的にはこのようなことではありません。

確かに、これらの事柄は悪であり、このようなことをする人たちは悪人そのものなのですが、親鸞聖人はこれらのことを意図的にする人々のことはあまり問題にしてはおられません。

端的にいうと、このような人たちは親鸞聖人が問題しておられる悪を好む人々の中心的存在ではないのです。

 では、このような人たちはどこに入るのかというと、それは倫理以前で、人間的自覚さえ未だない人というべきなのです。

もちろん、この人たちは偽の中に含まれるのですが、親鸞聖人がいま言おうとしておられる悪の次元とは、異なっていると見なければなりません。

 では、親鸞聖人が根本的に問題にしておられる「悪」とは、いったいどのようなものなのでしょうか。

また、なぜ仏教以外の教えが人を迷わせ、人に悪を勧める教えということになってしまうのでしょうか。

「笑顔でくらす、願いに生きる」(下旬) たからのいのち

高校二年生の頃、私より背の高い同級生から身長のことで「君の身長何センチや」とバカにされたことがありました。

今の私なら一言、「それがどないしてん」と言ってやるんですが、当時の私には言えませんでした。

なぜなら、私も人に同じことをしてたからです。

自分より低い人に、「まだ俺の方が勝ってるわ」と優越感を持ってました。

そんな私が自分より背が高い人にバカにされて、「人間の値打ちと身長は関係ない」などと調子のいいことは言えません。

このことから分かると思いますが、される差別をなくすには、する差別をやめてたらよかったんです。

そうすれば「関係ないやろ」と言えたんです。

差別するから差別されるんです。

じゃあ、する差別とされる差別はどう分けるか。

人からされる差別は被差別といいます。

自分が自分にする差別。

自分をおとしめることを称して劣等感、コンプレックスといいます。

じゃあ人にする差別を何というか。

私は「加差別」と言っています。

被差別をなくすためには、加差別をやめていなければならない。

人に対して不当な分け隔てをしてるかどうかを省みてください。

「自分はこうやけど、あの人はもっと悪い」と、下見て暮らせの性根で生きてませんか。

それをしてる限り、自分自身が解放されないんですよ。

下見て暮らせの性根で生きてる人というのは、真ん中をくりぬかれて芯がない缶詰のパイナップルと一緒ですよ。

自分に芯がないので、他人と見比べて「あいつよりはましだ」と優越感を持つ。

そうではなくて、自分からしたいことを見つけて、どう生きたいかをはっきりさせなあかんのです。

自分の中に芯を、「自芯」を持ちましょう。

自分の人生は自分が主役。

隣の人の人生はその人が主役と、認め合うのが基本的人権の確立です。

人生の主役は自分だと胸を張っていれば、「あれよりはまし」という優越感にしがみつきません。

それを手放せる人間になった時、世の中からあなたの分だけ加差別が減るんです。

差別をなくすというのは、他の誰でもないあなた自身が抱いている加差別心をなくすことです。

ところが、誰もが自分を当事者とは思わへんのです。

自分のことは棚に上げてしまいます。

選挙に行ってない人が投票率低いと言う時代ですよ。

そんな時代だからこそ、人権というものを考えなあかんのです。

それを学ばしてもろうて、みんなが笑顔で生きていく世の中にした方が得でしょう。

なぜならば、あなたも私も無数の確率をくぐり抜けて、みんなに願われて生まれさせてもろうた「宝のいのち」です。

多くのいのちから願われて生まれたという誇りを大事にして、今度は願いに生きませんか。

『平凡な日暮らしも当たり前ではない』

 私たちは日本人の平均寿命が世界でも上位であることを知っていますので、自分の健康に特に問題がない時は、毎日朝を迎えることについて特別な感情を抱くことはありません。

また、テレビや映画でドラマチックな人生を生きている人を見ると、そのような生き方に憧れたり、自分の人生が平凡であることにつまらなさを感じたりすることがあります。

 それは、きっと生の側から死を「曖昧なもの」として、漠然としか感じていないために、今日という一日の大切さを実感できていないからではないでしょうか。

「死の自覚が生への愛だ」と言われますが、死を他人だけのものではなく「私のこと」として自覚することが出来なければ、今日が決して平凡な一日ではないということになかなか気付き得ないものです。

 時折「死んでも死に切れない」という言葉を口にしたり、耳にしたりすることがあります。

例えば「あなたは百歳まで生きる」という保証をされていたのに、九十歳になった時に「残念ですが、あなたの命はあと一年…」とか言われたのならその言葉にも頷けますが、誰もそのような保証をしてくれる人はいませんし、またされる人もいないのです。

 むしろ「一寸先は闇」いわれるように、私の未来に待ち受けている確実な事実は「私の死」だけで、それ以外はすべて不確かに包まれています。

そうすると、私たちは常に「死に切れるような今を生きていますか」ということを問われているのではないでしょうか。

平凡に思えるこの瞬間も、「尊く大切な今」なのだといえます。