投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

「親鸞聖人の念仏思想」 (2)7月(中期)

親鸞聖人が語られる「悪」とは、どのようなことを意味しているのでしょうか。

普通、私たちが「悪を好む」などという言葉を聞きますと、いわゆる悪人というイメージがわいてきます。

盗みをするとか、人を殺すとか、嘘をつくとか、人をだますとか、そういうことをする人のことが心に浮かんできます。

仏教ではこのような悪事について、五逆とか十悪とかを定め、それらは仏教徒が絶対にしてはならない罪だと厳しく戒めています。

いうまでもなく、宗教の基本は悪を廃することであって、だいたいこのような悪を勧める宗教の教えなど、この世の中にはありえないのです。

 親鸞聖人によれば、仏教を信じていない人というのは、迷っている人々で、この人たちは悪を好んでいるといわれます。

そして、その分類によれば、この人々が「偽の教え」に属する人たちであるとされているのです。

しかし、いくら教えが偽であるからといって、いま述べたような悪いことを人々に奨励している宗教があるとは到底考えられません。

しかも親鸞聖人は、この偽の教えの中に道徳だとか倫理とかも入れておられるのですから、道徳や倫理は盗みとか、殺人とか、嘘をつくという悪事に対して、戒めることはあっても、それを勧めるというようなことは決してありえないのです。

それなのに、なぜ親鸞聖人はそのような善の道を説く教えをも含めて、これらの教えのすべてを偽であるといわれたのでしょうか。

そして、このような偽の教えにとどまっている人々を、

悪を好む人だといわれるのでしょうか。

「笑顔でくらす、願いに生きる」(中旬) 百人なら百通り

それに、この「普通」という言葉が落とし穴なんですな。

辞書で引いてみると「あまねく通じる」という意味です。

あまねくというのはすべてにということですよ。

実際すべてに通じているなんてことはありません。

外国に行ったら、髪の毛がちぢれている人間がたくさんいる国がありますよ。

そこではちぢれている方が「普通」やと思いますわ。

わかりますか。

髪の毛のちぢれ具合で人間の価値は上がりもせんし、下がりもせえへんのです。

それを自分自身がはっきりと正しく認識し、堂々と「それがどないしてん」と言えばそれでいいわけですよ。

そう言えないのは少数派やからです。

昔の先生はダメでした。

同和教育、あるいは差別をなくそうという人権運動がなかったから、そういう視点を教えてもらってなかったんです。

だから「かわいそうに、この子の髪の毛がちぢれているから悪口言われるんや。

こら、そんなこと言うたらあかん。

かわいそうやろ」と言います。

これは余計悪いですね。

「髪の毛がちぢれているから悪口言われる」と言うのは、その原因は髪の毛のちぢれ具合にあると言ってることと同じなんですよ。

違います。

髪の毛がちぢれてるのは、その人の責任でもなんでもないことです。

今の同和教育のええ先生なら、「この子の髪の毛がちぢれてんのは事実やけど、この子の責任とは関係ないやろ。

体質やろ。

君の髪の毛まっすぐやな。

けどそのために何か努力をしたのか。

関係ないやろ。

君は体質でまっすぐやし、この子も体質でちぢれてる。

それだけの話。

人間の髪の毛なんて色も形もバラバラや。

百人おったら百通りやで。

そやのに、それでいいとか悪いとかごちゃごちゃ言うのは不当な分け隔てや。

それを差別や言うて、みんなでなくそうとしてるの。

あんたも差別やめな」と言うてくれますよ。

これなら子どもでもわかります。

そんな体質などで、あなたの値打ちは決まりません。

じゃあ何で決まるのか。

同和教育、部落解放運動は、本質を「人間の値打ちは中身」とたった一言で教えてくれてますよ。

この言葉を知ってる人は多いでしょうけど、本当にそう思ってる人はどれだけいますか。

確かに今の世の中はゆがんでいます。

実際は人間の値打ちは中身だけでは判断されません。

けれど、どっちが正しいかは明らかですよ。

人権というのは、全ての人間が笑顔で生きていけるようにするために編み出された、ものの考え方やと思います。

この数年でインターネットや携帯電話の発達で、お互いのコミュニケーションの取り方は

この数年でインターネットや携帯電話の発達で、お互いのコミュニケーションの取り方は非常に便利になりました。

いつでもどこでも好きなときに誰かと連絡をとれます。

しかしながら、その一方で個々には孤独感を感じているという不思議な状況が有るようです。

 人との繋がりを求めていながら、自分の方には立ち入って欲しくない。

寂しさを抱えながらも人とのかかわりが煩わしい。

そのような意見をよく聞いたり目にしたりします。

いいことばかりを得ようとして、心には空しさを感じている。

それが今の時代なのかもしれません。

 新聞の記事に女子高生の友人関係の記事がありました。

携帯のメールには即座に返事をしないと「冷たい」と言われる。

友人間の話題に乗り遅れないようにしなければ、学校で輪に入れない。

脅迫にも似た感情の中で過ごしているという記事でした。

 自分のことを分かってもらうには、まず自分が心を開かなければなりません。

人と付き合うということは、互いに相手のためにという思いを持って接する必要があります。

これは、誰もが分かっているはずの、当たり前のことで有りながら、省みると私たちは自分ばかりが良い事を求めすぎているのではないかと思えてなりません。

『平凡な日暮らしも当たり前ではない』

私達は一日一日、同じ事の繰り返しではなく、日々違う一日を送っています。

よく「毎日、平凡で同じ事の繰り返しだよ。

」と言う人がいますが、果たして本当にそうなのでしょうか。

 毎日、学校あるいは職場に通って、勉強や仕事をするという日々の繰り返しだったとしても、振り返れば同じ事の繰り返しと思っていたものが「そうではなかった…」と感じられるのではありませんか。

 例えば毎朝、同じ道を歩いていても、気付いたら季節の草花が咲いていたり、冬の間には見なかった生き物がいたり、いつも歩く道をちょっと変えてみたら新しい発見があったり…と、違う点に気付くはずです。

 私達は、ただ何となく一日一日を「当たり前」と思って過ごしているのではないでしょうか。

だから「同じ事の繰り返し」と感じてしまうのだと思われます。

しかし、平凡な同じ事の繰り返しと思っても、角度を変えて改めて見直してみれば、それまで気付かなかったことが新たに見えてくることもあります。

つまり、私達はいろいろなことに気付かずにいるために、自分勝手に平凡だと思いこんでしまっているだけなのです。

物事は常に同じようには進まないように、人生も一定に進むということはありません。

また、人それぞれの道があるのであり、しかもその道には限りがあるのです。

 平凡と思える日暮しも決して当たり前ではなく、実は「大切な尊い一日」を生かされているのです。

「親鸞聖人の念仏思想」 (2)7月(前期)

親鸞聖人は衆生(人々)をどう考えておられたのでしょうか。

実はその分類は非常に簡単です。

衆生の全体を、迷っている者と悟っている者という二つのグループに大きく分けられるのです。

いまこの迷っている者というのは、いまだ真に仏教にかかわっていない人たちのことだと言ってもよいと思われます。

一方、悟っている者というのは、これは悟りに向かっている者も含むことが出来ると思うのですが、すでに仏教の教えの中にいる人(教えに導かれている人)のことです。

この二つのグループには根本的な相違があります。

どう違うかというと、迷っている人たちは、悪を好む人たちであり、悟っている人々は、善を好む人たちなのです。

迷いの中にいるから悪を好むのであり、また悪を好むから迷うのだといえるのですが、ここで問題になるのは親鸞聖人の語られる「悪」とは何かということです。

この「悪」の問題には、宗教についての親鸞聖人の考えが大きく関係しているといえます。

親鸞聖人は宗教、これはひろく「教え」というようにとらえることが出来るのですが、それを三つに分けられます。

その三つというのは、真と仮と偽です。

この三つの基準で世の中の教え、宗教のありかたを見ておられるのです。

真というのは阿弥陀仏の教えのことです。

仮というのは、阿弥陀仏の教え以外の仏教の教えです。

偽というのは、仏教以外の宗教の教えです。

なお、この偽の中には道徳とか、倫理なども含まれます。

「笑顔でくらす、願いに生きる」(上旬) 日本人の少数派

======ご講師紹介======

 露の新治さん(落語家)

☆ 演題 「笑顔でくらす、願いに生きる」

昭和二十六年大阪市生まれ。昭和五十年、林家染三師に入門、その後、露の五郎門下に移られました。奈良夜間中学校設立運動に関わる中で学ばれた人権感覚を生かして「新ちゃんのお笑い人権高座」を口演、全国の後援会でも新治寄席(独演会)を行われています。今年から奈良少年刑務所の篤志面接員を委嘱され、「私の人権感覚が問われます。私が学ばせていただくつもりです」と意気込みを語っておられます。

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落語家 露の新治 さん

人間の値打ちは中身ですな。

人間をまっすぐに見る眼を養うことが、自分を大事にすることにつながると思います。

年齢、出身地、国籍、皮膚の色、目の色、髪の毛の色、人種、みんなたまたまのことでございます。

それはあなたのことですが、あなたの責任ではないことです。

あなたの責任はあなたの中身であり生き方です。

人に対する態度や言葉づかい、ものの考え方、どんな仕事をするとか、どんな物言いをするとか、そういうことをあなたの責任というんです。

でもそうでないことで人からとやかく言われるいわれは一切ありません。

しかし、かくいう私もそれで人をいじめた経験が多々あります。

小学校の時クラスに髪の毛がちぢれた女の子がおりましてね。

私はその子に「おいちぢれ毛、ちぢれ毛」と言うて泣かしてました。

もちろん先生は怒りましたよ。

「ちぢれ毛言うたらあきません。

立ってなさい。

反省しなさい」と立たされました。

でも私は立たされても反省なんてせず、開き直るだけでございました。

まだ現象を現象としてしか見ていないからです。

そのちぢれた根本に何があるか。

実は何もない、単なる体質なんです。

髪の毛がちぢれたことはその人の責任とは関連がありません。

そこに人権を大事にしよう、同和地区に対する偏見や部落差別をなくそうという同和教育の意味があるんですよ。

私は同和教育の先生に教えてもらいました。

「ちぢれ毛にちぢれ毛って言うて何が悪いんですか」と聞きましたら、「あんたのその言い方が悪い。

まず、そもそもちぢれ毛をほめてないでしょ。

言葉というのは口から発した文字だけではなくて、顔の表情から表れる全体的な表現です。

ちぢれ毛は不細工、欠点だというメッセージをあなたは届けています。

ではちぢれ毛は欠点でしょうか」とその先生は言いました。

もちろん違います。

ちぢれ毛は単なる体質、あるいは身体的特徴です。

それを欠点であるかのようにおとしめたことが不当な分け隔て、すなわち差別なんですよ。

彼女はそれを受け入れる必要はなかった。

すべての差別をはね返すたった一言、「それがどないしてん」と言えばよかったんです。

どうして彼女はその簡単な一言が言えず、泣き寝入りせなあかんかったのでしょうか。

数が少なかったからですよ。

髪の毛がちぢれてるのは、黒で直毛が多い日本人の中では少数派です。

そうすると髪の毛が茶色の人やちぢれている人は、単なる多数少数とは思われへんのですわ。

直毛が普通でちぢれ毛は変というように受けとられてしまうんです。

いわゆる数の力ですな。

世の中というのは数の多い方が幅きかしまんのや。