投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

報恩 おかげさまと 生かされて

 「知恩報徳」という言葉があります。

「恩を知り、徳に報いる」ということで、この言葉から「報恩」あるいは「恩徳」という言葉が成り立っているように思われます。

いずれの言葉にも「恩」という文字が含まれていますが、この「恩」は「因を知る心」を表しています。

 「因」とは「原因」のことで、仏教では「結果から見ると、必ずそこには原因がある」と説きます。

例えば、美しく咲いた花という結果から見ると、そこには原因となる種の存在があります。

このような意味で「恩」とは、いま自分が受けている恵みの原因を知る心だと言えます。

 これと同じような言葉に「お陰さま」という言葉があります。

これは同様に、いま自分が受けている恩恵のまさに「陰」の部分を知り、感謝の思いを表す言葉です。

何事も「当たり前」と思っている心からは決して出てはこない謙虚な言葉です。

 さて、この一年を振り返ってみると、私は周囲の多くの方々に助けられ、支えられ、また海の大地の無数の生きもののいのちを頂いて、それらの「お陰さまに生かされて来た」のでした。

そのご恩を知り、少しでもその徳に報いていけるように努めていきたいものです。

仏教入門

仏教にはさまざまな教えや行道があって、その共通する真理は何かが、よくわかりません。いったい、共通する真理は何なのでしょうか?ものごとをごまかさないで、そのごとく見る。これを仏教の言葉で「如実知見(にょじつちけん)」といいますが、ものの本質をありのまま見極めるところに、仏教の共通点があるように思われます。そこで自分の目を見開いて、外界をその通りにごまかさないで見つめることにします。そうすると、外界の一切は一瞬として留まることなく、すべてが流されるように動いているという真理を知ることができます。この世の常なるものはなく、一切が動き変化する。そこでこの真理を仏教では「諸行無常(しょぎょうむじょう)」といい、教えの一つの根本真理とします。

今度は、外界を眺めていた目を内に向けます。自分の心をごまかさないで見つめてみると、外界には常なるものが何一つないという真理を知ることによって、自分もまた例外ではないことが明らかになります。自分自身、心も肉体も絶えず動いており、ここにこのような「己」がいるという、確固不動の永遠に変化しない「我」は存在しなくなります。この真理が「諸法無我(しょほうむが)」と呼ばれ、いま一つの真理となります。私たちの日常は、ここに私がいる、これは私のものだという「我」を持って生活を営んでいるのですが、それは錯覚であって、本来そのような「我」は存在しないのです。

にもかかわらず、私たちは私という我に取りつかれて、どうすれば私は健康でいられるか、幸福な生活を続けることができるかどうかと、毎日あれこれとはからう心に惑わされています。ではこの「はからう心」は何から起こるのでしょうか。これを仏教では、それに執着すること、欲望から起こると教えます。世に常なるものはなく、それは己のものだという我もまた存在しない。それなのに私たちは、若さに執着し、いつまでも若くありたいと願い、心身に執着して、健康でいたいと欲し続ける。そのはからう心が、私を惑わせ苦しめているのだとすれば、要はその執着する心を除けばよいということになります。

そこで仏教では「諸行無常」「諸法無我」の真理を、ごまかすことなく見つめさせ、迷いの根源である執着心を滅せよ、と説くのです。こうして、執着心を滅することによって、私たちの迷いの苦しみ・悩みはなくなり、私は寂静でやすらかな心に至ります。これが「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」と呼ばれる、第三の真理で、いかなるものにも迷わず、どのような誘惑にも破られない「覚りの心」なのです。

確かに、仏教にはさまざまな教えが見られます。ある教えでは厳しい行道が求められ、また他の教えでは仏さまの大悲を信じる「信」が尊ばれます。けれども、つまるところ各々の教えはこの三つの真理を見つめさせようとしているのであり、そのような意味で三つの真理が仏教全体に共通する理念だといえます。とすれば、この三つの真理があればそれは仏教だということになり、この真理が仏教であるか否かを見分ける目印になります。そこでこの三つの旗を立てて「三法印(さんぽういん)」と呼び、これこそが仏教だとするのです。

ところが現実はどうでしょうか。私たちはこの教えを聞き学ぶことによって、心がやすらかになり、寂静の境地に至り得ているでしょうか。決してそうではありません。目を外にして外界を眺めると、宇宙の一切は一瞬として留まることなく動いています。諸行は無常であるという真理は、まさしくその通りであって、わが身の全体も常に動いており、私自身には永遠に砕かれない確固不動の「我」など存在しません。この真理にも、私たちは素直に頷くことができます。仏教の根本原理は、すべてが因と縁によって生じると説く「縁起の法」だといわれますが、この諸行は無常であり、諸法は無我だという教えの真理こそ、縁起の法そのものだといえるのですが、この教えをいかに聞き学んだとしても、私の心にはそれほど大きな変化は起こらず、やはり苦しみと迷いの中にあって、とても「涅槃寂静」の境地に至ることはできません。それはなぜでしょうか。

そこで、ここにいま一つの真理が導かれることになります。それは、諸行は無常であり諸法は無我だという教えを聞いて、まことにその通りだと学んだとしても、けれども自分だけは例外でありたい、という心は消えないという真理です。自分だけは幸福のまま常でいたい、私だけは死にたくない、という願いは絶対に消すことができません。それは愚かな人間のはからいの心であり、欲望から起こっているといかに教えられても、この欲望は消えないのです。それはまさしく仏法の真理の流れに逆らっています。その逆らいが自分自身を根本的に苦しめることになるのです。この根本苦が「一切皆苦(いっさいかいく)」と呼ばれるいま一つの真理で、先の「三法印」が覚りの真理だとしますと。この「一切皆苦」は迷いの真理でこの真理を加えますと仏教の旗印は「四法印」になります。

親鸞聖人は愚かな凡夫の心について、人間の欲望は、つまるところ「愛欲」と「名利(みょうり)」になってしまうと述べておられます。愛欲とは、欲しいものが欲しい、欲しくないものは欲しくないという欲望です。名利とは、他人に対して自分をよく見せたい、他人からよく思われたいという欲望だといえます。そのような欲望を実現させることは不可能で、その欲望こそ迷いの心であり、はからいの心だ、覚りはこの欲望を断ち切ることで、そこに「涅槃寂静」の世界があると教えられても、そのやすらぎの心を得ようとしないで、私たちはどこまでも愛欲と名利にしがみついてしまいます。凡夫の心はそれ以外にないと親鸞聖人は教えられます。

「はからいの心は欲から起こる」という仏教の教えは大切です。迷いの原因である」はからい」を破るための真理だからです。けれどもその真理に、迷いそのものの真理も含まれているといれば、欲望を断ち切るのではなくて、欲望の中で欲望を超える仏道が、いま一つなければならなくなります。

報恩 おかげさまと 生かされて

 あなたは、日頃どういう時に「ありがとうございます」と言いますか? 誰かに何かを頂いた時ですか? それとも何かをしてもらった時ですか? 私達は、必ず他人に助けてもらったり、何か物をもらったりした時にはお礼の言葉を口にします。

 「ありがとう」と、その一言を言ったり、言われたりするだけで、私達の気持ちはなごやかになります。

「ありがとう」は感謝のこころを表す言葉ですが、一日の生活を振り返ってみた時に、この言葉をどこか口にする場面がありますか? また、その感謝の思いを持つことがありますか?

 例えば、食事の時には「いただきます」と手を合わせますが、これは感謝を表す行為です。

食事とは「いのちをいただくこと」に他ならないからです。

「この命をいただいているお陰で、私の命が長らえている」との思いが、感謝の思いとなり手を合わさせるのです。

 私達は、決して一人では生きていけない存在です。

動物や植物の命をいただき、周りの人々に支えられて、まさに「生かされて」生きています。

この事実に目覚め、「お蔭さま」と思う心を忘れることなく、一日一日を過ごして行きたいものです。

手間ひまかけることを 大切に

 人間の歴史は、私達が「こうなればいいな」と夢見たことを多くの人々があらゆる限りの力を振り絞って実現して来た、言うなれば「人々の夢をかなえること」の連続であったといえます。

もちろん、今でも人々は夢や希望の実現に向けて努力し続けています。

 

 けれども、その一方で私たちは何か大切なものを失ってしまうことがあります。

例えば、開発を進めることで、より快適な生活を享受しているのですが、それは豊かな自然環境や多くの動植物の生態系の破壊と引き換えに成り立っていたりすることがあるのです。

 

 時折、テレビで日本各地の伝統的に技術・産業、あるいは地域の様子が紹介されます。

それらの中には、どれほど時代が移り変わっても「昔ながらの方法」で作られているものが少なくありません。

むしろ、これまで受け継がれてきた手間とひまをかけることが何よりも大切にされているようです。

 

 あたらしい技術の進歩や発達には驚いてもやがて慣れます。

けれども、多くの人々によって受け継がれて来た昔ながらの手間ひまをかけて出来上がったものに出会うと感動します。

いま私達は後の世の人々に何を伝え残せるか。

手間ひまをかけて大切に考えたいものです。

親鸞思想の特徴

親鸞聖人(以下、宗祖)の思想をどのように理解するか。それは、その主著である「教行信証」の性格をどのように見るかによって左右されるといっても過言ではありません。この場合、種々の見方が成立することと思われますが、大別すれば次の二種の見方におさまるようです。一は伝統的な立場で、宗祖の信仰告白の書とする見方。二は、歴史的な背景を踏まえて批判書とする見方です。後者は、高弁の「摧邪輪」に見られる法然批判に対する解答の書、あるいは「承元の法難」に対する国家批判の書とする考えに基づくものです。確かに、これらの諸問題は、宗祖自身が直接かかわられた大問題である以上、そのことと全く無関係に「教行信証」が成立していることなどありえないことは自明のことです。

けれども「教行信証」の全体の流れから窺うに、それを以てそのまま製作の意図とすることには無理があるのではないでしょうか。なぜなら、国家批判の立場においては「証巻」「真仏土巻」は全く無関係な部分になってしまうからです。それ故、後者の見方はあくまでも「教行信証」の部分的な問題しかとらえていないといわざるを得ず、したがってこのような視点からは「教行信証」全体の構造は解明されませんし、宗祖の思想についても部分的な理解に終わるおそれがあります。このような意味で、「教行信証」は伝統的な信仰告白の書として受け止めて行くべきであり、批判書的見方で完結してしまうことのないように留意することが大切であると思われます。

ところで、なぜ「教行信証」を批判書とするような見方が成立したのでしょうか。それは今日の私たちの考え方が、基本的にそのような立場をとっているからです。つまり、人間生活の中で常に物事を対立的に見ようとする、いわゆる「生活論」にしか、関心を寄せることが出来なくなってしまっているからにほかなりません。

一般に、このような傾向を「世俗化」と呼んでいますが、それは長い間にわたって、主体的に受け止められ、歴史的にも承認されてきた、宗教の持つ普遍的な意味が、主体的にも社会的にも失われてゆくような状況を物語る言葉であり、換言すればこれまで聖なる領域として存在し得たものが一々否定されてゆき、それに代わって俗なる領域が深く浸透し拡大してゆくという、現代社会が呈示している状況をこの言葉は指摘しています。したがって「この世の中における私たちの幸福」、そのような世俗の「生活」の面にしか私たちは心をくだき得なくなってしまっているのです。それがこのようなとらえ方を生み出した理由だといえます。

一方、宗祖の思想の一つの特徴は「生活論」がほとんど見いだせない点にあります。「末灯鈔」や「御消息集」などでは二三、生活論に関する記述が見られなくもありませんが、むしろそれらはご門徒の求めに応じて答えられたもので例外に属し、宗祖自らが内より論じておられる著述では基本的に生活論は存在しないといえます。なぜなら宗祖の関心事は、私たちが一般に抱く日常生活の「善・悪の問題」、人生をいかに上手に生きるかという点にあったのではなく、常に真実の仏道を求め、生死を超えるという究極の問題のみにあったからです。ところが、既に述べたように、現代の私たちが抱いている関心事は日常の生活の場にしかありません。このために、生死を超える問題を求めている宗祖の思想を、生活の場でしか理解することが出来なくなってしまったのだといえます。「教行信証」を国家批判の書と見る立場など、まさしくその典型です。

これまでの宗祖論をみますと、一方ではその思想の純粋性を強調しつつ、世界平和の問題、国家権力との対応、差別との闘い、科学思想との対決等の事柄に宗祖の思想を重ねて、このような点を抜きにしては親鸞思想は語り得ないとする主張があります。これに対して他方では、教団をいかに発展させるかという立場から、むしろ宗祖の思想とわが国の習俗・習慣との調和を主張する流れも見られます。一見、両者とも宗祖の信心を深く求めようとしながら、根本的には世俗の面でしか宗祖の思想をとらえていないといわざるを得ません。

私たちが今日、この現実社会を生きるためには、その人がいかに真実信心の念仏者であったとしても、また念仏教団がいかに教団の純粋性を保とうとしても、世俗社会の生活面を抜きにして生存することは不可能に近いといえます。その意味では、真宗者の一人ひとりが今日の諸問題と真剣に深く関わることが大切であって、これらの問題を避けては現代社会を生き抜くことは出来ません。ただし、ここで私たちが特に注意しなければならないことは、これらの諸問題はあくまでも現代社会の特殊性から生じた、現代に生きる「人間」としての重要課題だということです。

したがって、私自身が現代に生きる人間である限り、たとえ私がいかなる人間であろうとも、仮に念仏の教えとは全く無関係な者であったとしても、人間共通の課題としてこれらの事柄は当然真剣に考えていかなくてはならないのです。したがって、これを換言すれば、これらの諸問題は真宗門徒(念仏者)の特殊性なのではなく、ましてや親鸞思想の中心問題ではないのです。重ねていうならば、親鸞思想の根本は、このような現代社会の諸問題に直接応えるものではありません。ただし、確認の意味で重ねて述べるならば、だからといって念仏者は現代の諸問題を無視せよと言っているのではないということです。人間としてこの世を生きている限り、現実社会との関わりなくして生きることは極めて困難です。その意味でも、私たち宗祖の教えに依って生きようとする者は、誰しも今日の重要課題に深い関心を持ち、その事柄と真剣に取り組んでいく必要があります。

けれども、その場合現代の諸問題に、信心の有無を直接からませるべきではないということをいいたいのです。例えば、具体的なこととして「平和問題」をスローガンに掲げたとします。そしてこの運動に賛成する者が真実の信心に生きる者だといった見方。あるいは、国家権力を示して、少なくとも宗祖の信心は庶民の側にあったというような解釈。これらは、その大前提をなしている発想そのものが、根本的に誤っていると見なければなりません。自明のことですが基本的に平和を愛さない者は人間として失格です。これは仏教徒であろうと、その他の宗教者であろうと同じです。

ところが、これが平和運動となると話は別です。そこには人間の恣意が混入するために、当然の帰結としてこの運動に対する賛成・反対の二者が生じます。まさに人間の行う「運動」である以上、それは「雑毒の善」でしかなく、もちろん阿弥陀仏の信心と重なることなどあり得ません。宗祖が当時の仏教の姿を「外儀は仏教の姿にて内心外道を帰敬せり」と悲嘆しておられますが、現代の仏教教団にあっても同様のことが見られます。

このような構造を見通すことが出来ないままに、世俗の問題をあたかも仏教の課題であるかのように錯覚していることに気づき得ないだけでなく、自らのあり方の「基本」に据えて「運動」として推進する人がいるのですが、その人の周辺では、念仏の教えを求めて集まってきた人々が、突然身に覚えのないことへの反省を求められたり、様々な意識改革を迫られたりする一方、念仏の教えそのものが説かれなかったり、み教えを聞くことを通して出遇えるであろう宗教的喜びを与えられないということに困惑し、大きな失望感に包まれています。

けれども、その運動に邁進する人は自らの正当性に固執するあまり視野競作に陥っているので、自らが引き起こしている悲劇的現象になかなか気づき得ないでいます。蓮如上人が「いくら自分が正しいと思っても、そのことにどこまでも固執すると、その過程において周囲の人々を傷つけ、困らせ、迷惑をかけて、最後には誰からもそのようなあり方は間違いであると否定される」というようなことを注意しておられますが、このような事象を見ると「なるほど!」と頷されることです。

さらに、これは国家権力に対する見方についても同様です。確かに、宗祖の思想は当時の庶民の心に強く響きました。だからといって直ちに宗祖の信心がこのことをもってそのまま庶民の側にあるというような論理は成り立ちません。なぜなら宗祖は「弥陀の本願には老少善悪の人を選ばれず」と述べておられるように、全ての人々に「弥陀廻向の信心を獲得せよ」と説かれたのであり、そこには権力の側にあった天皇・貴族と庶民とを分けてはおられないからです。

改めて、ここで言いたいのは「宗祖の信心の問題と現代社会の諸問題とは、直接的には重ならない」ということです。現代の諸問題は、どこまでも自分自身の知性・理性によって判断すれば良いのであって、その解決にいちいち宗祖の思想を仰ぎ求める必要はありません。

この場合、もし念仏者として問われることがあるとすれば、それは自分自身がいかなる信心の立場にたっているかということです。私の依って立つ場、究極的関心事が果たして宗祖の究極的関心事と同一の基盤にあるか否かが重要なのです。その人の心が、真の意味で宗祖の信心の構造と同一であるならば、もはやその人には宗祖の言葉をいちいち探し求める必要などありません。その人自身がどのような行動をとろうとも、そこには真実の信心が燦然と輝いているはずだからです。親鸞聖人は、世俗の生活論の基盤で信心を問題にされたのではありません。とすれば、私たちもまた生活論を離れて、親鸞聖人の信心の構造そのものをもっと深く見つめることが大切だと思われます。

手間ひまかけることを 大切に

 御正忌報恩講の法要期間中に、お参りに来られたご門徒に対して「お斎(とき)」を振る舞われるお寺はまだまだ多く残っているようですが、最近はどこのお寺でも続けていくのはなかなか難しいのが内情のようです。

その一番の理由が、お手伝いくださる方々の確保の難しさです。

 ご門徒の方と、お寺との関係が次第に希薄になっている現代では致し方のないことかもしれませんが、少し寂しい気がします。

本願寺八世蓮如上人は「夏にお参りに来られた方には冷や酒で、冬に来られた方には熱燗で…」と、心のこもったもてなしにおこころ砕かれました。

 私達の先祖の方々は、宗祖親鸞聖人のご命日をお勤めする報恩講には、その九十年のご生涯におけるさまざまなご苦労を偲びながら、手間とひまをかけてお斎を作り、それを共に食べながら、知恩報徳の思いを捧げてきました。

親から子へ、子から孫へと…。

 最近は、葬儀や年回法要のお斎も大半はお弁当屋さんに任せることが主流になっています。

忙しさを言い訳に、つい便利さに流れてしまうのですが、せめて一品でも亡くなった方のお好きであられた(精進)料理を作り、共に食べながらその恩徳を偲びたいものです。