投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

「親鸞聖人の念仏思想」 (1)6月(後期)

さて、そういう意味づけを念仏行にして親鸞聖人の著述を読むとき、はたしてそこに現当二益をもたらすような念仏の功徳が説かれているかどうか確かめると、そのようなことは一言も書かれてはいません。

したがって、もし念仏に世俗的な功徳を意味付けて聖人の著述を「現当二益の功徳を得るための書」として読もうとすると、それらの書物は全く面白くないのではなかろうかと思われます。

このことは、私たちが親鸞聖人に期待していることと、親鸞聖人が私たちに語りかけようとしておられることが、大きくずれていることの何よりの証拠だといえます。

 このことから、親鸞聖人の念仏の立場には、私たちが日頃念仏行に期待している世俗的な意味での現当二益といった考えは全くないということが明らかになります。

むしろ念仏行にそういうことを求めることを強く否定しておられるのです。

親鸞聖人が厳しく否定しておられるこの点を、もし私たちが肯定的に、一心に聞こうとしているのであれば、親鸞聖人の教えの根本がまったくわからないのは当然のことだといわなくてはなりません。

 それでは、なぜ親鸞聖人はこのような現当二益の求めを根本的に否定されたのでしょうか。

それが次の問題になります。

裕福な生活を送りたい、病気にかからず明るく楽しい団欒をもちたい、いつまでも家族全体が幸福でいたい、このような願いを抱くことは、人間として当然のことですし、誰もがこのような世俗の幸福を願って頑張って生きているのだといえます。

しかし、そのような願いを宗教の場に持ち込むのは間違いだと親鸞聖人は述べられます。

それはなぜでしょうか。

いったい親鸞聖人は人間とか、人間の世界をどのように見ておられたのでしょうか。

「念仏が育てる心」〜金子みすゞの世界〜(下旬) やさしさの原点

浄土真宗教学伝道研究センター所長 上山大峻 さん

 なぜイワシのいのちも私のいのちと同じなのか。

お経にこういう話が出てきます。

 昔々、インドのコーサラ国にハシノク王とその妃マツリカがおられた。

その国はよく治まり、農作物もよくでき、人民も平和に過ごしていました。

ある時、王さまがふと妃に「お前は世の中で何が一番いとおしいか」と尋ねられました。

王妃はしばらく考えておられましたが「大王世、自分が一番いとおしゅうございます」と答えた。

そして「そう尋ねられる王さまは、誰が一番いとおしいと思われますか」と尋ね返しますと、王も「自分が一番いとおしい」と言われたのです。

けれどもそれでいいのろだろうか。

どうも間違っているような気がして、二人は平素から親しくしておられたお釈迦さまのとろこへ出かけられ、二人で話したことについて尋ねられました。

すると、お釈迦さまは「その通りである。

生命あるもの全て、自分が一番いとおしい。

だから人もまた自分と同じように自分を一番いとおしいと思っていることに気付かなければならない」とおっしゃったのです。

これは『阿含経』というお経に出てくる短いお話ですが、私はこのお話こそ、仏教の核心だと思うのです。

 以前「人をなぜ殺してはいけないのか」と子どもたちが素朴な疑問を出して大問題になりましたが、実は仏教ではここに人を殺していけない、殺させてはいけないという理由が語られているのです。

私たちはいつも自分が得をするように、私だけは生き延びるように私を一番大事にしていますが、人もそうなのです。

それに気付かせるのが仏さまの教えなのです。

 私と同じように、自分を大事にしている人の生命を奪ったり、悲しませたりする権利は誰にもありません。

「私が一番大事」、そのことは自己中心の煩悩でしょう。

お釈迦さまの教えは、自分に向いている煩悩を他の人に向くように方向転換をさせたのです。

これが仏教なんですね。

 仏さまの教えによって、自分だけよければよいという考え方が変わって、人の痛みが自分の痛みとなり、人の喜びが私の喜びとなるような心になってくるのです。

みすゞさんの「やさしさ」は、そこに原点があるのです。

『人生 邂逅(めぐりあい)の不思議』

あなたは「しあわせ」という言葉をイメージした時にどの漢字を思い浮かべるでしょう。

おそらくは「幸」という字が浮かんだことだと思います。

しかし、辞書を引いてみると、「仕合せ」という漢字が元の表記だと載っていました。

その「仕合わせ」という言葉の一番目の意味は、「めぐりあわせ。

機会。

」とのこと。

ふと、以前お説教の中で「しあわせな人生というのはめぐり合わせを喜べる人生」と話されていた事を思いだしました。

少し前まで、「幸せ」ではなく「仕合せ」と書くのが普通だったそうです。

今使われる「幸」という漢字が示すのは、しあわせの他に「海の幸・山の幸」に現れるような収穫物、それから難を逃れるという意味等があるようです。

私達が願う「しあわせ」は一体どちらなのでしょう。

私達の人生には山あり谷あり、お釈迦様が仰るように、思うようにならないのが人生です。

さすれば「幸」のしあわせよりも「仕合せ」が示すめぐり合わせを喜べる人生が、その時の状況や私の状態によって変わることの無い、シアワセなのではないでしょうか。

邂逅(めぐりあわせ)の不思議。

その不思議を喜べる人生を歩んで行きたいものです。

「今をいかに生きるか」(2)5月(中期)

 では、幸福な人生に関してはどうでしょうか。

もし人の終焉が全て惨めだとすれば、だれもが最後には死を迎えるのですから、人間はどのような満ち足りた人生を過ごしたとしても最終的には不幸になる以外はないといわなくてはなりません。

けれども、たとえどのような不幸が訪れたとしても、浄土真宗の教えの特色は、その心に無限の喜びが見いだされているということに尽きます。

 ここで、現代人の臨終の姿を考えてみることにします。

現代は日進月歩といった感じで医学が発達していますから、かつては「死の病」と恐れられたような病気であっても治癒出来るようになったり、延命することも出来るようになってきました。

けれども、どれほど命が延びたとしても、やはりそれには限度がありますし、必ず「臨終」はきます。

ではその時、人はどのような心になるのでしょうか。

科学の発達によって、私たちは人類の歴史において、今までにない生の楽しみを味わっています。

また、生きるための楽しみを人はどのようにして得ることが出来るか、これに対する答えはそれこそ山のようにあると思われます。

老いても楽しく、病んでも楽しく、さらに死も心配せず楽しく迎えられるように…、そのようなことを説く教えは世間には山積みされているといった感があります。

けれども実際問題として、老・病・死は若くて健康で長生きしたいと願う人にとって、やはり苦しいことだといわねばなりません。

 そのような意味で、現代人の一つの悲劇が臨終に見られることになります。

もちろん、これまでも、その人にとっての最大の悲劇は臨終にあったのですが、現代ではそれがさらに倍加されているといえます。

なぜなら、現代人の生活から大半の苦痛は取り除かれていますので、結果的には楽しみの頂点でこの悲劇に出会うことになるからです。

今の世の中には楽しみが満ちあふれ、死はいつでも他人事であるが故に、心にはこの悲劇を受け入れる用意が出来ていません。

それ故に、死を自らのこととして意識せざるを得なくなった時に、苦悩と恐怖に同時に激しく襲われることになります。

そこで、現代の医療の場では、患者が臨終を迎えた時に、動転するその心をいかに和らげるかが大きな課題となり、ホスピスとかビハーラ等、終末医療といわれる活動が行われるようになってきたのです。

そこではいま多くの人々が、懸命になって亡くなっていく人の心を支える、そのような治療法への取り組みが真摯になされています。

「念仏が育てる心」〜金子みすゞの世界〜(中旬) 父親の前で報告

浄土真宗教学伝道研究センター所長 上山大峻 さん

 『金子みすゞ全集を』をずっと繰ってみますと、やさしく自然を詠った詩に多く出会います。

例えば「つゆ」という詩があります。

誰にもいわずにおきましょう

朝のお庭の隅っこで

花がほろりと泣いたこと

もしも噂が広がって

蜂のお耳へはいったら

悪いことでもしたように

蜜を返しに行くでしょう

 なんと優しいことでしょうか。

動物にも花にも同じ視線がそそがれています。

この心は、すべてを平等に見る仏さまの心からしか出てこない。

あるいは菩薩さまといっていいかもしれない。

そんなにみずゞさんは仏教について難しいことを知っていたわけではないでしょう。

しかし、小さい時から称えていたお念仏が仏さまの心を育てているのですね。

蓮如上人は「それ、南無阿弥陀仏と申す文字は、その数わずかに六字なれば、さのみ功能のあるべきともおぼえざるに、その六字の名香のうちには無上甚深の功徳利益の広大なること、さらにそのきはまりなきものなり」と言っておられるように、お念仏には仏さまのお心がこめられているのです。

だからお念仏を申すと、私の心が仏さまの心になるのです。

 お念仏を称えるものがみんな仏さまの心になるのは、浄土真宗だけです。

他の教えでは、自分で努力して仏さまの心になっていかなければならないのですが、浄土真宗は仏さまの方から、私の方にそのお心をくださるのです。

だから、みすゞさんも仏さまの心で詩が詠めたのですね。

 二○○三年がみすゞさんの生誕百年でした。

もう、みすゞさんを知っている同年代の人がおられなくなってしまいます。

数年前なくなられましたが、私の知っている大野キクさんが言っておられました。

みすゞさんはかわいらしいきりっとした子で、成績が良くてときどき文章なども発表しておられたということです。

その方は仙崎の出身ですが、生家の横山家では、お寺でお説教があると子どもたちも必ずお参りをしなければならない。

そして、帰ってきたら、今日はどんな話だったかを父親の前で報告しなければならなかったそうです。

 みすゞさんも、そうして仏さまの教えを聞いていたのでしょう。

しかし、決して難しい仏教の教えを勉強していたわけではないと思います。

それなのに、仏さまの心で詠める、それはお念仏の力だなぁと思います。

お念仏申すところに仏さまのお心が伝わる。

その証拠をみすゞさんが示してくれている気がします。

浄土真宗の一番大事なところをみすゞさんが身をもって示してくださっているのです。

平成12年に始まった介護保険法は、サービスの質や利用者の安定が図られてきた平成1

平成12年に始まった介護保険法は、サービスの質や利用者の安定が図られてきた平成15年に保険料の改定が行われ、利用者や事業所に多くの混乱を招きました。

また、昨年度は初めての介護法改正が行われ、10月からは前倒しで食費や居住費の自己負担が始まりました。

今年度の4月からは、介護予防サービスや地域密着型サービス、地域包括支援センター等の新サービスが掲げられ、予防重視と地域密着を謳った介護サービスがスタートしました。

個人情報保護法の制定にともない、個人のプライバシーを尊重することも重視され、ほとんどのサービスの契約を行う際は、書類に個人情報保護法遵守する旨の事柄が明記されています。

 サービスの質の向上の点から、大規模デイサービスの保険請求の減額やケアマネージャーの作るケアプランも40人以下の人数制限がしかれ、それ以上のプラン作成には減額請求が適用されています。

なお、施設に於いても個室ユニット型のサービス請求額が高く設定されています。

 「新サービス」や「質の向上」といえば、聞こえはよいのですが、実際には利用者の自己負担額は万円単位で上がり、その一方事業所の利用料収入は一千万円前後の減収という、またもや利用者・事業所双方が驚くような結果となりました。

そればかりか、サービスを受けたくても受けられない人たちまで出て来るようになりました。

 サービスを受けるには、ケアプランが必要になってきますが、軽介護者は作ってもらえません。

事業所維持のため、高介護者のケアプラン作成を事業所が優先せざるを得ないからです。

介護サービスについて、現場の状況を十分に把握することなく、机の上で作成したとしか思えない厚生労働省のツケが、利用者にそのしわよせを押しつけるようになってきまた昨今です。