投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

「教育と宗教」ただびとではない

武蔵野女子学院学院長 田中教照 さん

 

親鸞聖人とその妻の恵信尼様はお互いに相手のことを観音様の生まれ変わりとしてお慕いになりました。それは親鸞聖人がすばらしい人だったからではありません。親鸞聖人はご自身のことを「愚かなヤツだ」と、悲しい愚禿親鸞だと名乗っておられます。

何が悲しいかというと、

「愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑」

している悲しい自分であるとおっしゃっているのです。

もしかしたら、女房を泣かせたことも一回や二回ではないかもしれません。

だけども恵信尼様はお子様へのお手紙の中にて「ただびとではなかった」と書いておられます。

また親鸞聖人も結婚にお悩みになったときに、百日間通われた六角堂で、あなたには観音菩薩が女性の姿となって一生付き添うことになるでしょうと、聖徳太子のお告げをいただいたと伝えられています。

それでお互いに相手を観音様の生まれ変わりだとお敬いになったということです。

しかしこれは並はずれて私たちより立派だったからというわけではありません。

私たちと同じように欠点も多かったんだと思います。私たちとはどこが違ったか。

それは、自分のためにあの人には苦労をかけているな。

自分が至らないために心痛をかけているな。

その至らない所をカバーしてもらっているなと自分を相手より下の方につけて、相手を見上げたということです。

そうすると、自分ごときを支えてくださる有り難い人、心の広い人だとなりまして、まるで観音様のようだとなるんです。

自分が相手に「してやった」と思うか「してもらった」と思うかによって、相手はろくでなしにもなるし観音様にもなるのであって、相手がどうこうではないのです。

私と相手の立ち位置によってそれは変わってくるということなんです。

すべては自分自身をどう思うかから始まっているのですから、私自身がどうなのかという見極めが大切なのです。

そこを親鸞聖人は、阿弥陀様の智慧の眼に照らされてみると、自分は煩悩が一生涯なくならない恥ずかしい凡夫である。

しかしその愚かな私ごときを、女房をはじめ、我が子も含めてみんなが許してくれて今の自分があるのだと、私たちに伝えてくださっているのでございます。

『耳を澄まし 心の眼を開く』

 お経に「心塞意閉」という言葉があります。

「心をふさぎ、思いを閉じる」ということです。

考えてみますと、人間はどのような苦しみに会っても、そこに語るべき友だちを持っている間は、自身に絶望することはありません。

ですから、たとえどんなに苦しい問題にぶつかっていても、それを共に語り合う友だちがいて、共に語り合う世界を持っている人は、何度でも立ち上がっていけるものです。

 けれども『誰に言ってもどうにもならない…』と、自分の思いに閉じこもったとき、人は絶望してしまうのです。

それがたとえどんなに苦しい事実であっても、その事実によって人は絶望することはありません。

その事実を受け止める「思い」によって絶望するのです。

そのために、心を閉じ思いを閉じたときに、人は救いようのない、言いようのない在り方に落ち込んでいくのです。

 これに対して、仏さまの世界を表す表現に「心得開明」という言葉があります。

また「耳目開明」という言葉もあります。

耳が開けるということは、言葉が通じるということです。

言葉が通じるということは、心が通い合うということです。

また、目が開けるということは、事実のありのままが見えるということです。

それは、苦しみにおいて自らの事実を受け止め、楽しみにおいて人と共に出会っていける世界が開かれて行くということです。

私たちが「仏さまの世界を心のよりどころとして生きていく」ということは、苦しみにおいて常に自らの事実を明らかに受け止め、楽しみにおいて常に人びと出会い心を通い合わせるという生き方が私たちの上に開かれてくるのだと言えます。

「親鸞聖人の念仏思想」 (5)10月(中期)

 このような実践を頭に描いて、ここで今一度、「私にとって念仏とは何か」ということを問うとみたいと思います。

親鸞聖人が念仏を通して、真実の仏教の行、ということを考えておられるのだとしますと、念仏者であるということは、無常に即した真実の智慧に生きる自分になること、そして真実の慈悲の実践をなす自分になることが、念仏の行為の中から出てこないとならないのです。

ところで、実際的に私たちが念仏とかかわっている時、念仏という行為を通して何を期待しているかを考えてみればよいのです。

そこに見られる自分は、やはり安らかに日常が送れますように、というようなことを願っている自分ではないでしょうか。

「念仏を称えているお陰で、このような平穏に生活が出来ます」とか、「やすらかな思いで日暮らしをさせていただいています」といった言葉を、よく御門徒の方などから聞かされます。

このような心は、念仏を通して現在の自分の幸せを願うと同時に、やがてお浄土へ生まれさせていただいて、永遠の幸福にあずかることを願っている心だということになります。

先に、仏教は「無常・無我・涅槃」という三つの旗印をもつと述べました。

それは、端的にはこのような教えが仏教で、またこの教えがなければ仏教ではないということです。

そうしますと、世俗的な意味で、自分の我を中心とした欲望を満たす教え、欲望に満ちた幸福が永遠に続くということ、欲望の充足こそが安らぎだという思い、このようなことを説く教えは、すべて仏教ではないということになります。

ところが、私たちが念仏に期待する心を開いてみますと、自分自身の身勝手な願いを、念仏を通して仏さまにお願いしていることになってはいないでしょうか。

「教育と宗教」親とは思わない

武蔵野女子学院学院長 田中教照 さん

 

もちろん学校にもいろんな悪い所はあるでしょうけども、子どもを入れたからには、あの学校はいい。

あの先生はすばらしいと言いたいものです。

逆に子どもの方からあの先生はあまりよくないと言ってくるなら、その悪い部分をお前がカバーしていくんだよと諭した方がはるかにすばらしいと思います。 

 

私にそのことを教えてくれたのは私の友人でした。

当時私は理系の道に進もうと思っていました。

ところが物理の授業が問題でした。というのも、その先生の授業は浪花節みたいで何を言っているのか全然理解できなかったからです。

それで物理ができなくて、理系から文系に転向したんです。

 その後、大学に入ってから友人に

「あの先生の授業はひどくて全然わからなかったな」

と話しましたら、彼に

「僕はあの先生に頼ってたら物理はうまくならないと思ったから、自分で勉強したよ」

と言われました。

それはその通りですよね。

先生が悪いからといくら文句を言っても自分が偉くなれるわけじゃない。

先生がダメだったら自分が勉強する気になればいいという話ですよ。

こいつにはかなわないと思いましたね。

 人間がやることなんですから、教育には完ぺきなんてありません。

ならば、その不完全さをどう受けとめて、どう乗り越えるかということも自分の力を伸ばすきっかけになるわけです。

 いい先生について伸ばしてもらうのも一つの生き方なんですけれども、先生に頼ってはいられないと、自立を促してくれるような先生も教育になってるんですよ。

だからいい先生だけがいい教育をするとは必ずしも言えないわけです。

要は、お互いにいいところを認め合いながら、悪いところをカバーしていくということが大事なんです。

ですから学校の先生は家庭のことを、ああだこうだと絶対言っちゃいけない。

生徒から親のことで相談されたら、ご両親はあなたのことをちゃんと考えて話し合ってるよと言ってあげることで、気持ちが親の方に向くんですよね。

それを自分の親はひどいと子どもが言うのに対して、先生もそんな親はけしからんなんて言ってしまったら、親子の関係を余計悪くすることにもなりかねません。

お互いに相手を立てるということが大事なんじゃないでしょうか。

それは夫婦でも同じことです。

夫婦で互いに非難しているのだとしたら、そうではなくてお互いに

「今の私があるのはあなたのおかげ」

と言えれば、例えお世辞であっても子どもは悪い気はしません。

それを子どもの前で、親が目くじらを立ててケンカしていては喜ぶ子どもは一人もいませんよ。

ですから私は父母の会で、子どもの前では絶対夫婦げんかはやめてほしい。

せめて隣の部屋に行ってやってください。

声は聞こえても、冷たい目で相手をにらみつけている顔を子どもに見せないようにと言っています。

子どもがそんな顔を見たら親とは思わないでしょうからね。

場所をわきまえて、節度を持ってください。

そしてやっぱり相手を立てるということを大事にしてください。

「有也無也(うやむや)」

大昔、インドで死後の世界は「有也(あるか)、無也(ないか)」という議論が行われていました。

当然このような議論はあいまいな結果にしか終わりません。

要するに最初から不毛の行為なのです。

ここから転じて、この言葉は「あるかないかをはっきりさせない、いい加減な態度や状態」を表すようになったそうです。

なお『正信偈』には「南天竺に龍樹大士世に出でて ことごとくよく有無の見を摧破し 大乗無上の法を宣説し…」と、龍樹菩薩が、死んだら霊魂が残るとする有の見、死んだら何もなくなるとする無の見を、正しい仏法(因縁所生の法)を説いてことごとく打ち破られたと讃嘆してあります。

秋のお彼岸も終わり、朝夕がだいぶ涼しく感じられるようになってきました。

秋のお彼岸も終わり、朝夕がだいぶ涼しく感じられるようになってきました。

数年前に飲酒運転による罰金を重くしたことによって飲酒運転が抑止されていた感があったのですが、最近、テレビ・新聞等では、飲酒運転による甚大な事故の様子を多く取り上げています。

先日、テレビを見ていると、自らが引き起こした飲酒運転によって相手に大怪我を負わせてしまった方がインタビューに答え、相手の人生を一転させてしまったことを深く反省し、そして今も罪の意識に苛まれていること等を話されていました。

そのコメントの中で私自身がハッとさせられ、一番印象に残っているのは、その方が「それまで私は飲酒運転による事故は、他人事で自分とは全く関係はないことだと思っていました。

自分だけは大丈夫だろうと思っていました」と話されていたことです。

事故を起こしたくて起こす人など誰もいません。

被害者も加害者もそしてその家族もそのことによって人生が狂わされる飲酒運転による事故を防ぐためにも、飲酒運転をしない・そしてさせない環境づくりも必要になってくることかと思います。

事故を起こして気づくのではなく、起こす前に、飲酒による事故を未然に防ぎたいものです。

何の罪もない一人ひとりの尊いいのちが、ちょっとしか飲んでいないから・自分自身にかぎってという思いによって起こらないことを願うばかりです。