投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

食事とは いのちをいただくこと

 「私は こんにちまで 海の 大地の 無数の生きものを 食べてきた 私の つみのふかさは底しれず」 この詩にある通り、私たちの日々の生活に欠くことの出来ない食事は、他の生きものの「いのちを頂くこと」をその内実として成り立っています。

 そのような意味で、食事とは海や大地の無数の生きものの「生きているいのち」を殺して、それを食べて私のいのちにかえることだとも言えます。

たとえ直接自らの手を下してはいないとしても、他の「いのち」を私の血となし肉となして生きているのは確かな事実です。

 もちろん、他の「いのち」を奪い、自らの「いのち」として生きているのは何も人間だけに限ったことではありません。

けれども、人間が他の生きものと決定的に違うのは、人間だけが「殺す」ということを知っていると同時に、「殺す」という意識を持ってしかも殺しているという点です。

 人間が本当に人間らしく生きるということは、この「殺す」ということにどれだけの感情を持つことができるかどうかが極めて重要なことであるように思われます。

他の生きものの「いのち」は果たして「人間が食べるため」にあるのでしょうか? それが「いのち」であることを思う時、心をこめた「頂きます」の言える私でありたいものです。

親鸞聖人の生涯

浄土真宗は、親鸞聖人によって顕かにされたみ教えです。親鸞聖人は、ご自分のことについては殆ど記してはおられないのですが、今日伝えられているご生涯は以下の通りです。

聖人は 承安3年(1173)に京都の南、日野の里で誕生されました。父は日野有範、母は詳しくは分かっていませんが吉光女と伝えられています。治承5年(1181)9歳の春、伯父の範綱に伴われ、京都三条白川にある慈円の坊舎において得度し、範宴と名のられました。出家すると比叡山に登り、以後20年にわたって天台宗の学問と修行を中心に修学されました。聖人は横川の首楞厳院の堂僧として修行に励まれました。堂僧とは常行三昧堂で不断念仏を修する僧のことをいいます。

聖人は20年にわたる修学にかかわらず、自力聖道門では生死の問題を解決することが出来ず、迷いはいよいよ深まるばかりでした。そのような中、建仁元年(1201)29歳の時、比叡山を下りて聖徳太子の創建された六角堂(頂法寺)に参籠されました。聖人は太子を「和国の教主(日本のお釈迦様)」と位置づけて深く尊敬しておられましたので、今後の自らの進むべき道を尋ねられたのです。

参籠してから95日目の暁、聖徳太子の夢告を受けられました。「廟窟偈」とも「行者宿報偈」ともいわれる夢告に促されて、東山吉水で専修念仏の教えを説いておられた法然上人のもとを訪ね、その門弟になられましたるその時の様子について「恵信尼文書」は『六角堂に参籠されたときと同じように、どんな天気であっても、どんなことがあっても、ひたすら「生死出づべき道」を求めて通い続けられた』と伝えています。

法然門下に入られた聖人は、元久2年(1205)4月14日、法然上人の主著である『選択本願念仏集(選択集)』の書写と、法然上人の真影を図画することを許されています。その際に、法然上人は自ら筆をとって「選択本願念仏集」の内題の字に「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」の字と、当時聖人が名のっておられた「釈綽空」の名を書いて与えられました。同年7月には、法然上人の真影に讃銘と夢告によって改名された善信の名を書いて頂いておられます。

承元元年(建永2年・1207)念仏弾圧によって、専修念仏は停止され、門弟4名が死罪。法然上人、親鸞聖人等の8名が流罪になりました。このとき聖人は越後(現在の新潟県)に流されたのですが、自らを権力によって位置づけられた僧ではなく、また俗でもないとして、末法の世における新たしい仏教者の名のりとし「非僧非俗」の立場を明らかにされました。なお妻の恵信尼さまは越後の豪族、三善為教の娘といわれています。流罪は建暦元年(1211)に解かれていますが、すぐに京都にはお帰りになられず、健保2年(1214)妻子と共に常陸(現在の茨城県)に移住され、関東で約20年に及び伝道生活を送られました。やがて62、3歳の頃に京都にお帰りになられましたが、その理由についてはよくわかっていません。

京都に帰られた聖人は、主著である『顕浄土真実教行証文類(教行信証)』を加筆訂正されたり、『浄土和讃』『高僧和讃』の執筆や関東に残された門弟の質問に書簡で答えたりしておられました。なお聖人の撰術にはこの他に『浄土文類聚鈔』『愚禿鈔』『入出二門偈』『正像末和讃』『三経往生分類』『尊号真像銘文』『一念多念証文』『唯信鈔文意』などがありますが、その多くは80歳を過ぎてから著されたものです。

建長初年(1249)頃から、関東の門弟間で念仏理解についての混乱が生じ、その解決を図るために、聖人は息子の慈信房善鸞を名代として関東へ派遣されました。ところが善鸞は混乱に巻き込まれてしまい、聖人の説くところと違った教えを説いて、いよいよその混乱に拍車をかける結果をもたらしてしまいました。それをお知りになった聖人は、建長8年(1256)84歳の時、深い悲しみの中で善鸞を義絶し親子の縁を絶ってしまわれました。

弘長2年(1262)11月28日(新暦では1月16日)波乱にとんだご生涯ではありましたが、弟尋有の坊舎で末娘の覚信尼さまに見守られながら90歳でご往生されました。

食事とは いのちをいただくこと

 ある幼稚園で、子ども達に魚を描かせたら、皿の中に魚の切り身を描いた子がいたという話があります。

最近は、加工済みでトレーに入っている姿でしか目にしないので、加工前の姿や形がわからない食べ物が多くなってきました。

そのような意味で、食物のいのちが見えない時代なのかもしれません。

 私達は、食卓にあがるものが「いのち」であることをしばしば忘れがちです。

魚や肉はもちろんのこと、お米や野菜もそうです。

いわば、口に入るもの全てが、それぞれに「いのち」が姿を変えたものだと言えます。

まさに私達は毎日、数多くの「いのち」を頂きながら生きているのです。

 今日、日本は飽食の時代といわれます。

そのため、いま子ども達に「もったいない」という言葉の概念を教えることは大変難しい時代だといえます。

「勿体ない」という言葉、元来は感謝の言葉です。

それは「無駄にしてはいけない」という意味と共に「こんな私のために、有り難う」という意味が込められた言葉です。

 仏教は全ての生きものが同じように尊い「いのち」を持っていることを教えます。

その「いのち」を頂いて生きているのが、私たち人間です。

私たちの「いのち」を支えてくる無数の「いのち」に感謝の気持ちを忘れないためにも、食前の「頂きます」、食後の「ごちそうさま」という言葉を心掛けたいものです。

念仏と信心

信心と念仏の関係

「真実の信心は、必ず名号を具す。名号は必ずしも願力の信心を具せざるなり」

ここでは、真実の信心をいただいた者が、念仏とどういう関係を持つかという問題に絞って考えてみたいと思います。これは真宗の教学にとって、昔から非常に大きな問題になっているところです。なぜなら念仏と信心が、どう関係し合うかということは、親鸞聖人(以下、宗祖)の教義の根本問題だからです。ところが、宗祖の思想を学んでいく上で、この点が最もわかりにくい点でもあるのです。そこで「歎異抄」に重ねて、しばらくこの点を掘り下げていくことにします。

「弥陀の誓願不思議にたすけられまひらせて往生をばとぐるなりと信じて、念仏まふさんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし」

「歎異抄」の第一条冒頭の文ですが、ここには「ただ信心を要とす」という言葉が出てきます。この表現からもわかりますように、ここでは信心が非常に重要視されています。「弥陀の誓願不思議にたすけられまひらせて往生をばとぐるなりと信じて、念仏まふさんとおもひたつこころのおこるとき」ですから、この念仏の行者は、いまだ念仏は口から出ていません。信じて、念仏を称えようと思う、その時にはもうすでに摂取不捨の利益にあずかっているのです。

ですから、この場合は、ただ信心のみが要とされているのです。つまり、この中では念仏は求められていないのです。ところがこれに対して、同じ「歎異抄」の第二条には

「ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべし」

という言葉が出てきます。今度は「ただ念仏して」ということで、信心という言葉は出てきません。ここに往因に関して、「ただ信心」と「ただ念仏」という、二種の「ただ」という言葉が出てきます。ところでこの「ただ」とい言葉ですが、「これのみ」という意味で、そこに他のものを加えることを嫌う言葉です。そのもののみ、ただ一つということです。したがって、ただ信心という時には、信心だけであって、その他は除外されます。同じく、ただ念仏という場合には、念仏だけであって、その他は除外されます。宗祖の思想で着目すべきは、往生するための要因として、衆生に「ただ信心と念仏」を必要とするとは言われていないことです。ただ一心に信じ念仏してとも、ただ一心に念仏し信を得よともいわれません。宗祖の著述を繙いてみますと、「ただ」という言葉が付される場合は、「ただ信心と念仏」が必要だという表現はみられません。

一方ではただ信心と述べられ、他方ではただ念仏と説いておられます。そうしますと、もしどちらか一つを取ると、もう一方はいらないということになってしまいます。ところが宗祖の思想においては、この信心と念仏が離れては浄土の教えはあり得ないとされます。往生のためには、ただ信心が必要、あるいはただ念仏が必要といわれながら、しかもこの両者が同一の場で同時に成り立っていなければならないという訳です。ただ信心と、ただ念仏。これは一体何を意味しているのでしょうか。また果たしてそのようなことが矛盾しないで成り立つのでしょうか。これは非常に難しい問題であるといわざるを得ません。

さて「教行信証」「信巻」の字訓釈に

「涅槃の真因はただ信心を以てす」

という言葉があります。涅槃に至る真実の因は、ただ信心のみだということです。それ故、この真理は動かし得ません。そのような意味からすると、浄土真宗の教えは信心が中心になってきます。先に見ました「歎異抄」の第一条の言葉とも合致しています。しかし、そうするとここで私たちにとって「念仏とは一体何か」ということになります。もし涅槃の真因を信心だと定めますと、それは一方では涅槃の真因は念仏ではないというのと同じことになります。そこで、「涅槃の真因は信心である。その信心は如来さまから頂いたのだから、その有り難さを喜んで、ご恩報謝の気持ちで、有り難い有り難いと称えることが念仏の意味だと」解釈するのです。

これが普通一般にいわれている「信心が正因であって、念仏が報恩である」という意味です。本願を信じ、有り難いという気持ちになれば、自ずと念仏は出てくるというです。如来さまから名号を頂くのですから、それが口から念仏として出るのは当然だと見て「信心を得て報恩の念仏を称えよ」というのが、今日の真宗の念仏の解釈になっているように思われます。

しかしながら、このような捉え方をしてしまいますと、二つの大きな問題が生じます。一つは「信巻」の

「真実の信心は、必ず名号を具す。名号は必ずしも願力の信心を具せざるなり」

という言葉の解釈が成り立たないということです。「真実の信心は、必ず名号を具す」という文には、信じたならば必ず名号が出てくるとは表現されていないからです。この「真実信心は、必ず名号を具す」は、信じた者の心にはすでに名号が具されているという意味です。もちろん信じれば必ず名号は出るのですが、この文意は名号が信じた者の心に具せられているということを述べています。「真実の信心は必ず名号を具す」のですから、もう具しているのです。

けれども「名号は必ずしも願力の信心を具せざるなり」ですから、名号には必ずしも願力の信心は具せられていないと解釈しなければなりません。そうしますと、信心が正因で、獲信すれば必ず報恩の念仏が出るという教えと、この文の構造は異なっているということになります。少なくともここでは、信心が往生の真因であり、念仏は報恩の行だとは説かれてはいません。

いま一つは、有り難いという心の問題です。私たちは本来的にこの娑婆国土にしがみついているのですから、本当の意味で浄土に生まれることを喜ぶ心などありません。そのような私たちの心が「歎異抄」の第九条に端的に説かれています。念仏を称えても少しも喜びは湧いてこないし、浄土に生まれたいという心も少しもおこらないのです。実際問題として、ここに信心を得て喜んでいる人がいたとします。この人がもし、宝くじで一億円を当てたとすると、それこそ飛び上がって喜ぶのではなかろうと思われます。

人間というのは、説教を聞いて喜ぶよりも、何か本当に欲しいものをもらった方がよほど嬉しいのです。私たちにとっては、いかに信心の功徳は無限だといわれても、それを実感することは出来ません。目に見えない利益よりも、お金のようにはっきりとした欲望を満たしてくれるものをの手にする方が嬉しいのです。その意味では、日常生活の中で、信心を得たという喜びは湧いてきません。そのような人間に、報恩の念仏など称えられるはずなどないのです。このような点から見ても、名号と信心の関係は、単純に信心が正因であって、念仏が報恩だとはいえなくなります。

さて、私たちはこのように普通は信心と念仏を二つの要素に分けて捉えています。けれども、もし信心と念仏を二つに分けてしまいますと、宗祖が意味される「ただ」という言葉は、どうしても解釈することが出来なくなります。「ただ」といわれている以上は、一つにならなければならないのです。そこでこの「真実の信心は、必ず名号を具す」と、「歎異抄」の「弥陀の誓願不思議にたすけられまひらせて往生をばとぐるなりと信じて」の文を重ねて、今少しこの問題を掘り下げてみます。重要なことは、「名号を具す」という時の名号は、一体何を意味しているかということです。それこそが「歎異抄」の阿弥陀仏の誓願不思議に助けられるという、本願の真実がわかることなのです。

念仏の真実性とは、「南無阿弥陀仏」という言葉を、ただ単に意味もなく称えるという衆生の行為性を意味しているのではありません。名号とは、何も南無阿弥陀仏という単語を意味しているのではないのです。この言葉は阿弥陀仏の本願、阿弥陀仏の大悲心のはたらきの全体、いわば阿弥陀仏そのものなのです。この南無阿弥陀仏の真実を「大無量寿経」に説かれたことが、釈尊の出世本懐であり、七高僧もまたその教えを承けて、名号を通して一切の衆生を救うという、阿弥陀仏の本願を賛嘆してしておられるのです。ここに念仏の本来のすがたが見られます。

そうしますと「弥陀の誓願不思議にたすけられまひらせて」とは、本願が信じられたということですが、それは同時に名号の真実が本当の意味でわかったということでもあるのです。それが信じた意味なのですから、信じるということは、まさに名号を具していなければなせないのです。名号の真実が明らかにならなければ、信心は起こり得ないからです。浄土真宗の信心は、目に見えない本願をわからないまま信じているというのではありません。名号の意味が完全にわかった、それが信じたということです。

だからこそ「真実の信心は必ず名号を具す」といわれるのです。そうしますと、この「真実の信心」は衆生の心、獲信を意味していることになります。とすれば、次の「名号は必ずしも願力の信心を具せざるなり」も同じく衆生の心が問題にされているこになります。では「願力の信心を具せざるなり」とはどのようなことでしょうか。衆生がいかに名号を一心に称えたとしても、その名号が阿弥陀仏の本願の真実信心より来っていることを知ることが出来ないのであれば、その念仏にはいまだ願力の信心が具せられていないのと同じことになります。それ故に「名号には必ずしも」といわれるのです。

そうしますと「ただ念仏」とは、本願の声として弥陀が私たちに、「汝を救う」と喚んでいる言葉になります。その「汝を救う」という弥陀の言葉を私が信じるのです。阿弥陀仏は一体誰を救おうとしておられるのでしょうか。「念仏せよ、汝を救う」というのですから、この本願を信じている人を救うのです。では、なぜ念仏せよといわれのでしょうか。それは、その念仏の中に、衆生を救う如来の大悲の功徳のすべてがあるからです。それ故に、「念仏せよ、汝を救う」と勅命されるのです。

では、この本願の真実が、もし本当に信じられたらどうなるのでしょうか。この人の人生のすべては、ただ念仏のみということになるのではないでしょうか。「念仏せよ、汝を救う」という言葉を信じれば、念仏することのみになるからです。それが信じているということです。信心に関して、「信心がすべてであれば、信じた上になぜ念仏が必要か」という質問が出されることがありますが、それは宗祖の教えをまだよく理解していないといわざるを得ません。私たちは何を信じるかというと「念仏せよ」という本願の勅命を信じるのです。そうすると、それを信じたすがたは当然「念仏するのみ」ということになります。ある教えを信じたならば、その教えのごとくなるのです。したがって、「ただ信じる」ということと「ただ念仏する」ということは、実は一つのことなのです。

そのような意味で、私たちにとって最も重要なことは「ただ念仏せよ」という阿弥陀仏の教えに從うということなのです。まさに、阿弥陀仏の言葉を信じる=ただ念仏申す、それが真宗者のすべてになるのです。

『仏法を聞かねば たたりやバチを恐れる』

辞書には「神仏・怨霊などが災いをする」ことを「たたり」、「神仏が人の悪行を懲らすこと、悪事のむくい」を「バチ」と説明してあります。

つまり、たたりもバチも目に見えない、人間を超えた力によってもたらされる災いや不幸だと理解されている訳です。

ここで気になるのは、仏さまが「たたり・バチ」を与える片棒を担がされていることです。

このような誤解は、まさに「仏法を聞かない」ところから生まれたのだといわざるを得ません。

なぜなら、仏さまとはそのような畏れから人間を解き放つ存在だからです。

私達の人生は決して自分の思い通りに行くことばかりではありません。

生老病死の四苦を始めとして、むしろ思い通りに行かないことが満ち溢れてさえいます。

その事実に目を向け、自分の身に起ったことを引き受けていく勇気を「智慧(ちえ)」といいます。

一方、上手く行かないことの一つひとつを責任転嫁していく在り方を「愚痴(ぐち)」といいます。

一度限りの人生を智慧の光に照らされて生きるか、愚痴の闇に迷い、たたりやバチを畏れて惑うか。

それはただ仏法を聞き得るかどうかにかかっていると言えます。

浄土真宗の生活

無戒名字の比丘

親鸞聖人(以下、宗祖)は末法時代の仏教を

「五濁増のしるしには この世の道俗ことごとく 外儀は仏教のすがたにて 内心外道を帰敬せり」

と、見抜かれ悲嘆されます。ここで特に注意すべきは「この世の道俗ことごとく」の一言で、当然ながらこには宗祖ご自身も含まれているということです。

決して宗祖は、自分をこの状態の外に置いて、末法の仏教教団を批判しておられるのではありません。

またこのご和讃は、現実の仏教者の「善・悪」を述べておられるのではなく、これ以外に末法の仏教者の現状はないことを明らかにしておられるのだといえます。

では末法時代の仏教者はどのような姿をしているのでしょうか。

宗祖は「教行信証」の「化巻」において『末法灯明記』を引用して、末法時代の仏教者の姿を次のように語られます。

そこではまず『大術経』によって像法時代の百年ごとの仏教教団の乱れ行く状態が描かれています。

 

「仏滅後千年を過ぎると世の中が大いに乱れ、仏教者は教団の規定を平気で破り始める。

そして、千二百年では諸の僧や尼らに子どもができる。

千三百年では、袈裟が変じて白くなる(「白くなる」とはきらびやかになることで、袈裟や衣が華美で金や銀で飾られ、色もとりどり鮮やかになること)。

千四百年では、僧も尼も男女の信者も皆猟師のように獲物をあさるようになり、世俗の遊びに興じて三宝物(寺の宝物)を売るようになる。

千五百年では、二人の僧が争って殺し合いを始める。」

 

と説かれています。

そうして末法時代に入ります。

したがって末法時代には「仏法」は教えとしては残るのですが「戒・定・慧」を保つ者はありません。

それ故に、この世は戒律を守ることもなく世俗の中にあって生きる「無戒名字の比丘」のみとなります。

姿は仏教の教えによって、頭をまるめ袈裟を着ているのですが、内心は外道であって、心の中は欲望に満ちており、ただ財産や名誉を求めることに懸命になり、子どもの手を携えて酒場を飲み歩き世俗の遊びに興じる、それが末法時代の仏教者の姿に他ならないといわれるのです。

そうするとこの世は、二種類の人しかいなくなります。末法の時代は、ただ世俗的欲望のみが盛んになるため、何人の心も欲望に満ちています。その点において人の心には、全く違いがなくなりますが、一はその中にあって仏教の法衣を着ている名ばかりの僧(無戒名字の比丘)、二は心も姿も欲望に満ちている俗人、という二種類です。

さてここで、この無常の世の私たちの日常生活における「悪」の状態が問題になります。

どのような世の中においても、人は結局、老・病・死の苦悩や恐怖を免れることはできません。

幸福の最中にあって、突然どうしようもない破綻が起こります。

科学的な生活に破れ、他の宗教でも救われない、そのような人生における最悪の苦悩に陥ったとき、私たちはどうすればよいのでしょうか。

やはり無常を超える法を説く仏教に救いを求めざるを得なくなるのだと思われます。

ところが、この仏教教団にも悲しいことにただ欲望に満ちた無戒名字の比丘しか存在しません。この場合、救いを求める俗人の心も世俗的欲望のみであり、救うべき立場にある僧侶の心もまた欲望で満ちています。ここに果たして、真の意味での仏教的救いが成り立つのでしょうか。

 

ここで袈裟を着た名ばかりの僧侶に、何が求められているかが問われます。

この時、得に注意しなければならないことは、だからこそあなたがたは、自分が名ばかりの僧侶であることを深く反省し懺悔して「真の比丘になれ」といわれているのではないというこです。

末法の世において、無戒名字の比丘が、ほんの少し外道の真似ごとのような行をして、もし自分は聖者になったと錯覚すればどうでしょうか。

この者の姿は都会に虎が放たれ遊んでいるようなもので、それこそ怪しげで、かえって危険極まりない存在になってしまいます。

したがって、袈裟を着る僧侶は、真の仏道を何一つなしえない自分を心の底から深く恥じらい、まさに無戒名字の比丘でしか有り得ないことを明確に自覚し慙愧するのみだといわねばなりません。

 

ところで大衆は、この名ばかりの僧侶に帰依し仏法の功徳を得ようと集まりって来ます。

大衆のこの心はも世俗的欲望を満たすためのさらなる救いを求めているのですから、より一層の不幸に堕する方向でしかありません。

『末法灯明記』には、ほぼこのようなことが説かれていますが、では宗祖はこの書を通して一体、何をいいたかったのでしょうか。

 

末法時代における「無戒名字の比丘」の真のあり方がここで問われているように思われます。

そのためには、次の点をはっきりと抑えておかなくてはなりません。

  1. 末法時代であっても、仏法のみが衆生を救うのであって、それ以外の宗教には、真に衆生を救う道はありえない。
  2. いまの仏教者は、ただ仏教の衣を着ている無戒名字の比丘でしかないが、この者以外に真に衆生を救う者がいないとすれば、この仏教の衣を着ている無戒名字の比丘こそが、この世で最も尊い存在になる。
  3. なぜなら大衆は、この仏法者に出遇う「縁」に恵まれて、はじめて真実の救いを得る道が開かれることになるからです。

とすれば、無戒名字の比丘の責任は、極めて重くなるといわねばなりません。

では、この無戒名字の比丘に、何が求められることになるのでしょうか。

ほぼ次の二点に尽きるように思われます。

  • 一は、大衆に対して、出来る限り、仏縁に出会わせる場を作る。
  • 二は、この人々に対して、この末法時代においても輝いている真の仏法を語る。

 

このうち、一は主として宗教儀礼の問題になります。

末法の世において、欲望に満ちた人々を引き付けるためにはどうすればよいでしようか。

まず、威容を誇り宗教的雰囲気をかもしだす寺院建築が求められます。

法要儀式においては、堂内が飾りつけで見事に荘厳され、法衣は色衣になり、袈裟は金銀で飾られます。大衆を陶酔させる宗教音楽、厳かな読経、世俗的な人々に喜びを与える説法、そして大衆を引き付ける催し物、等々が考えられます。

ただしこれらは、外から見れば仏法だとしても、その内心はやはり外道だといわねばなりません。

けれども末法においては、大衆を仏縁に出会わせるために、このような方法しかないのであれば、自分は無戒名字の比丘でしかないことを自覚した上で、しかも外道の道しか歩めない自分に、大きな悲しみと恥じらいを抱かざるをえなくなります。

では、二はどうでしょうか。

この末法の時代に、人々に真実の仏法を語ることが出来る可能性は、果たしてあるのでしょうか。

そしてもしあるとして、それは一体誰がなしうるのでしょうか。

 

この実践の可能性は、浄土真宗においては、すでにこの教えに心が開かれている者においてのみといえましょうか。

端的にはにはそれは真実の信心を獲得している念仏者ということになります。

ここで法然上人や宗祖の日常生活の姿をうかがういますと、お二人とも日常生活の中で念仏を称え、念仏の法門を人々に伝えられたのですが、なぜそれが可能だったのでしょうか。

いうまでもなく、人徳が人を引きつけたのであり、その説法に大きな魅力が備わっていたからに違いありません。

ただし、お二人が人々を魅了した力は決して聖者としての超能力的なカリスマ性ではなく、むしろ客観的に見ればその反対で「愚」の自覚者としての深い人格的な魅力がそうせしめたと推察されます。

 

仏学道という面から見れば、両人とも非常に高い仏教の学問を身につけ、深く智慧を磨いておられます。

そして人間道という面から見ても、日常の生活の中では何ら倫理的過ちを犯してはおられません。

もちろん現代でもそうですが、生活が淫らであってしかも大衆から尊敬を受けるなどということはあり得ません。

共に仏道者としての自分を「無戒名字の比丘」でしかないと、非常に深い恥じらいの心で捉えておられるのですが、その慙愧の心こそが人々を引きつけ、その人徳にひかれ、その膝下に教えを聞くために人々が集まったのだと思われます。

では、お二人はどのような教えを人々に語られたのでしょうか。『歎異抄』に

親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべしと、よきひとのおほせをかふりて信ずるほかに別の子細なきなり

と述べられてありますが、日々の生活で「ただ念仏を称えて阿弥陀仏に救われよ」と、たんたんと念仏の法門を語っておられるにすぎません。けれどもまさにこの時の姿は「大悲が弘く普く教化する」という立場にほかなりません。これは善導大師の『往生礼賛』に見られる「大悲伝普化」という文の「伝」の字を知昇の『懺儀文』によって「弘」と捉え、そこに聖人独自の読みを施されたものです。

善導大師は仏法の伝道について、自ら信じ人を教えて信ぜしめることは難中の難である。だからこそ、仏の大悲を伝えて、普く人を教化するのが、真に仏恩に報じることだと、説かれ間か。けれども聖人は、末法の世においては、仏法を自ら信じ人に教えて信ぜしめることが難中の難であるとすれば、私たち凡夫には到底不可能である。それにもかかわらず、仏法がこの世に広まっているのは、まさに大悲が自然にはたらいて弘く普く衆生を教化している。したがって、この真理に気づくことこそ、「真に仏恩を報ずるに成る」と見られるのです。ではこの「仏恩を報ずるに成る」とは、どのような意味なのでしょうか。

この「報恩」を宗祖は、曇鸞大師の教えを通して

「恩を知りて徳を報ずる。理よろしく先ず啓すべし」

と理解されます。その教えの真理が教えを求める者の心に先ず啓発されて、はじめて人はその恩を知り自ずから教えを受けた恩に報いようと努力する、と受け止められるのです。では獲信の念仏者にどのような真理が啓発されるのでしょうか。私たちの五濁悪世の末法の世においては、ただ迷いの因と縁のみが逆巻いています。この現実において凡愚は本来、仏法と出遇う縁などありえません。にもかかわらずその凡夫がいま直ちに仏果に至るべき念仏の法門を聞かされているのです。しかもその聞法によって、無限に輝く南無阿弥陀仏に無条件で摂取されている自分を見るに至っています。

だからこそ、ここに無限の歓喜が湧いてくるのであって、これに勝る喜びはありません。「自分はいま無限の輝きに生かされて真実の喜びの中にある」それは、阿弥陀仏の法が、自然のはたらきとしてこの人の心に念仏の真理を啓発したことに他なりませんが、まさにその喜びこそが仏恩を知った者の姿になるのです。

このような意味で「報ずるに成る」とは、まさに念仏の真理を知った「喜びの姿」だといえます。そしてこの念仏を喜ぶ人は、日常の生活においてただ念仏を称え、その法の真理を人々と共に讃嘆することになります。それは、末法の人々に伝える働きの姿となりますが、そこには自分が念仏の教えを伝えるという意識や力みはみられません。にもかかわらず、この人の周囲には人々が集まり、念仏の法が喜ばれ、自然に念仏の法が伝わっています。大悲の法が必然的に輝き、この世で躍動しているのです。けれども、この念仏の法が法として伝わるのは、現実世界においてはやはり獲信の念仏者によっています。ではこの獲信の念仏者はどのような日常生活を送っているのでしょうか。            ここで再び「無戒名字の比丘」の姿が問題になります。宗祖はこの自分の姿を「非僧非俗」と宣言されます。『自分は国家権力の猥りがわしい裁きによって僧籍を剥奪それ還俗させられて姓名を賜った。それ故に自分は已に

「僧に非ず俗に非ず」

だと宣告し、「禿」の字をもって姓として愚禿釈親鸞と名乗ったのである。国が定める「戒律」を守る僧ではないが、自分はどこまでも仏法の衣を着ている僧だ。』という立場を取られます。

今日の日本における仏教教団は国が定める法の支配下にあります。具体的には、宗教法人法という所謂「俗法」のもとで、各々の教団が存続せしめられています。しかも世俗の法・役人の命によって仏法者の行動が義務付けられているのであって、決して純粋に仏法の戒律に基づいた行動を仏教者がとっているのではありません。いわば世俗の法に保護されて各々の仏教教団が各自の宗制・作法を作って仏教の衣を着ているに過ぎません。ただし、これ以外に現実の仏教教団の姿がないのだとすれば、この現状の中でいかにして真の仏法がこの世に伝わるかを仏教者は真摯に求めなくてはならないといえます。『歎異抄』はこの現実における唯一の仏教を

煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもて、そらごとたわごとまことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします。

と語ります。この世はなぜ、念仏のみが「まこと」なのでしょうか。私たちの心が、世俗的欲望のみで満ちているかぎり、その人の行為の一切に真実は見られません。私たちの人間社会は、この不実な者の集まりによって成り立っています。だからこそこの世は迷いなのだといえます。ではこの火宅無常の世界にあって、もし迷いを超える道があるとすれば、それは何でしょうか。この迷いを破る仏の法に出遇う以外に道はありません。「念仏のみぞまこと」とは、この末法の世において、私たち凡夫の前に顕現する真の仏は、ただ「南無阿弥陀仏」のみだと宗祖は見られるのです。真実の仏と凡夫との接点は、ただ音声によるしかありません。相好にふれることは不可能だからです。それ故、阿弥陀仏の大悲の光明が衆生を摂取するために南無阿弥陀仏となって称名する衆生に来たっているのです。

自らの愚悪性に慙愧する「無戒名字の比丘」のみが、この念仏の真理に出遇います。それは心が弥陀の本願を聞くために開かれているからです。そしてこの比丘の人徳にふれた大衆がまたその念仏の法門を聞き、自分たちもまた真実慙愧する人になっていくのです。とすればここに、

「獲信の念仏者が未信の念仏者にただ念仏の真実を語り、未信の念仏者が獲信の念仏者から、ただ念仏の真実を聞く」

という関係が成り立ちます。この人たちの日常には、仏法者として自分の愚かさに気づかされながら、人間のどうすることもできない不実性、愚悪性を信知することにおいて、弥陀の大悲、念仏の功徳を喜ぶ日々が開かれています。そうすると、この念仏者にとっての日常は、せめて人間として倫理的によく生きようと努力しているということができます。真実よく生きようと努力する者のみが、まさしく慙愧するからです。ここに、念仏を喜ぶ浄土真宗の生活があります。